恐怖シリーズ249「バラエティーに富む死刑」①

 ニーズに合わないものは、価値が低い。価値が低いどころか場合によっては害悪となる。
 ニーズに合わせた死刑というものもあってよいかもしれない。それがないのは、大きな問題点があるからだろう。死刑自体が問題視されてもいる。死刑が必要な時代は過ぎ去ったのかもしれないが、そのような大雑把な感覚で、微妙な死刑の問題を論じること自体に大きな問題があるのは、誰でも気づいているはずだ。
 さて、誰のニーズかというと、まずは殺人事件の被害者の遺族、遺族が存在しないほどの大量殺戮であれば、被害者の知人たちだ。そして、加害者のニーズだ。これに社会のニーズも絡むだろう。
 ただ、社会の場合は、より多面性を持っているので、統一されたニーズを浮き彫りにはできまい。幼稚だが数の論理が横行するのを容認することになってしまう。だからこそ、専門機関が裁いて、死刑判決を出す意味がある。しかし、具体的な方法については、日本の場合は絞首刑となっている。その他、銃によるもの、薬物によるもの、電気椅子によるもの等々、国によって方法は異なるが、それらの死刑方法には、その方法が選択された根拠というものがそれぞれあるはずだ。
 その根拠が時代の流れによって左右されるようなものである場合には、再検討されて方法が変わることもあるだろう。最たるものは、死刑という名を使わない死刑、つまり終身刑のようなものが採用されることもある。単純に費用がかからないためとか、後始末がしやすいためとか、残虐性が比較的薄いためとか、確実性が高いためとか、いろいろな理由があるだろう。
 これまで被害者側のニーズに応える形式を取ってこなかったのは、極めて残虐な死刑方法が提案されるからだろう。その残虐さを非難するのは、社会的なモラルというようなものに代表されるようなものだ。しかし、被害者側にとっては、殺人という社会的なモラルを破った加害者に対しては、収監の待遇はともかくとして、処刑方法に社会的モラルを適応するのは論外だ。この被害者側の論理を無視するのが正義なら、死刑だろうが、終身刑だろうが、その他諸々の処罰なども不要ではないか。
 とにもかくにも、殺人事件の被害者側の人々を目の前にして、死刑廃止を唱える論法を少なくとも僕は持たない。死刑廃止論者は、なぜか被害者の遺族の前では沈黙する。それはなぜだろう。何か後ろめたさを感じるからではないのか。後ろめたい気持ちにさせる論理には何か嘘があるからだ。嘘でなければ、欠陥があるからだ。それを認めたくないゆえの沈黙だろうと言われてもしかたないだろう。世の中には不思議なことがよくあるが、不思議というよりも、これは珍妙なことだ。よく、被害者側の人が死刑廃止論者になった話が持ち出されるが、余程ねじ曲げて自分を納得することのできた例外中の例外の人だ。
 それは、長い年月の果てにそのように変わらざる得ないような、深刻な悲しみを、反対表現としての死刑廃止の訴えによって、合理化してのものであろう。または、現行の制度では、死刑を望んでも無理だと分かったとき、それでは死刑を主張すれば主張するほど、自分の心も救うことができなくなると諦め、どこまでも傷ついていく心を捨てるには、逆に死刑廃止を主張し始めるのだ。そのような運動や何かに対する行動を起こして打ち込まねば、とても正常な精神生活を送れないような、酷い悲しみを受けたのだ。あるいは、まさかとは思うが、殺された被害者に、もともとあまり愛情をかけてこなかった人なのであろうか。少なくともそうではないとは信じる。

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恐怖シリーズ248「ドッペルゲンゲル現象」

 今は「ドッペルゲンガー」と呼ぶことが普通のようだが、僕が最初目にしたのは、「ドッペルゲンゲル」だった。「ガー」は英語風で、「ゲル」はドイツ語風だ。「ドッペル」はドイツ語、英語では「ダブル」だから、「ドッペルゲンガー」よりも、「ドッペルゲンゲル」のほうが、単語の前半と後半の一貫性があるように思う。
 自分の分身が見える現象が、「ドッペルゲンゲル現象」だ。「ドッペルゲンゲル」に出会ってしまうことは、単純に想像してもそれだけで恐ろしい。自分嫌いな人はもちろんのこと、自分好きな人であっても、敢えて自分を客観的に見つめることにより、自分嫌いに突然なるおそれがあるからだ。
 ビデオに撮った自分の所作を見るにつけ、嫌な気分になったり、がっかりしたりする人の方が多いのではないか。ベストショットなるものがあるとすれば、通常はベストではないということだ。ベストは一瞬だ。その一瞬以外の、ベストではないものを見続けることになるからだ。だから、決められた動作のダンスとか、決められたポーズとかを撮影することに逃げるのだろうと思う。
 写真に至っては必ずベストショットが選択されて保存される。そもそも、ベストショットを狙ってシャッターを切るし、撮影されるほうもそのつもりだ。だから日常的な表情ではない。現実ではあるが、現実から離れているものだ。だが、写真として固定された表情は、自分の容姿を象徴するものとして、掲示され続けるのだ。掲示されなくても、大事に保存され続ける。その継続性が現実から離れているものを現実化してしまう。撮られることを意識した写真や記念写真よりも、スナップ写真のほうが、その人の雰囲気がよく分かるのはそのためだ。スナップ写真や現物との比較によって、記念写真の現実が幻だったことが明らかにされてしまうのだ。お見合い写真などは、その最たるものだろう。
 そうしたビデオや写真の自分と、「ドッペルゲンゲル」とでは大きな違いがある。それは、時を同じくしているということだ。ドッペルゲンゲルも、もしかすると過去や未来の自分かもしれないが、自分が生きている時間と同じ時間のなかで動いているように見えることだ。そして、画面や印画紙に、電子データやインクとして変換されて、閉じ込められていないために、現実の生き物のように全く自由な存在に感じることだ。
 閉じ込められていればこその安心だ。記録された以上のことも、以下のこともしない。自分と同じ空間にいる、自由な存在としての「ドッペルゲンゲル」は、恐怖以外の何ものでもない。
 自分の自由意志とは別の意志で動くかもしれない自分。何かまずいことをしでかさないか。何かとんでもないことを話し始めないか。その言動の責任を自分のほうが負うことになりはしないか。何よりも、「ドッペルゲンゲル」が自分に何かを話しかけてくるのかが怖い。一体全体、何を目的に何を話しかけてくるのだろう。全く予想がつかないというわけではないが、それが最大の恐怖であることは間違いないだろう。それ以上の恐怖があるとすれば、文字通り不倶戴天の敵ということで、ふっと背後に現れて首を絞めてくるかもしれないということだ。あちらの「ドッペルゲンゲル」にとっては、こちらのほうが「ドッペルゲンゲル」かもしれないのだ。
 そんな恐怖も段階があるようだ。どうやら、最初は近くに存在するだけで、そのうちに同じ動作をまねしているように感じるらしい。それが周囲の人に目撃されるようになり、やがては自分とは違う場所に現れ、多くの他人からそのことを指摘されるようになるらしい。その先は、やはり「自殺」による生き残りか。「自殺」といっても、「ドッペルゲンゲル」のほうを殺すという意味だ。その勝負に勝つとは限らないのだが、勝つという幻想を抱くものだ。相手が完全な自分のコピーだとすれば、理論的には互角の勝負となるだろうから、不意打ちで命を狙うしかない。
 ところが、恐ろしいことに、命は一つかもしれないというおそれがある。姿は二人分でも命が一つということは、あり得ないことではない。本体と思われるほうが死亡したら、分身のほうも現れなくなった、ということなら命は一つであったという可能性が出てくる。分身である「ドッペルゲンゲル」が、現実世界への命の反映の仕方の一つであるとしたら、そうしたこともあるかもしれない。
 こうなると無闇に「ドッペルゲンゲル」と勝負をしようとか、不意打ちを食らわせようとかするのは得策ではなくなる。そうした博打は打たぬことだ。何とか出現しないように、出現の契機とか理由とかを分析して対策を立てるべきだろう。
 もしかすると、普通の人、つまり「ドッペルゲンゲル」のいない人は、何をどう意識するのかということもなく、本能的に対策を立てていたのと同様の行為を積み重ねてきているのかもしれない。そうした何らかの対策を結果として怠ってきた人に対して、「ドッペルゲンゲル」がしずしずと降臨なさるのかもしれない。考えにくいことだが、そのように予想した方が面白かろう。
 そのような「ドッペルゲンゲル」は、いつ出現していつ消えるのだろう。果たしてウルトラマンのように制限時間付きなのだろうか。もしかすると、幽霊のように出たり消えたりするのではなく、同じ空間に平気な顔をして常駐しているのかもしれない。常駐して生活しているとすれば、それはそれで多くの問題がある。
 まずは、戸籍の問題やセキュリティーの問題が生まれるだろう。さらに他人とコミュニケーションを取る可能性があるからだ。そうすると、単なる存在ではなく、人格を認めざるを得なくなる。それはややこしいことだ。会話をすることによって世界の中に行動が生まれる。その行動の結果が、本体のほうに影響を与えるからだ。出現したとしても、何とか無言でいてもらいたいものだ。
 無言であれば、「ねえ、この前の日曜日、どうして挨拶しても知らんふりしてたの?」などと、非難されるくらいだ。評価が落ち、不利な生活になっていっても、命までは取られまい。
 では、どうしよう。「ドッペルゲンゲル」が他人と話をし始める前に、出現の情報を得たら現場に急行し、先ずこちらから積極的に動いて話しかけることにしよう。先手必勝だ。返答がなければこちらの勝ちだ。返答があれば、それを糸口にして、己の存在の矛盾を自覚させるような対話に持ち込み、消滅させればよい。もちろん、消滅すればの話だ。
 だが、向こうから話しかけられるのだけは御免被りたい。向かい合うだけでも恐怖だ。口が開きかけただけで心臓が止まるかもしれない。
 僕が最初に「ドッペルゲンゲル現象」を知ったのは、各社の週刊少年漫画雑誌のどれかだ。怪奇現象特集のような感じで掲載されていたものの中の一つだ。「ドッペルゲンゲル現象」の他に「ゾンビ」の紹介もあったような気がする。
 記憶というものは恐ろしいもので、都合良くも悪くも必ずねじ曲がっていく。クローズアップしたり、他の記憶と結びついたりして、さらに変形していく。現実が塗り替えられていくのだから、それが恐ろしい。何人かで話し合っているうちに、グループの記憶なるものが生じ、グループであることを根拠として、確たる記憶として一人歩きしていくのだ。大人になったときのために、何でもノートに記録しておけばよかったと、今になって思う。
 その当時の少年向けの漫画雑誌は、漫画だけではなく、様々な情報を載せていた時代だ。床屋さんの待合スペースに各社の種少年漫画雑誌が置いてあり、散髪を待つ間に手当たり次第に一か月分を読むという、貧しい読書生活をしていたのだ。散髪にいくタイミングが悪いと処分されてしまっているので、連載漫画などは読みそびれた回も出てくる。それは想像の世界でストーリーをつなぎ、適当に整合性をつけるのだが、面倒といえば面倒な作業だった。その点、特集ものは読み切りなのでありがたい。しかも、幼い少年の世界を広げてくれるもので、大図解的なもの、大百科的なものなども、その新情報にわくわくしたものだった。
 その後、暫く忘れていた「ドッペルゲンゲル現象」だが、振り返ってみると、成人してから今日までに、「どこそこで見たよ。」とか、「どこそこにいたよね。」とかいう意味合いの発言を耳にすることが、意外と多かったことに気づく。
 極めつけは、警察から上司に電話が入ったことだ。何時から何時までの間、僕が職場にいたかどうかの問い合わせだ。アリバイの確認だ。本人に確認するのではなく、上司に確認するというのは、どういうことなのだろう。確かに僕はその間の記憶はあまりないのだが、上司は「仕事をしていましたよ。」と答えてくれたそうだ。自分の記憶が曖昧なのは困ったことだが、気の利いた返答をしてくれたのを感謝したものだ。警察もかなり不思議そうな感じで連絡してきたというから、出頭して事情を聞こうと思ったが、やぶ蛇になることをおそれ、思いとどまったことを覚えている。出頭の要請ではなかったのが幸いだ。恐らく、面倒なことになるのを、警察のほうで避けたのではないかという、上司のコメントは、僕を暫くの間びびらせていたものだ。
 その他、スーパーで見かけたとか、飲食店で見かけたとか、街で見かけたとか、全て身に覚えのないものばかりだ。普通の「ドッペルゲンゲル現象」は、もう一人の自分が見える現象だ。もちろん、他人が別の場所で見かける例もあるようだ。しかし、まさか僕にそんな奇妙な現象が起ころうはずもないと思う。しかし、考えてみれば、そうした現象が僕に起こらないという根拠もないのだから、もう何とかしてほしいと思う。
 ただ、これまでは僕を見かけたという発言が多いということを自覚していなかっただけだったのだ。当たり前のように聞いていたそれらの報告が、その頻度において、実は普通ではなかったようなのだ。これは、周囲の人々に聞いてみて、初めて分かったことだ。皆、そのようなことを言われたことは、ほとんどないと言うのだ。
 人の悪い冗談なのだろうか。だが、特定の人や特定のグループの人たちにだけ言われることではないので、悪意をもって裏で通じ合っていない以上は、悪い冗談とも思われない。それが長期間にわたるということも、悪い冗談である可能性を薄くしている。 では、あまりにもありふれた容貌なので、見間違えられやすいのか。それとも、たまたま僕が確認した周囲の人々に、そうした体験がなかっただけなのか。
 確かにありふれた容貌だ。だからなのか。「声をかけてくれればよかったのに。」と言うと、「そんな雰囲気ではなかった。」というような内容のことを言われることが多い。それはどうしてなのだろうか。幻でも見ているのだろうか。そんなこともあるまい。
 それよりも気になるのは、「ドッペルゲンゲル現象」が起きた後、自身の分身を見た本人が間もなく死んでしまうということだ。だが、僕の場合はかなり長期間、何十年にもわたって、「どこどこで見かけたよ」という報告を聞き続けているので、とうの昔に死んでいてよいはずだ。だが、死んでいない。したがって、「ドッペルゲンゲル」がいろいろと目撃されているということではないということになろう。ただ単に、似ている人がたくさんいるということだ。
 ただし、僕自身は見ていないので、だから生き延びているとすれば、いろいろな他人が見てきた「僕」は、実は「ドッペルゲンゲル」だったのかもしれないとも言えなくもない。だとすれば、「ドッペルゲンゲル」が気を遣って僕に遭遇しないようにしていてくれるのだと解釈し、よき「ドッペル」を持ったものだと感謝すべきなのかもしれない。
 もしかすると、「ドッペルゲンゲル」は、自分を他に探そう探そうとしている人が、何ものかを自分の姿として見てしまうのではなかろうか。自分が見たものを、自分だと思いたいから、自分の幻を見ることになるのだ。
 つまり、自分は自分ではなく他人だと思い込みたいような状況に立たされた人の話ということになる。その幻が「ドッペルゲンゲル」であるという可能性もありはしないかと思うのだ。
 何もないところに自分の幻を見るという深刻な状態もあるのかもしれないが、大抵は自分に似た人が自分に見えるのではないだろうか。脳のほうで目に入った情報を書き換えるぐらいのことはありそうだ。脳は自分を守るためには何でもしそうではないか。  自分を探している自分は、自分を救おうとしている誰か他の人、つまり自分ではないと感じているのかもしれない。そのほうが心が楽になるからだ。何しろ自分ではないのだから。
 だが現実には、自分を探して救ってくれるというような奇特な他人はいない。そうした人がいれば既に心は救われ、「ドッペルゲンゲル」など生じさせることもないだろう。解決できない苦境に陥っていれば、見慣れた自分の姿を幻として見ることぐらいあるかもしれない。怖いと思えば枯れススキだってお化けに見えるぐらいだから、自分の姿なら幻にしてしまうなんてお手の物だと思うのだ。脳というのはそのくらいのことは朝飯前でやるに違いない。
 苦境にいるから、そのストレスで免疫も落ち、少しのことで死にやすくなる。そのように考えれば、筋は通りそうだ。だが、その幻は自分にしか見えないものだ。僕のように、他人ばかりが見るものではない。根本的に違う成り立ちの「ドッペルゲンゲル」に違いない。もしくは、単なる他人のそら似だ。そら似にしては出現率が高いのが気にはなるけれど。まだ僕が死んでないところをみると、そう思っていた方がよさそうだ。
 過去の例を調べてみると、フランス人の教師で20回も職場を変わった女性の話を見つけた。エミリー・サジェだ。彼女が職場を変わらざるを得なかったのは、姿がダブってしまい、生徒や他の教師たちが騒ぐからだ。最初はダブって見え、そのうち別の場所にいるようになったという。
 僕の場合は、繰り返すが、とても似ている人が何人もいるという感じだ。それは、僕自身は僕の分身かもしれない存在にお目にかかったことがないという事実が、「ドッペルゲンゲル現象」は起きていないということの証拠だ。なぜなら、通常ならば自分で自分の姿を見る現象が、「ドッペルゲンゲル現象」だからだ。
 ところが、「ドッペルゲンゲル現象」も年を経ると、先に述べたように、別の所に現れるようになるようなのだ。これがイレギュラーで逆順のものもあったとすると、今後僕は自分のそばに自分を見るようになるのかもしれない。そうでなければ、初期の段階で、自分の「ドッペルゲンゲル」の出現に気づかず、よそに出現するようになってから、いろいろな人に目撃されるようになり、その報告を自分が受けて、やっと「ドッペルゲンゲル」らしきものの存在に気づき、報告者とともに不思議がっていた、ということなのだろう。
 ただ、一度だけ、僕の前で僕が仕事をしている感覚になったことはある。僕の前方20センチか30センチほどに半透明よりももっと透明に近い僕が、浮き出た感じになって勝手に仕事をしているのだ。その仕事ぶりは、通常の僕の仕事ぶりと変わらないものだった。もしかすると、通常よりも流暢的確だったかもしれない。不思議なことに根本的な意識は、後ろ側に位置している僕のほうにあった。後ろ側にいて、前方に少し浮き出た、限りなく透明に近い自分を観察し、自分の代わりにオートマチックに仕事をしている自分に感心していたのだ。
 仕事で喋っているのは前方の僕で、後ろの実態の僕は観察しているだけなのだ。時間にして5分か6分程度という短い時間だった。しかし、単に疲労していただけだとは思う。その時の視野はやや狭く、少し光が眩しかったように思う。あまりにも透明だから「ドッペルゲンゲル現象」とは言えないだろうとは思う。周囲からも、前方に浮き出たかなり透明な僕は見えていないようだった。幸いなことに、いくら疲労していたとしても、似たようなことは後にも先にもなく、その一度だけであった。逆に言うと、疲労が原因ではなかったという結論に至りそうなので、ここまでにしておこう。
 これが「ドッペルゲンゲル現象」の前兆であるかもしれないと考えると恐ろしいが、あれから20年は少なくとも経過している。だから、大丈夫だろう。あれが僕の魂であるとするならば、年齢の経過とともに魂が落ち着いたということかもしれない。魂が調子に乗ったのか、他の理由なのか分からないが、とにかく前方にずれて出現したのだろうか。短時間とは言え、勤労意欲の高い魂であることよ思う。ただ、数分という短時間の仕事だったから、賃金はほぼない。ボランティアということで許してもらおうと思う。20年ほど未払いだ。一年過ぎたら請求がない限りは時効かなとも思う。しかし、実態の僕は観察していただけで、他に何もしていなかったのだから、結局未払いでもよいのだけれど。まあ、他人のそら似ではあり得ず、確実に自分の何かだったのだから、賃金のことなど関係ないと言えば関係ないのだが。

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恐怖シリーズ247「まぼろし」

 すべては「まぼろし」という仏教の教えは、現代先端科学に通じるものがあるようだが、仏教の結論は思索の結果とは言え、結局は直感によるところが大きい。結論を得るまでの手法が科学的ではなくても、役に立てばよいのだ。
 科学のほうは遅々として進まない。証拠集めのための実験と観察に時間がかかるのだから、遅ければ遅い分だけ、慎重に真理を追求し、謎を解明しているということの証拠だとも言えそうだ。もちろん、解明すべき事柄が科学の進歩とともに飛躍的な増加を見せるであろうから、そうしたことにも原因があるだろう。
 全六百巻という大般若経のダイジェスト版であるという、般若心経は、読めば読むほどに現実はまぼろしかと思い知らされる感じがする。
 読み込むと言えば、それも「まぼろし」を組み上げるプロセスであるように思う。その作業は、読んだイメージを意味あるものとしてパズルのようにつなぎ合わせていくことだ。その結果、名付けられることの可能な、一つの形となったとき、読めたという自覚にたどり着く。自分なりに読解したということ、つまり自分なりに「まぼろし」を組み上げたということだ。それは文章化しないと、文字通り「まぼろし」のごとく消えてしまう。
 読んだ後に感想を話し合えば、「まぼろし」同士が絡み合って、より立体的で肉付きのよい「まぼろし」が出現するだろう。どうせ「まぼろし」だから、次に読んだときには変化して形を変えていく。だから、「まぼろし」だとも言えそうだ。いろいろな「まぼろし」をかけあわせて、何か新しい「まぼろし」ができあがれば、それはまた素晴らしいと思う。
 頭の中のどこかあちこちに引っかかっている、切れ切れのイメージのままのものを、放置しておくのは危険ですらある。知性のフィルターを通して、正しいと評価されそうなものを幾種類も幾種類もサンプルのように組み上げておき、その時々に都合のよい「まぼろし」を即座に手段や作戦として活用できるようにしておけばよいのだ。その準備は、積み木のように楽しい作業だろうと思う。
 種類さえ多ければ、時代の流れ、人生の流れの中では、その内のどれかが、役立つはずだ。作戦といえば大仰なので、心の準備と言えばよいだろうか。だから、兎にも角にも、いろいろな種類の「まぼろし」を「まぼろし」として可能な限り多く手中に収めておけるようにしたほうがよい。少しでは、現実の変化に対応しきれないからだ。特に年を取ると、臨機応変の対応が苦手になる人が多いと思う。
 「まぼろし」だから、どうでもいいのではなく、「まぼろし」だから、どうにかしよう。そう考えないと人生はつまらない感じがする。「まぼろし」とは、自分なりの捉え方だ。世界の認知の仕方だ。だから、放置しておくのはもったいないのだ。
 「まぼろし」を組み上げる傾向を感性というのかもしれない。だとすれば、感性を磨くということは、頭の中に引っかかっているイメージの破片を使って、「まぼろし」を組み上げるときの心構えを、自覚して見つめ直して考え抜くという作業になる。おもしろそうではないか。
 そこへ他人がどう入り込むか。意図的な介入をどのように実現するか。防御システムがないと、あっさりと介入を許してしまう。これは恐ろしいことだ。善意の介入である教育を疎ましく感じるのは、防御システムの本能的な反射が起こるからだろう。教育は社会を意識させることが重要だ。社会を守るには、個人がある程度の犠牲を税金のように払うしかない。そのようにして成立させた社会の中で、個人が恩恵を被るという理屈も、反射には通用しないのだ。
 逆に悪意ある介入は、その反射を意識して回避する介入となるから、防衛システムが麻痺させられた状態となり、逆に心地よい場合が多い。果たしてどのようにして麻痺させるのか。もちろん日常的な方法ばかりでなく、薬物の投与などの非日常的な方法もあるだろう。悪意が現実の形を取って成就するには、手段を選ばないはずだ。
 もっとも、悪意によって実現した現実も「まぼろし」なのだから、平気な人は平気なのだが、嫌になる人は嫌になるだろう。具体例は目の前に山ほどある。平気でいられるか、嫌になってしまうか。「まぼろし」だと思ってしまえば、確かにストレスは軽減するかもしれないが、悪意は増長する。悪意は悪意だけに、「まぼろし」として放置するのではなく、「まぼろし」として何とかコントロールし返す努力が必要だ。
 さて、何がどう「まぼろし」なのか。それが分からないという恐怖もあるが、恐怖自体も「まぼろし」だということになると、「まぼろし」のとらえ具合によっては、実は恐怖した方が都合の良い状況へ、恐怖という「まぼろし」なしに、つまりブレーキなしで突っ込むおそれもある。それはそれで恐怖だ。こうして、きりがない話になるのも「まぼろし」である証拠なのだろう。
 伊右衛門はお岩さんの幻を見て、いろいろな人を斬ってしまう。規模は小さいが、似たり寄ったりのことを僕たちは毎日繰り返しているのかもしれない。何となくそう感じるようになった。幻であっても伊右衛門には現実だったのだ。
 このように、幻のようにはっきりしないことを、いつものように綴っていると、僕の存在自体がますます幻に近づいていくだろう。それも目的だからよいのだけれど、消えそうで消えないのが幻の特徴の一つなら、その危うさはなかなかに面白いものだ。

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変な疑問188「人と植物と動物、何を殺したら偉くなった?」

 かなり語弊はあるが「野心的な人殺し集団」、特に戦国時代の武士だが、代々人を殺し続け、自ら最も幅をきかせられるような、自分たちに都合のよい江戸時代という世の中を作り上げていった。その戦国時代から江戸時代初期にかけての武士たち。野心を遂げた後はどうだったか。
 その一方で、代々動物を殺し続け、皮を剥いで革製品を作るなどしていた、これもかなり語弊はあるが「生活のために、やむを得ず動物の命を奪わざるを得なかった集団」である穢多がいる。この穢多といういわれのない差別を受けてきた集団。明治時代の解放令後もいまだに差別を受けるという理不尽な目に遭っている。
 「職業に貴賎なし」というが、現状がそうではないから生み出された言葉だろう。職業自体に貴賎などないはずなのだが、どうしたわけか心の中では貴賎意識を持ってしまうようだ。そうした浅まし心根を人間は持っているようだ。
 貴賎の分かれ目は収入の多少ではない。そして、人のいやがる仕事を引き受けてくれるならば、尊敬されてよいはずなのだが、そうではないところに、人の心の仕組みの傾向があるようだ。
 さて、特に江戸時代では、身分制度的には大違い、両極端の武士と穢多。
 片や、罰として人の斬首したり、気分を害したからといて丸腰の人を斬り殺したり、何の因果か自分の腹を自ら切り裂き、色とりどりの内蔵をつかみ出して見せたりする、基本的には「人を殺す技術をもった集団」に属する武士が為しうる蛮行。もちろん、その武力が抑止力となって社会の秩序が保たれていると考えれば、その時代ではありがたい存在だ。表裏一体というわけだ。
 裏の面が出てしまうのは、天下が統一され、具体的な行動を示す敵が、一応は形の上ではいなくなったから、その刃をいろいろなところに向けることになったからではないか。また、実際の刃でなければ、その刃で勝ち取るはずだったものを、身分上の某かのもの、その他のもので実現しようという方向に向いていったからではないかと想像する。
 片や、人々が嫌がる仕事を引き受け、人々の生活に必要な様々な品物を製作し続ける「生活のために、やむを得ず動物の命を奪わざるをえなかった集団」に属する穢多が為すところの生活行動。
 嫌がる仕事を市中で行うわけにはいかない。自然と辺鄙なところに住むことになる。情報の格差が生まれ、文化の格差が生まれ、身分の格差が生まれる。これは差別の根本的な条件だだと思う。現在でも、都会に住む人は田舎に住む人を下に見る傾向があるだろう。
 田舎の人が生産したものを食しているにもかかわらずだ。土を触り、肥料をまき、薬品をまき、日に照らされて汗を流す仕事。それを恐らくは、口では大変ですねと言いながら、実は誰でもできるような仕事、汚い仕事と見てしまう意識があるからだろう。世が世なら、食した後の始末、糞便を回収する業者も最下層と見なされていたはずだ。
 地道なものよりも、見かけがどんどん新しくなっていくものほうが、何か進歩している感じを受けるからだろう。そこに焦点化すれば、確かに都会の方が上に見える。流行するもののほうが流行する頻度の分だけ生み出されるものが多いことも確かだ。だが、それは無くてもよいものである可能性が高そうだ。
 農業は植物を相手にする。稲刈りで稲の叫び声は聞こえない。脱穀で血飛沫は飛ばない。もしその二つがあったら、士農工商、穢多非人ではなく、農が最下位になっただろう。動物よりも圧倒的な分量の血が流れるからだ。叫び声も地域中に響き渡ることだろう。つまり、更に辺鄙なところに追いやられたはずだ。動物が相手か植物が相手かで、随分と異なる歴史をたどるものだ。
 このような差別をされながらも、物作りに精を出し、その技術力で人々の生活に寄与してきた穢多たちが最下級層のままで血をつなぎ、一方、人殺しの技術に日夜磨きをかけ、その軍事力を背景とした政治力で人々の生活に寄与し続けた武士たちが上級層のまま血をつないできた。これは何か変であろう。穢れた仕事というならば、人を殺す方が圧倒的に穢れていよう。
 確かに、武士は世の中を上から、領民の生活ためと言いながら自分たちの生活の安泰のために、領民を支配した。そのために、血を流すことの可能な刀を携帯して闊歩しただろう。江戸時代では「斬り捨て御免」とか「無礼討ち」という言葉まで流布させた。武器の保有、そして言葉による完全な威嚇だ。裏を返せば、殺せるのに殺さないというところに高い評価をしかねない、高慢な集団だと言えなくもない。
 穢多は下から、品物で一般人の生活を支え続けた。代々の家柄ということもあるが、そのために人の嫌がる仕事に従事した。つまり、動物を死に至らしめ、解体して血を流した。そのために、地理的に分離され、追いやられたようなところに住まわるしかなかったに違いない。それが代々続くのだ。差別されることに対して疑問を持ちながらも、昔からそうなのだからと諦めている集団、もしくは諦めているという自覚もなかったかもしれない集団。そして、自分たちの技術にささやかな誇りを持って、それを支えに生きている健気な集団だと言えなくもない。
 武士と穢多の共通項は血だ。血と命がシンボルだ。そして、生まれながらの家柄だということも共通項としてある。もしかすると、どちらも後ろ指をさされていた。
 武士は、過去には人を殺すという最も穢れた仕事に就いていた。その名残で、いろいろな理由を持たせて、武器を常時携帯している。特に帯に差した大小の刀は威嚇的だ。抜きざまに相手を斬りつける刃の向きになっている。貴族的な太刀の装着方向とは逆だ。そこに、より実践的な、つまり、はしたない出で立ちをせざるを得ない、武士の低さが見受けられるとも言えなくはない。
 そうした穢れ多い武士の仕事は、逆に尊敬されて良いはずだ。自らの命をもって奉仕するのだから、崇高ですらある。そこが穢多との微妙な差なのだろう。生活のため、無抵抗の動物を殺めざるを得ない穢多。もう生活のためではないのだが、事と次第によっては人を殺めざるを得ない武士。その差は、やはり大きいと見るしかなさそうだ。
 このように、見方を少し変えただけで、全く別のものが紙一重の存在であるように感じられたり、逆に、紙一重のものが全く別の存在であるように感じられたりするのは、恐ろしいことだ。
 こうなると、あるものに対してある見方をしてきた理由を、敢えて一度自分自身に問うてみる必要が出てくる。ただ、もしかすると、その作業には少し勇気がいるかもしれない。通常に生活をしている限り、見方を変えにくいというのが一般的であるというのは、そういうことだろうと思う。
 つまり、勇気がいるのは、見直しをすることで、自分の思考はおろか、存在価値までも根底から崩してしまうおそれがないとも限らないからだ。場合によっては、何か事を起こす必要が生じ、それによって面倒なことになる可能性は限りなく高いからだ。そして何よりも、そうしたことを受け入れることを承服できるかという、人としての器を試されることになるからだ。

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変な疑問187「いじめた奴の部屋で自殺しない理由」⑧

 このような歪んだ思いを抱きながら、歪んだ生活を送らねばならぬような、「いじめ」の被害者には誰もがなりたくない。それを最も恐れているのは、「いじめ」の加害者だろう。もしかすると、無闇にいじめ続けるのは、自分自身がいじめられないためである可能性も十分にある。「攻撃は最大の防御」ということなのだろうか。確かに、臆病者ほど強がったり、臆病者ほど自分より弱い立場にある者を探すのは大の得意だ。
 自分がそうした大変な立場に立たされないようにするにはどうしたらよいだろう。まずは、「いじめ」に対する正論や理想論によって事を長期化させ、無数の被害者を生み出していることに気づかないふりをしている偽善者たちを、これ以上増やさないことであろう。そのための何らかの事を起こさねば、本当の正義がねじ曲げられ、見かけは整っているくせに、実際にはますます窮屈な世界に陥っていくように感じられるのは僕だけであろうか。
 恐らく、「いじめ」の行為を牽制するような、先述のような思い切った内容の事前警告は、別の問題を引き起こすだろう。日常生活の何でもないことが、実は「いじめ」の加害者として陥れるための罠かもしれないという疑心暗鬼に苛まれるという事態をひきおこす可能性もある。また、事前警告された人に対する偏見と排除という、新種の「いじめ」が始まる可能性もある。それが「いじめ」「いじめられ」の立場逆転になるチャンスとなって敵が討てたとなると、これはこれで厄介なことになる。いじめられていた者やその家族が、そう簡単に許すはずもなく、延々と手を下すという、悲惨な状況を生みかねないからだ。
 だが、「そうしたおそれが十分にある」という感覚が広がれば、やはり抑止力となろう。したがって、事前警告を受けないための事前指導を学校や会社で、定期的に再教育していく必要がある。こうした面倒なことをこまめにしていかないと、「いじめ」のような厄介な問題を軽減させることはできないだろう。ましてや、「いじめ」を根絶することなど絶対にできないのではないかと思うのだ。
 対策としては道徳的ではなく、お粗末さを感じる対策であることは確かなのだが、何か代案はないものだろうか。被害者が引っ込んで、時が経ち、関係性が薄れ、それで終わっても、それで「いじめ」の問題や「いじめ」の被害が解決したとは言えないはずだ。「いじめ」の問題が、「いじめ」以外の問題に移行しただけだ。
 そうした個々のケースが「いじめ」の様相を示さなくなったことをもって、「いじめ」の解決とするのは、あまりにも被害者の心を無視した、あまりにも安直なものの見方だろう。新たに生まれた人が、「いじめ」に手を染め、「いじめ」に苦しむことのないような、解決策を講じることが早急に必要だ。警告と罰の実施を導入するという、単純な抑止力による対症療法的な対策だけでは当然のことながら不可能だからだ。果たして解決策はあるのだろうか。
 大会社であれば、配置転換で回避できるレベルの「いじめ」も、小規模の会社や学校、特に学年の学級数が減っている現代の義務教育では「いじめ」の被害者の逃げ場はないのではないか。学級を変えるというような回避手段がとりにくいような、少ない学級数のはずなのだ。転校という奥の手も、転校生への「いじめ」というリスクを乗り越えなくてはならないはずだ。残念ながら、今はSNSが発達し、どこに転校しても「いじめ」が継続したり、「いじめ」が引き継がれたりする可能性が高いと思われる。
 そうした問題、そうした危機の管理と、個々の子供への指導をする教職員には大変高度な指導技量が求められるだろう。だが、残念なことに全員が同一レベルの力量ではあり得ないはずだ。当然、その手からの漏れが生じてくる。少子化が進めば進むほど、SNSを利用する人が増えれば増えるほど、一校あたりの教職員の数が減少すればするほど、いじめの遣り口が報道されて模倣される可能性が高まれば高まるほど、その傾向は甚だしくなるだろう。事は深刻だ。
 実は、そんな世の中にわが子を産み落としたくないと考えている夫婦は、口には出さないが、意外とたくさんいるように思う。こうした意識によっても、ますます少子化は進む方向に向かうだろう。どうか、「わが子にはそんな世の中を正常化していくような苦労をしてほしい」とか、「わが子が生きていきやすい世の中になるように、今から俺たちが正常化させていこう」と考えてほしいものだ。特に若者は。若者のエネルギーというものは、本来そうしたことに使われるもので、単に自ら爆発しているだけであれば、人生の身も蓋もなかろう。
 いじめた奴の部屋で自殺しないのは、もしかすると配置転換や転校など、かつてよりも周囲の配慮が行き届くようになってきたからではないだろうか。新たな加害者に「いじめ」の被害を加えられるようになったとしても、エスカレートするまでにはある程度の期間がかかる。その間に、被害者が加害者に回るという、苦肉の策に走ったり、過去の「いじめ」から得た教訓を生かして、「いじめ」をかろうじて回避するという知恵をはたらかせたりする可能性があるのだ。個人としてはある程度救われていても、「いじめ」の問題がどうにかされるわけでも何でもない。そうした悲しさが「いじめ」の問題にはついて回るのではないかと心を痛める。
 しかし、いじめによる自殺がなくなったわけではない。自殺希望者は統計にないだろうから、実は希望者は増えているのかもしれない。一度集まるとよいかもしれない。実際には集まれないが、SNSでつながることはできるだろう。そして、一緒に死のうという方向に向かわない約束で話し合ってはどうか。
 当然、加害者を皆で闇討ちにしようとかいう話に向かうのも反則だ。節度をもって、どうしたらよいかを被害者同士で話し合う必要はあると思うのだ。いじめられている人の気持ちは、いじめられていない人には理解できないはずだからだ。一人で死んでしまったり、一緒に死んでしまわないように、何が何でも周囲のよりよいはたらきかけを期待したい。そうすれば、いじめた奴の部屋で自殺するというような、やけっぱちの悲しい事件も発生しないはずだ。

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恐怖シリーズ247「生首」

 生首は怖い。しかし、干し首はあまり怖くない。
 干し首は形が整えられている。しかし、生首は形が整えられていない。干し首は干す過程で形が整えられる。干す準備でほぼ形が決まるのだ。
 しかし、生首は放置されている。腐り放題で、ウジも直ぐにわく。鳥もつつくから、ますます形が崩れてしまう。
 人の表情は整っているから美しい。表情は、その整った形から決まったパターンで変化するものだから、たとえ悲しい表情であっても、それはそれで美しい。
 ところが、生首はパターンのない変化をしていく。それが恐ろしく感じる主な原因だ。表情というパターンの決まった変形ではないから、読みとれる感情がないのだ。そこには感情ではなく、死そのもの、意味のない変形があるばかりだ。
 朽ちていく姿、朽ちていく色、皮膚によって美しく透けて見えていたものが正体を現すという醜態。表情によって感情という意味を、目に見えぬ幻を手に取るように美しく見せていたものを、全て脱落させた単なるタンパク質の塊、骨の塊だ。
 だから、物だと思えば何でもない。食卓の魚の焼死体、ミンチの肉塊、削ぎ落とされた肉片。それらが焼ける臭いを想像してもよい。よく考えてみれば、日常的な物だ。
 そのように食物だと思えば何でもない。実際に食する輩もいるようだが、それはやり過ぎだ。単なる手段を目的にして、実行に至れば、その人間は狂気の人と評価されることになる。想像の中で憎い奴をぶん殴ってストレスを解消するのは無罪だが、実際にぶん殴れば有罪だ。それと同じだろう。
 食物だと想像するのに抵抗があれば、何かの小動物の死体ぐらいに考えればよい。駆逐されるべき、害獣だ。
 もちろん、最愛の家族の生首であれば、そのように想像することには抵抗があるに違いない。そのときは、元人間の頭部であっても、死んでしまえばただの物だと思うことだ。単なる物体だと割り切ることだ。肝腎の魂は昇天したと考え、冥福を祈るばかりにすればよい。
 それもできない場合は、これから火葬する頭部、埋葬する肉体の一部だと、嘘偽りない現実としてとらえるしかない。
 生首そのものを見てしまうから、生首そのものを受けとめてしまうのだ。それをどのようにしていくかという一連の流れの中でとらえれるようにして衝撃やら恐怖を緩和するしかないだろう。火葬する、埋葬する、犯人を捜す、仇を討つ、仇を討った後始末をする、菩提を弔う、というような長い長い道のりを分母とするのだ。
 つまり、全体の流れの中の一部だという受け止め方だ。生首と対面した衝撃と恐怖を固定した分子とし、逆に分母は大きくしていくのだ。これで恐怖が何分の一にかなるだろう。意識の問題だ。心の持ち方の問題だ。
 だが、人情として、たとえ最愛の家族であっても、死体を怖いと思うのは、なぜだろう。それは死んでいる肉体だからだ。死という非日常が怖いだけだ。生首が話しかけてくるわけでも何でもない。肉体を探して飛び回るわけでもない。話しかけるのは生きている関係者の方であり、残りの肉体を探し回るのも生きている関係者だけだ。最愛の家族の思い出が恐怖の思い出に変わるわけでも何でもない。
 したがって、先ず第一に、生首も皿の上のまだ焼かぬ前の肉塊だと思うことだ。第二に、特に形が整えられていれば怖くないから、形を整えることだ。腐って形が変形しなければ怖くないものなのだ。第三に、形を整えた生首を冷凍することだ。冷凍することで、生首は生首でも、好みの表情に固定された冷凍生首となり、生前の表情を想像しやすく、その心も感じ取れそうなので、怖くはない。怖いのは解凍後だ。第四に、常日頃から顔写真を眺める習慣を身につけておくことだ。写真なら生首状態だからだ。常に生首を見ている感じに慣れておくことだ。そして、その写真通りの表情で冷凍固定することだ。
 しかし、既に表情を整えられないほどに傷んだ状態の生首は怖いだろう。その時は、頭部だけでも火葬し、懇ろに弔うことだ。
 ただ怖いのは、生首以外の肉体の行方だ。それが分かっていて正規の手続きで既に処理されていれば何でもない。しかし、まだ見つからない状態であるならば、いくら冷凍生首でも怖い。生首以外の肉体が、何処でどうなっているかを想像してしまうばかりだからだ。
 首塚というのは、生首だけしか手に入らなかったものだろうか。戦乱の中では仕方なかろう。それとも、五体満足の遺体で火葬して埋葬すると、甦るおそれのあるほどの怨念があり、それを断ち切るために首だけを葬った塚なのだろうか。それはそれで恐ろしい。
 博物館などで、頭蓋骨が綺麗に陳列されていることがある。変形するところのない究極の表情だ。だから、かつては生首であったのだけれど、昔の物であり過ぎて恐怖は感じない。既に考古学の手の入った、学術的な存在だ。だから、抵抗なく手に取れる。
 これが乱雑に転がっていると恐ろしいのかもしれない。それも半分土に埋まっているような、手つかずの状態のものであれば、尚のこと恐ろしかろう。肉片が残っていれば更に事件性が高く、より恐ろしかろう。まだ事態が生々しいということだ。より生きている物に近い存在だということだ。それが恐怖を感じさせる。
 位置や向きを整えられて陳列されてから怖くはないということもある。それは分類され、整頓されているということだけではない。たとえば、無数の生首であったとしても、はしゃぐ巨大なパンダの形に組み上げられていたとしたら、もしかするとほほえましく思ってしまうのかもしれない。恐らくそうなるだろう。そんな人間のいい加減な感覚のほうが、なんか怖いような気がする。
 すると、江戸時代まであったようなさらし首は、より効果的に見せしめるためには、棚板の上にきちんと並べるのではなく、微妙な位置、微妙な向きに乱雑に並べるべきであったろう。なんなら太陽の移動に合わせ、時計仕掛けで回転させ、陰影が効果的にあらわれるように、工夫すべきであったろう。
 そこまでやると、下手をすると見せしめではなく、単なる滑稽な見世物となったり、遺体を弄ぶことにもつながり、顰蹙をかう原因になったりしかねない。刑の執行は死後も続くというものだが、死後はそれなりの扱いを受けるべきだという感覚もあったからであろう。
 

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怪しい広辞苑257「2018年1月、第七版発売だが」

 年の初めに第七版の出版のことを「怪しい広辞苑255」で述べたが、どのように広辞苑は改善されるのだろう。期待するとともに、どう改善したかを広辞苑の紙面で述べるのはやや難しいだろうと心配する。しかし、新しく掲載する単語は別として、第六版までの説明の間違いや不適切が、どのように直されたかを利用者は知りたいのだ。
 つまり、正誤表が欲しいのだ。従来の説明の間違いはこれがあればよい。第何版からの正誤表を作成するかは意見の分かれるところであろうが、まだ第二版も他の版と一緒に後生大事に使っている人もいる。削除された語句がありはしないかと不安だからだ。
 削除した語句の一覧をつける辞書など聞いたことはないが、広辞苑のようなロングセラーで、広く利用されているものであれば、やはり責任上、必要となってくると思うのだ。それが出さない以上、前の版も捨てられないという人もいるのだ。そんな人は少数だから切り捨てるという方針なのかもしれないが、岩波書店の姿勢はそのようなものではないと思う。
 ロングセラーでなくても、明治時代以前の辞書が、単に古いという理由で捨てられていたら、相当に困る人がいるはずだ。また日本語のことを考えるのならば、逆に切り捨てられたら困るという状況でなくてはならないだろう。
 間違った説明もさることながら、不適切な説明についてはグレーであるだけに厄介だ。そうした多くの単語たちが、どのように改善されたかは、これまでの版の説明と比較しなくてはならない。変えるということは、改善される方向ばかりとは限らないからだ。愛する広辞苑がよりよい方向をたどるよう切に願う。
 さて、編集会議には利用者サイドの意見が反映されるような仕組みが組み込まれているだろうか。編集の専門家だけでは辞書づくりは駄目だからだ。
 広辞苑の決定的欠陥は、収録語彙の圧倒的な多さにある。つまり、説明不足なのだ。説明をよりわかりやすく、しかも誤解のないように表現するのは並大抵のことではない。紙面には限りがあるから、文字数も限界がある。その限界の中でよりよい表現をしていく努力の過程で、辞書づくりの専門家が陥りやすい落とし穴にはまる可能性は、説明の文字数が少なければ少ないほど高まる。
 しかし、この欠陥も二分冊にすれば解消できることだ。紙媒体としての良いところを捨てずに出版し続けるのだから、それが生きるような方向性を持たせてほしい。二分冊にすれば、手の比較的小さな人たちにも優しいだろう。その分冊にした軽さが、利用率に影響を与えることは確かだろう。卓上の飾り度を減らすためにも考慮してもらえるとありがたい。そうでなければ電子版に利用者が流れるに違いない。だが、電子版にするにもいろいろな問題を抱えているはずだから、どうするのか見守りたい。
 説明のメリハリを持たせるためか、一単語あたりの説明の文字数のアンバランスにも問題がある。等しく文字数を割り振るのが、よりよい説明を実現するための条件ではない。だから、当然、一単語あたりの説明の文字数は異なる。しかし、それが適切なアンバランスになっているだろうか。
 こうした問題を解消するために付加すべき説明に要する文字数を大幅に食いつぶしているのが、現時点での用例の多さだ。古典を出典とするものの多さだ。その用例が適切であるかどうかという問題もあるが、果たして必要な用例なのかどうかという検討がなされているかどうかが問題だ。問題があればカットできるものはカットし、必要なものは一定の引用の仕方で引用し、用例とすべきだろう。これまでの引用の仕方に問題を感じている人はいると思われる。
 このような、特に古典を出典として引用した用例を多用するという伝統的な路線から外れるのは、広辞苑らしい色彩を薄めることになるかもしれないが、ニーズの薄い記事によって、誤解を招かないために必要な説明の文字数を減らしてはならない。そこを最も心配する。
 また、これまでも、無駄な空白部分を活用すれば、よりよい表現となる部分がかなりあった。その面積を有効に活用した、よりよい説明にするための文字数の付け加えはなされているかも心配だ。
 来年一月発売ということは、もう編集の変更がきかないだろうが、よりよい第八版めざして、一度捨てた単語も、時代の変化によって再収録すべき者がありはしないかどうかということも含め、検討してもらえればありがたい。特に専門分野の単語の説明については、監修者となる著名人に再度点検をしてもらいたい。編集の専門家ではなく、専門分野の専門家、しかも複数の方々にお願いしてほしい。
 そして、その専門家の方は、教え子、大学生でもよいが、彼らが誤解なく理解したかどうかを確認してから、編集部に回答してほしい。従来の編集では、それが十分にできていなかったはずだ。こうした問題を克服し、何とかベストセラーとなるよう、進化していてほしいものだ。
 

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