人というものは変わるものだ。変わらねばならないから変わるのだ。そして、変わってはいけないのに変わるのだ。あらゆるものが変わっていくのだから、人もそれが自然の在り方だ。身長が変わり、体重が変わり、声が変わり、顔も変わっていく。気分や気持ち、欲望や考え方などは常時変わってとどまることがない。収入も支出も変わり、地位も名声も変わっていく。人間関係はもちろんのこと、記憶も変わり、何より日々余命が変わっていく。そうした中で例外的に変わりにくいのは名前だ。その変わらない名前にすがってやっと人は正気を保っているかのようも見える。
もともと宇宙は刻々と変わっていく存在なのだから、その大自然の中でかろうじてうまれた人間のつくった浅はかで儚いこの世などがどうして変わらずにおられよう。つまるところ、変わらないものは自然を超越した存在だけだということになるのだろう。それを神と呼ぶことにしよう。太陽でも宇宙でもなく、物でもなく、意思でもない。だから、変わることがない。それは怒ることもなく、気まぐれもなく、消え去ることもなく、現れることも隠れることもなく、ただあるのだ。
この不自然なもの、いや非自然なものが、自然を自然たらしめ、自然を愛し、自然を見守っていると思いたい。そうしておいたほうが、案外と具合がよさそうではないか。そして、神は完全だということにしておこう。それは自然のように分化していったものではなく、未分化の状態で何ものでもないがという意味合いでの完全だ。この完全と、僕たちの日常生活の感覚でいうことろの完全とは意味が全く異なっている。合目的的に完全なのではなく、存在として完全だということだ。そして、何ものでもないが故の不可侵だ。まさしく文字通り、自然の延長線上にあるこの世には有り難い存在なのだ。
ところで、人が変わらねばならない理由はいろいろあるが、そのおかげで人は生きていける。変わっていく周囲の状況に応じる必要があるから変わらざるを得ないということだ。だから、変われないことは苦しい。そして、本人が変わらなければ、その分だけ周りが余分に変わらねばならなくなる。だから、思わぬ変化を強いられて本来の自分の変化を鈍らされる周りも、そしてそれを自覚した本人もやはり苦しい。
神は変われない。変われないから変わらないのだ。そして、神は変わる。変わるけれども、変わらないものが神なので、変わったものは神以外のものになっていく。だから、結果として神は変わるということがない。変わらないのは、神が生きものである必要がないということもあるだろう。生き物から見れば不死であるとも言える。ただ、永遠にある。しかし、だから死にゆく僕たち、変わりゆく僕たちにはありがたい存在として感じられるように思う。
人は神に愛されたいとも思う。人にはない力で自分を幸福にしてくれるような感じがするからだ。人の心のような心は持たないために、裏切ることもないからだ。永遠のものから愛されたいという気持ちは、人がこの世のものであるがために、変わるものだからだろう。そして、はじめから叶うはずもない願いを叶わないと知りつつも神に願う。願うということ自体が幸せなことだからだ。永遠のものに願うことによって、孤独感から幾分解放されることがあるからだ。神と共にあるという意識を持てば、弱い心、変わりやすい心を補強し、行動を成し遂げる力になるからだ。
もちろん、この世にはないものだから、日常的な感覚でいうところの「共にある」というというわけにはいかない。願うこと思うことによってのみつながりを持てる。そういう意味での「共にある」だ。だからこそ、神の救いは奇跡なのだ。実際に神が手を下すわけではないから、救ったように見える結果となる確率は低く、だからこそ有り難く、奇跡だということになる。
もっとも、神と「共にある」ということの勘違いから、無謀な行動を平気で行えるようになるという効果は無視できないから、神が救ったように見える結果となる確率は実際よりも幾分かは高くなる。そこに信仰の妙味がある。
さて、変わることには面白くて楽しい面もある。そこに目を向ければ、変われることはありがたい。またそうでなくても、逆に変わりなくあり続けていてくれるものに目を向ければ、その神の存在を尊く感じられる。どちらにしても、変わりなきものである神を信仰し、その神に見守られながら変わっていくことを幸せに感じていける。それはとても幸福なことだ。
ただ、変わることが面白くて楽しいために、とめどなく変わり続けようとすると不幸に陥る。どこかで収束させなければならないものを直線的に拡大させてしまう愚かさを人は持っている。そのために自ら破滅したり、破滅の速度を速めたり、他と衝突して双方の不幸を招いたりすることが簡単に予想されるのに、頭にそれが浮かばないという愚かさだ。
これを踏まえて、神という言葉には、人間が暴走して自ら滅びないように、そして不必要に悲しくならないように想定した存在だという意味合いをもたせてもよい。だから、想定した人々の数の分だけ、いろいろの神がうみだされた。昔の人々の知恵だ。知恵なのだから活用するのがよかろう。
ただし、神と見なした何ものでもないものは、あらゆるものに関わっていること、あらゆるものをつくりあげている根拠となっていることであることが必要だ。そうすればいかにも崇拝するにふさわしいではないか。真なるものは理解しがたいという路線でもよいが、善か悪かというわかりやすいモデルとしていく路線でもよい。兎にも角にも、必要とする人々にとって都合のよいモデルであればよいのだ。
いずれにしても、人々が生活に追われ、絶望して己を失っているような時代では、理由はともかく信じるという方法をとるのが人集めには現実的で有効な方法だ。神がいつの間にか宗教じみてしまったのも、それは神によるものではなく、宗教団体にとって信者を拡大するには神を活用するのが便利だったからだろう。
宗教団体による神の設定とそれに関連づけたタブーの設定によって、人の心を一つにし、人の心を一つにすることで平安をもたらそうとするのは、宗教団体に悪意がない限り、合理的な手法だと思う。もちろん、悪意がなくても結果的に人を不幸にする路線を歩んでいくということはある。まあ、知らぬが仏なのだが。
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