心の断片405「隠れ怠慢」

「隠れ怠慢」

自分が最先端
怠慢の始まりだ
特定の仕事に逃げる
怠慢の極みだ

怠慢が
忙しさを
輝かせる
怠慢が
忙しさに
香りを与える

僕たちは
僕たちの能力
それぞれに応じて
それぞれに忙しい

だから
死ぬまで忙しい
忙しければ
忙しく
忙しからずとも
忙しい

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変な疑問218「五輪の塔の不思議」⑯

 また、これらとは別の問題が「遺体」はある。
 事件性の有無だ。通常の成り行きで「遺体」となったのではない「遺体」がある。事件の被害者だ。中でも身元不明の「遺体」が困る。
 名前が分からねば、「遺体」というよりも、ただの「死体」だ。誰か分からないからだろうか、「お死体」とも「ご死体」とも呼ばれない。これは「遺体」が「ご遺体」と呼ばれるのに比べて、意識において大きな差異がある。
 言葉の上でも「死体」が「遺体」よりも冷たい目で見られていることを表している。「死骸」も「死体」と同様、同じ憂き目に遭っている。「お死骸」とか「ご死骸」とは言ってくれない。ただ、「遺骸」という言い方もある。「遺骸」ならば、「死体」や「死骸」よりも何となく丁寧な扱いを受けられそうな気がする。それは一体全体どういうわけだろう。
 それは「死」という直接表現がなされていること自体、既に敬意の対象から外れていることが示されていることになる。一方、「遺」という表現は、死んだ結果「のこす」ということだから、婉曲表現ということになり、敬意の対象として既に認められている存在であることが示されていることになる。
 ところが、敬意を払われる対象であるにもかかわらず、「お遺骸」とか「ご遺骸」とはならないところに、「遺骸」特有の位置づけがあるように思われる。恐らくは、「骸」に問題があるのだろう。
 「骸」は文字の意味合いを表現する部分に「骨」が使われているよう形声文字だ。これは多分だが、元々は死体の「骨」をイメージしたものだろう。「骨」のイメージだから、既に何らかの処置がなされた後の「終了した遺体」とか「用済みの遺体」、あるいは、何らかの理由で放置された「厄介な遺体」とか「邪魔な遺体」、そうしたいろいろな意味合いを醸している漢字に見える。そうした意味合いを持っている漢字であることから、敢えて「お」や「ご」を頭に付けた語として成立しないのではないだろうか。
 もっとも、「遺体」の「体」の方も、実のところ元々は「體」で、「骨」のイメージが強い漢字だった。だから、「遺体」に「ご」が付き、「死骸」に「ご」が付かないというようなことは、略字の「体」を使うようになってからの感覚でなされた使い分けなのかもしれないと思う。日本で使用する漢字が、旧字体から新字体に変わったのは、先の世界大戦後なので、かれこれ70年以上前のことになる。
 もしかするとの話だが、大戦前に新字体に変えていれば、旧字体で時間をかけて画数の多い漢字を書くという事務時間の無駄が省かれ、戦中の戦況、戦後の処理など、多少は様子が違っていたかもしれない。考えすぎだろうか。
 戦後直ぐに、日本が負けたのはなぜかという論議がなされたに違いないから、その中の一つに漢字の使用が挙げられたのではないかと想像する。
 実際、戦争に負けた原因の一つに、文の意味が文末でやっと決定される、およそ戦争では間尺に合わないタイプの言語である、日本語を使っていたからだ、などという話も出たそうだ。それは裏を返すと、平和を愛する国民、決して好戦的ではない国民、和を以て貴しとなす国民ということになろう。
 一文を話しながら相手の反応を確認し、文末の結論自体や、文末の結び方を勘案し、おもむろに一文を終える。そうした言葉を発展させてきたのが日本人だろう。
 そうした思いやりの文の組み立てのスタイルを培ってきたのは、国民性という物が存在するとするならば、その国民性を土台とする日本人の心理のはたらきかたの傾向だろう。思いやりといっても、単純な思いやりではなく、礼を失することによってトラブルが身に降りかかってくることを防ぐための、保身の知恵でもあろう。
 そんな日本語を操りながらの戦争は、少しずつ判断のずれによる失策や、伝達の遅さ、会議の効率の悪さなどの蓄積が悪影響を与え、不利な物となる。そうした評価があったとしても、強ち変だとも、極論だとも思わない。その通りであるように思う。
 それを一見好戦的な国民として捉えたのは、そのように捉える心や見方が根付いている者たち、即ち、いつのまにか自分を鏡に映しているのではないか。このように思う日本人も当時はいたに違いない。それも強ち不自然な思い出はないようにも思われる。
 真偽はともかく、様々な論議がなされる中で、漢字問題も出されてきたのではないだろうか。想像するに、文の最後にやっと意味が分かるような日本語を何とかしなければ。英語にしてしまおうか。それでは昔の日本の書物が読めなくなるではないか。では、英語のようにするすると一筆書きの如く記述できる文字にしたらどうか。もしかすると、草書体を基本とした書体を新しく考案すればよいかもしれない。いや、それは文字を習得する幼少の子供には難しいだろう。では、漢字の画数を少なくして、素早くかけるようにしたらどうか。等々。
 漢字を略字にし、学びやすく早く書けるようにしていこう、そうしないと英語が母国語にされてしまう、そんな危機感もあったかもしれない。もっと言うと、昔の教育は間違っていたのだから、新字体に変えることによって、旧字体の時代の書物や資料を非常に読みにくくしてしまえばよい、というような目論見も同時にあったかもしれない。
 実際、戦後以前の書物は読めない漢字が膨大に出てくるため、新字体、現代仮名遣いで再出版されたものしか読まれることはほとんどない。そのように再出版されるかどうかという篩いにかけられることで、文化や思想の途切れが生じているのは確かであるように思われる。
 古典とされるもの以外の再出版が極端に少ないのは、逆に言うと、何を古典として戦後に残すかという意図的な判断が介在していることを想像させるものだ。
 さて、物以下の扱いとなった「死体」や「遺骸」の類、つまり、「厄介なものとしての扱い」を死後に受けることになった人、そうした人々は毎年腐るほどいる。腐るほどというのは比喩ではなく、放置すれば実際に腐ってくる。
 誰の死体であったとしても、そうしたことは基本的に「死体」というものが「厄介なもの」として認識されるものだという証拠の一つだ。「遺族」あっての「遺体」なのだ。しかし、本当は「遺族」の有無にかかわらず、実際に「恐ろしくて、しかも厄介なもの」となる可能性が高いものなのだ。
 血で血を洗う戦争が続く時代は特に、「ご遺体」ならぬ「死体」は、本来は大方は物以下の扱いで、しかも闇から闇へと処分されてきた歴史を持っているはずだ。
 名が分からねば弔いにくい。名が分からねば来歴も分からず、恨みに具体性がなくなる。具体性のない恨みは恨みとしての凄みに欠ける。
 たとえ幽霊として出現し、目の前で「うらめしや」と言われても、何のことだか誰も理解しないだろう。
 初めて見る幽霊に最初は驚きはしても、ただ「うらめしや」と言われてもどうしてよいか分からないという戸惑いが生じるため、もう少し引き留めて問い詰める必要が出てくるので、何とも面倒だという気持ちになるだけだ。
 おまけに驚きや戸惑いの気持ちで狼狽している間に、すっと姿を消してしまえば、再び呼んで出てくるものでもなさそうだし、途方に暮れるしかないだろう。どうしても「うらめしや」だけでは相手次第の解釈に委ねる感じが強くなってしまう。そこには幽霊独特のの狡猾な一種のずるさがあり、不届きなやり口だと言える。
 ただし、幽霊が口上を語り始めれば、無闇に逃げるのではなく、謙虚に耳を傾ける必要があるだろう。それは対策を立てるためだ。しかし、その語りに対する質問や反論を幽霊も受け入れなくてはならない。それができないようなら、最初から出現すべきではないだろう。ただし、幽霊に鼓膜があるかどうか、音で聞かせているのではなければ、こちらの返答も音ならぬものでなさなければ、幽霊には伝わらないだろう。
 元より一方通行の伝達能力しか持っていない存在かもしれないが、それならそれなりの対策を講じるしかないだろう。
 昔の人にとって、一般的で具体性のない「うらめしや」に象徴される曖昧な恨みは、他のそうした同類の曖昧な恨みとの相性が良く、寄り集まって一つに凝り固まると考えられても不思議ではないだろう。具体性がないために凄みに欠けていてたとしても、ブレのない強力な恨みとして、他の似たものとともに雪だるま式に成長すると考えられていたとしても、これもまた不思議ではないだろう。
 このような、ただ幽霊というだけの具体的な名前のないもの、また主張に具体性が欠けるもの、そうしたものに対処するのは困難だ。無視するか、適当にあしらうか、逃げるしかない。しかし、それではあまりに誠意がないというものだ。
 だから、名前が分からない場合には名をつける必要が出てくるだろう。妖怪や化け物や幽霊など、ともかく名無しでは対応しにくい。ストーリーを背負っているなら、それなりの対応を工夫することもできるだろうが、名も付けられていないようでは、呼び出すことも、説得することも、懲らしめることもままならない。
 もしかすると、戒名というものも、そうした理由からつけられ始めたものがルーツであるかもしれないと、ふと思う。
 さて、誰の遺体か分からない「死体」と、身内の「遺体」と、どちらが怖いだろう。どちらを弔いやすいだろう。それは誰か分からない「死体」の方が怖くはないだろうと思う。人間関係が自分との間にないのだから、自分に対する恨みは少なくともないだろうという理屈が頭にあるからだ。
 したがって、葬式は自分に関係の深い「遺体」ほど手厚く行い、仮に放置されていれば、コントロールを失って不安定なものとして彷徨うことになったであろう「魂」を、そうなる前に予め無難で効果的だと共通認識されている方法によって、つまり葬儀によって、予め沈静化対策を施すのだと思う。勿論、これは人の気持ちの問題、そして人の気持ちの処理の問題なので、人がロボット化するような未来が訪れたら、その時には全く不要なこととなっていくだろう。
 ただし、「死体」は「死体」でも「腐乱死体」は別だ。「腐乱死体」であるために、誰だか分からない。誰だか分からないので、もしかすると、それが身内かもしれないという可能性がある場合の「腐乱死体」は、ただ気持ち悪いものというだけではなく、気持ち悪く、しかも怖いものであるはずだ。
 こうして、「遺体」も、条件によっては、忌まわしいもの、恐怖すべきもの、滅ぼすべきもの。そうしたものとして理解され、それらに対するのと同じ思いを抱かれざるを得なくなることもあるということになる。
 「五輪の塔」を象った白木に戒名を書き付け、それを「卒塔婆」と呼び、納骨のときに墓石に添える。それが「卒塔婆」による最初の供養だ。
 「卒塔婆」は「そとうば」だが、元は「スツーパ」とか「ストゥーパ」とか呼ばれる仏塔が原形だ。そこに俗名なり戒名なり、ともかくも名前を明確に書き付けて供養するのは、先祖代々の霊魂と扱いを分かつための手続きだろう。
 先祖代々の霊魂がうまく鎮魂されていればよいが、昔のことであるから実態は分からない。手厚く供養されていた時期もそうではない時期も両方あったと考えるのがよさそうだ。
 となれば、記憶にある人の「魂」を、まずは取り立てて供養しておくのが現実的だ。十分に供養されていなかった時期のよからぬ状態にあるかもしれない、一部の先祖の霊魂と、新しい「魂」とが不用意に融合しないよう、俗名や戒名を書き込んだ卒塔婆を墓石に添え、不適切なたとえかもしれないが、納骨時に最初の釘を刺しておくということが必要だ。供養する思いの底にはそうした理屈があっても、決して不自然ではないようと思う。
 これが二次元的な「板の卒塔婆」ではなく、三次元の「五輪の塔」としての「石の卒塔婆」の時代であれば、今は隠れているような、その意義も、きっと深く意識されていたのではないだろうかと想像する。
 現代では、教えてもらわねば、「板の卒塔婆」が「五輪の塔」の名残であることも知ることができない。また、「五輪の塔」を建てた心も知ることができないだろう。板の卒塔婆は、重量も軽く、形もただの板切れに見えるもので、「五輪の塔」の姿をそこに見ることは、助言なしには難しい。つまり、そこに込められた心も形式的なものになってしまい、忘れ去られてしまっているわけだ。
 ましてや、それを子孫に伝える話をする機会は、一昔前と比べても格段に減っている。何しろ、墓を維持することも、その墓を維持管理している寺の存在意義やその存続自体が問題になっているご時世だ。
 「板の卒塔婆」も現代ではお墓の飾りぐらいにしか意識されていない可能性が高い。「五輪の塔」もあと百年もしないうちに、単なる置物、飾り物としてしか意識されない時代が来る可能性も高い。最後の扱いは土に埋もれた発掘物だ。未来の考古学者が首を捻りながらいじり回す、研究対象物だ。それはそれで時代の流れだから仕方ないだろう。何しろ「諸行無常」の世の中だ。
 因みに、石の「五輪の塔」は残りやすいが、「板の卒塔婆」は残りにくい。もともと処分されてしまうものだからだ。だからこそ、簡単な造りにしてあるとも言える。木製ではあるものの、書き付け用、記録用の木簡が大量に出土することもあることを考えると、条件によっては「板の卒塔婆」がどこかで大量に出土される可能性もあるだろう。そのときに、「五輪の塔」との関連が解明できるほどの保存状態が保たれているであろうか。出土した木簡の状態を見るに、現在の「板の卒塔婆」の造りでは、かなり心許ない。

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日々雑感366「死刑制度に文句を言う条件」

 相手国の兵士を当然のように殺す戦闘行為を国が認めている。そうした国は自国の死刑撤廃をしたのだろうか。自国民は殺さない。他国民は殺してよい。そうした国のエゴイズムは正統化されるものではないだろう。
 当然、人命を重んずる「死刑撤廃の国や、死刑撤廃に向けて動いている国、あるいは、死刑撤廃の国ではないが、実質撤廃している国」は、戦闘行為も禁止しているのだろうと思うが、どうだろう。
 そうした国々は、日本の自衛隊の如く、ほぼ発砲しない人々で軍隊を組織しているはずだ。発射しないミサイル、発射しない砲弾、発射しない機関銃、そうしたもので武装しているはずだ。発射すれば、他国民が死ぬからだ。だが、そんな話は聞いたことがない。
 日本に人の命の尊さを以て死刑撤廃を強要する以上、その国の軍隊は日本の自衛隊並みの防衛力本意の装備にしなければならない。
 日本に人の命の尊さを以て死刑撤廃を強要する以上、その国の警察官は日本の警察官並みの発砲手順と規則にしなくてはならない。特に、犯人逮捕時の発砲は日本並みに禁じ方にしなくてはならない。
 日本に人の命の尊さを以て死刑撤廃を強要する以上、何より自国の憲法に、日本の憲法第九条の如き、戦争放棄の条項を加えなくてはならない。戦争は裁判なくして殺人を犯す、死刑以上の異常行為だからだ。
 少なくともこの三つの条件がそろったとき、日本の死刑制度にクレームをつける準備ぐらいはしてよいだろう。少なくとも強要するのは民主的ではないだろう。
 もし、死刑撤廃の動きが芽生える土壌が育ってきたところだとしたら、他国の強要によって、その芽生える土壌すら葬られることになってしまうだろう。そうした微妙な問題であるところに気づけないのは、さすがヨーロッパ諸国の血塗られた歴史に培われた文化を背負っている人々だ。
 もっとも、ごく一部のオピニオンリーダーが、何かの理由によって動いているだけなのだろうが、それに賛同する民衆も多く出てくるから、何とも罪なことだ。まず、死刑制度だけに注目するのではなく、死刑制度も含めた国の様々な制度をトータルで考えなければならないという、常識的な思考を否定することをやめることだ。一点に注目させるのは、それ以外のことを無視することだ。
 人々に、無視を土台とする思考法に慣れさせていく政治的行為とは何だろう。その目的とするところを考えれば自ずと答えは導き出される。しっかり目を覚ましていないとヨーロッパの人は死刑制度撤廃一点張りの論理によって、物事を総合的に判断できない脳に改造されていってしまうだろう。それは思考を放棄するのと同じだ。
 客観的で総合的な思考を人々にされては都合の悪い人々。古今東西、そうした人々はいるものだ。もし、そうした本来の目的なしに活動しているとするならば、愚か者というよりは、ただの使いっ走りだろう。しかし、それも考えにくいことだ。

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変な疑問217「五輪の塔の不思議」⑮

 その他、遺体に対して、「忌むべきものと同じ思い」「恐怖すべきものと同じ思い」「滅ぼすべきものと同じ思い」等々を抱くのはどうしてか。
 それは、亡くなった人に対する、周囲の人々による、生前における大小の仕打ち、その蓄積に関係すると思われる。
 亡くなってしまったが最後、仲直りのチャンスも、誤解を解くチャンスも、真意を理解してもらえるチャンスも失われる。亡くなった人が仕打ちだと感じていたであろうと思われることが固定されてしまうのだ。それら生前の諸々の負の思いが一体となって恨みの念として残ると考えられても不思議はない。
 記憶にとどめられている気になる言葉、最期の表情、そうした故人が遺したものが、恨みの念に関連して負の材料として解釈されることも十分にあるだろう。
 村八分が火事と葬式だけにはつきあうというのも、火事の場合は火が移って被害を受けることを恐れてのこと、そして、葬式の場合は村八分の仕打ちが恨みの念となって被害をもたらすようになるのを恐れてのことだろう。たとえその家族が死滅しても、その土地はその村に残ることになる。そして、その恨みの念がこもっている土地は、自分たちの土地と接しているのだ。悪い出来事は、そうしたものと結びつけられやすいものだ。
 村八分であろうとなかろうと、とある人物の死後に起こる様々な不都合や事件や災害が、そうした恨みの念と結びつけられて解釈されることは、現代であってもなされることだろう。当然の心理作用だといってもよいだろう。
 逆に、理不尽な災害などは、恨みの念と因果関係で結びつけられたほうが、かえって理解しやすいものですらある。尚且つ、そのように解釈した以上、それなりの対応もしやすい。歴史の中で培われた方法が伝承されているはずだからだ。
 勿論、どんな方法を採用して対応したとしても当然のことながら何の効果もないのだが、不都合、事件、災害が連続するはずもなく、その対応の効果や対応の怠りを、因果ありと関連づければ、結局は対応の成果が実ったと解釈されることとなり、その方法が評価され、更に逸話を雪だるま式に増やしながら、もっともらしく伝承されることになるだろう。
 また、対応の効果がありと皆が認めることで、やはり原因があったからこその効果だという話になり、それが亡くなった人の恨みの存在を信じる根拠となっていくことだろう。こうして、何の罪もない「遺体」が、あらゆる理不尽なものをもたらす原因を宿していたものとしての側面をもつように変化してしまうと思われる。
 実質的には何の手の打ちようもないものに対してだからこそ、民間療法的なまじない、宗教的儀式、特殊能力者と認定されている人の所作や音声を伴う法力等々を、効果有りと信じてすがる人々の姿は昔の人は元より、現代人の中にもある。
 葬式でも、お供物でも、蝋燭でも線香でも、そして読経でも、その効果有りと信じる心の奧に、結局こんなものは気休めでしかなかろうという本音が隠れていれば、そして亡くなった人と良好な関係でなかったとすれば、なおのこと恐ろしく感じるだろう。
 だからといって、身内、あるいは関係者であったがゆえに無碍にもできない。そうしたジレンマが、「ご遺体」に対して忌まわしい感じをもたせるのではないだろうか。
 玄関先に「忌中」と堂々と貼り紙をするのは、何かのお呪いのつもりかもしれないが、空き巣狙いの格好の餌食となるためのマークだとしか思われない。逆に、おとり捜査で使えないこともなさそうだけれど、それはそれで罰当たりだという感覚を持っている人はまだ多いだろうとは思う。
 ともかく、そうした「遺体」に対する恐怖感や忌避感を抱きながら、その「魂」の冥福を祈るという屈折した心の構造を維持継続するのは、精神的にかなりの重労働だ。
 そうなると、その負担の根本原因となる「遺体」は、一刻も早くというよりも、適切な場所、適切な時に、適切な方法で、適切な人が、適切な理由で処分し、それを適切な方法で周囲に伝えて認めさせ、事を解消して日常に戻る必要が出てくる。
 体裁が悪いからこのように表現するが、一言で語弊を恐れず表現すれば、「存在を滅する」つまり「遺体」を滅ぼすのだ。「滅ぼすべきものと同じ思い」は、こうして他の様々な美しい思いと同居することになるはずなのだ。
 ここまで縷々述べてきた「仏と同じ思い」から「滅ぼすべきものと同じ思い」までの、さまざまな思いが、お通夜、葬式、火葬、納骨という手順にしたがって儀式を行い、できるだけ多くの関係者に来てもらえるように門戸を開けて公開する、一連の葬送行動の裏にある精神的な事情に他ならないだろう。
 「五輪の塔」は、消滅させた「遺体」の代わりのもである可能性もある。「遺体」が宿していた様々な念も、同時に五種類の要素に分解され、解消してしまっている姿と見做すのだ。
 「遺体」や「念」は要素にかえることで無害化する。そして「魂」が昇天する。こうした考え方を確認するために物として、塔として建てたのが「五輪の塔」だったのではないだろうか。遺された者にとっては一種の無害化装置というわけだ。   

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日々雑感365「ジェノサイド発言の妙な取り扱いと死刑」

 オウム真理教の教祖をはじめ計7名の死刑囚の死刑が執行された。法に則って実行されたにもかかわらず、他国からの批判もある。世界の潮流に従えという圧力だ。
 死刑制度の廃止だけを批判するというのは、何と幼稚な判断、批判自体の効果を計算に入れようともしない、素朴過ぎる対応だろう。多分、そうした姿勢を示すということ自体に意味があるのだろう。
 オウム真理教に関係する現在の宗教団体を、そうした国々に移すという手もある。そうすれば、またサリンを撒いて大量殺人を繰り返しても、日本で死刑にならずにすむ。「猫を追うより皿を引け」だ。皿を死刑撤廃国に引けば、猫はそちらへ行き、思う存分活動するだろう。日本も新たな死刑囚をたくさん抱えて執行するのに困るような事態から解放されるだろう。
 一宗教家の判断のみで人殺しが実行されることが認められている教義の宗教など、そうそうないはずだ。そうしたものを一度抱えると、判断も変わってくるのではないだろうか。真面目な若者が次々に殺人に手を染めるのだからたまらない。
 死刑ではなく、国外退去というのはどうだろう。危ない国家へ喜んで行き、国家ぐるみで何か活動することになるかもしれない。そうすると、イスラム国ではないが、解放という名の下に死刑が執行される。呼び名が違うだけだ。しかも、死刑制度の死刑よりも当然残虐で、大量の殺人が行われる。そうしたものは別に問題ないのだろうか。
 批判するならば、その死刑制度を生み出した日本という国、その国の歴史や文化、その制度が維持されている法的根拠、国の仕組み、国民の意識、その意識を育んできた日本の歴史や文化、そうしたものから批判しなくてはならない。一つの制度だけに焦点を当てるのは賢いやり方ではないが、まあ、何かの示威行為としてならば何となく理解できる。
 本当に日本の死刑制度にクレームをつける気でいるとしたら、日本と同じように戦争放棄の憲法をぜひ取り入れてもらうように、それらの国々にクレームをつけよう。これで一気に全世界が平和になるだろう。世界平和を妨害しているのは、戦争放棄の憲法を拒否している国々だと言われても仕方ないと思う。
 ついでに、それらの国々には、警察官の拳銃発砲に関する手順や規則を、ぜひとも日本レベルにしてもらおうではないか。EUには、警察官が拳銃を持っていない国だってあったのだから。いや、そうでもないか。
 そもそも、その法律が他国に対するものでもないのに、他国がクレームをつけることが許されるのだろうか。そうした行為はクレームをつけられた国の国民感情を悪化させ、頑なにさせ、死刑制度を犯罪者なみのおぞましきものに改変させていく可能性を生み出しかねない。それは日本としても不本意だろう。どのように変化するにしても、他国の圧力によって、自国の制度が変化させられてしまうのだから、おそらく逆効果しか得られないだろう。
 何せ「腹を切る」とか「腹を切れ」とかいう物騒な表現が、今も日常生活で普通に使われている国が日本なのだ。腹ならまだ生きているかもしれない。会社には「首を切る」という表現だってある。首を切り取ったら確実に死ぬのだ。
 とにかく、文化に根ざしたものだから、急に変化させたら碌な事はない。日本文化の中の「腹切り」文化も、先ずは絞首刑に変更したところだ。その国その国の実情に合った方法で、自ずから成長するのが最も好ましいのだから、温かく成長を見守ってほしいところだ。
 自分と同じ考えを他国に強要するのが大好きな国々は、これまでどんな理不尽な行為、そして残虐行為を行ってきたか、胸に手を当ててみるとよい。おそらくはそれらの国々がそうであったように、日本も日本の歴史や文化の変化を踏まえて、独自のやり方でこれから成長していくのだから。それとも、何か全く別の目的があって圧力をかけているのか。そういうことならば、日本の死刑制度に対するクレームもよく理解できる。
 良心的に見れば、日本に死刑廃止を迫るEUは自らの胸に手を当てているからこそ、日本に死刑廃止を迫っているのかもしれないと考えられる。あまりに長期間にわたり、異教徒や異端とみなした人々に対して自分たちが犯してきた大罪、それがどうしても拭いきれないのだろう。どうしても今回は宗教絡みであるために注目せざるを得ず、また自らの過ちが現在の日本の死刑制度に重なってしまうのだろう。当時としては恐らくヨーロッパでは正式な裁判とされていたはずだからだ。ああ、日本も同じ間違いを犯している。ああ、私たちが救ってあげなければ。まさかとは思うが、そういう心情、いや論理なのだろうか。
 それよりも気になるのは、7月6日、テレビ番組「情報ライブミヤネ屋」で参議院議員の有田氏が死刑執行についての疑問点を述べるとともに、法務省幹部の「(13人の同時執行は)ありませんよ。そんなことをやったらジェノサイドです」という言葉を紹介したことに対して、ツイッターで有田氏を批判する投稿が殺到したということだ。
 もう一つは、このことをネットで披露しているリテラというニュースサイトのジェノサイドに関する見解だ。何と、<「ジェノサイド」=虐殺>と明記して説明しているのだ。どうしたらこのような誤解される説明を平気でするのだろう。ニュースサイトのライターなら、一般人ではないと僕たちは見る。しかも、「まるで公開処刑!」というピント外れな言葉から始まる題名をわざと掲げ、「まるで公開処刑! オウム大量死刑執行を“実況中継”したマスコミの狂気! 死刑執行に世界からは非難の声」という長い題名を読ませるやり方に、読む人は、この問題の権威者なのだろうという前提に立ってしまう。
 そうでなくてもサイト名に添えて「本と雑誌の知を再発見」と書いてある。読む人は、書いてあることに間違いはないだろうとついつい思ってしまうものだ。その分だけ言葉の責任を持ってもらわないと、「法務省の幹部が言っているのだから、一昔以上前の死刑囚13人に対して一度に死刑執行するなんてことは、ジェノサイドなんだよなあ」と思ってしまう人がたくさん出現することになってしまうのだ。
 突っ込みどころがありすぎてびっくりするのだが、いつから「ジェノサイド」が「虐殺」という意味に変化したのか。いつから日本の死刑が「虐殺」の方法を採用するようになったのか。法務省の幹部全員の統一見解としての発言なのか。それとも、とある法務省の幹部が、法務省の幹部としての立場で公式に発言したことなのか。それとも、とある法務省の幹部が私的見解で発言したことなのか。そもそも、その法務省の幹部は13人中何人の死刑執行ならば問題ないと考えているのか。その数字の根拠は何か。まさか、年あたりの平均死刑執行人数と照らし合わせてなどという、ふざけた理屈ではなかろう。
 たとえば、一事件で100人の死刑が確定したとする。有り得ない話ではない。これを特殊な例だから意味がないという人は、よほど脳天気な人だ。ネット社会であること、そしてこれからの社会がどう変化するかを現状から想像してみるに、十分あり得る話だ。脳天気な人が多いから、これまで様々な新しい犯罪が生まれるのを未然に防げないままできている。法整備の遅れから随分と多くの人が不幸になったり、殺されたりする人も後を絶たない。脳天気な人はそれでも裁かれない。
 その事件で100人の死刑が確定すると、その執行方法が批判されるから、100人の死刑判決を出さないかもしれないが、そうしたことを目論んでの事件であるかもしれないのだ。これからは「そんなこと有り得ない」という見方こそ、有り得ないと知るべきだろう。
 裁判官がどうしても100人に死刑判決を出さざるを得ない状況を作れないことはないだろう。すると、どのように死刑執行をするのだろう。勿論、仮に100人一斉に死刑を執行をしても、それをジェノサイドとは言わない。日本が気にする全世界にも、死刑制度を批判するEUにも、それがジェノサイドだとは絶対に言わない。ただ死刑制度を批判するだけだ。
 ジェノサイドというのは、かの法務省の幹部とその記事をネットに載せて<「ジェノサイド」=虐殺>と書き込んだニュースサイトのライターと、そのネット記事を鵜呑みにした人だけだろう。
 かの法務省の幹部やネット記事を書いた人は、「ジェノサイドというのは、あくまでもたとえです。ジェノサイドのようなという意味合いですけど。」と言うかもしれない。だが、そうとは思えない内容の書きぶりだ。仮にたとえだという言い訳を百歩譲って認めたとしても、たとえとして成立しない。
 なぜなら、それは既に、オウム真理教が、実質的にはその教義を変えることなく、名を変えて三つの団体に分かれて存続しているという見解が一般的になされているからだ。そして、ただ存続しているだけでなく、オウム真理教が起こした、それこそジェノサイドが始まったかと錯覚させられる殺戮事件を知らない人たちを中心に新しく信者が増えていき、勢力拡大、資産増加の一途をたどっているのだから。つまり、ジェノサイドの逆、子孫繁栄と同じ状況を迎えているという実態があるからだ。そうしたところから、どうにも解せないのだ。
 もしかすると、かの法務省幹部は「ジェノサイド」を単なる「皆殺し」として理解しているのかもしれない。しかし、優秀な成績で大学を卒業しているはずだから、それも考えにくい。
 最も実態に近いのは、かの法務局幹部が、会話が弾むことを期待して、敢えて国家、民族レベルでの抹殺を意味する「ジェノサイド」という言葉を選んだのを、有田氏がその反響を計算に入れずにテレビ番組という、ある意味で公的な場で、幹部の意図を説明することなく、その場の雰囲気から切り離された、そして前後の言葉から切り離された発言の一部を、結果として無責任に引用してしまったところ、当然の反響が生じたというところだろう。
 かの法務省の幹部こそ、自分の言葉を使われていい迷惑だが、自分が法務省幹部であるということと、聞かせた相手が有田氏でテレビによく出る人であるということを踏まえて発言しなかったのだから、自業自得ということなのだろう。そして、このことをネット記事にし、さらなる問題を、意図するしないにかかわらず、起こしてしまった人がいるということだ。
 最も問題なのは、このネット記事を書いた人が、ネット記事の不適切な発言に惑わされるということだ。
 たとえば、以下に前後の文章を略した一部を引用してみると、

「LITERA 本と雑誌の知を再発見」 2018.7.8 より

(前略)
「もちろん、7人もの同時執行は「ジェノサイド」というべき異常なものだが、本質はその数ではない。冒頭で紹介したように、事実、国際社会は明確に死刑そのものを否定し、多くの国で死刑制度は廃止されている。
 国際NGOアムネスティによれば、2017年末時点で、全犯罪に対して死刑を廃止した国は106カ国、執行を停止した事実上の死刑撤廃国も含めれば142カ国にのぼる。これは国連加盟国の3分の2を優に超えるものだ。
 先進国ではこの傾向はさらに顕著だ。死刑制度撤廃を加盟条件にしているEU加盟国はもちろん、スイス、ノルウェー、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、メキシコ、ウルグアイ、トルコ、イスラエル……。実は、OECD参加35カ国の中で、死刑制度をもつのは、アメリカと韓国、日本のみ。しかも、アメリカはこの10年で死刑執行したのはテキサス州など、一部の州に限られている。韓国は1998年の金大中政権発足以降刑が執行されておらず、2007年にはアムネスティに事実上の死刑廃止国と認定されている。OECD非加盟国では、あのロシアでさえ死刑執行は1996年を最後に停止、その後憲法裁判所も死刑を禁止しており事実上廃止されている。言うなれば、国家として死刑を積極的に執行している先進国は日本だけなのである。
(後略)

とある。幾つもの疑問が出てくる文章だ。年がいってなければ、これを真に受ける人もいるはずだ。

・第一の疑問
 「7人もの同時執行は「ジェノサイド」というべき異常なもの」とあるが、それは「ジェノサイド」というべきものではないことは明白だ。まずは辞書を引くべきだろう。
・第二の疑問
 なぜか筆者は<「ジェノサイド」=虐殺>としているが、安楽死であろうが虐殺であろうが、国家、民族、宗教団体が成立しなくなるほどの大量の殺人がジェノサイドだ。オウム真理教は形を変え、しかも三分割されて、それぞれで発展している最中だ。かつてのオウム真理教の1万人規模からいっても、現状の発展をみても、それがかつての教祖や幹部であっても、人数からしても、団体への影響からしても、合法的であることからしても、それは「ジェノサイド」ではない。
 もし、それがジェノサイドなら、各家庭という団体の大黒柱であろう人々を29名、文字通り虐殺、いや虐殺を上回る惨殺した、オウム真理教は29回のジェノサイドを実行したのと同じになる。しかも、確実に家庭を破壊した。半分壊されて生き地獄の人もいる。負傷者を入れたら数千人だ。数だけが問題ではないかもしれないが、確実に数は問題となる。それと比べたら、絞首刑は安楽死に近い。しかも7人だ。死の覚悟をつくる時間も十年以上あった。正しいことをしようとして、あるいは訳もわからないままに、全く理不尽にオウム真理教幹部らに突然惨殺された人たちと比べたら、どうだろう。被害者あっての加害者だ。被害者抜きに語るのは道理から外れている。
 そうであるにもかかわらず、筆者はなぜ「ジェノサイド」というような、とある法務省幹部の発言を利用したのか。法務省幹部は本当の意味のジェノサイドという認識を持っていないだろうことは明らかであろうに。国に対してもの申す、自分のバックには世界の批判があるのだという、そうした安全地帯で「鬼の首取った」感を味わいたいのだろうか。しかし、そんなちんけな人が、ニュースサイトを開いていることも考えにくいから、ますます分からない。
・第三の疑問
 「本質はその数ではない。冒頭で紹介したように、事実、国際社会は明確に死刑そのものを否定し、多くの国で死刑制度は廃止されている。」と言った舌の根も乾かぬうちに、いや書いたのだから舌の根は関係ないのだが、続けて「国際NGOアムネスティによれば、2017年末時点で、全犯罪に対して死刑を廃止した国は106カ国、執行を停止した事実上の死刑撤廃国も含めれば142カ国にのぼる。これは国連加盟国の3分の2を優に超えるものだ。」とある。
 これはどういうことなのだろう。「本質はその数ではない」と言いながら、国の数、しかも去年のデータを載せて、自分の論拠を強化しようとしている。
 どんなことでも数値化できる。だが、数値化の方法が間違っている場合もあれば、数値自体が間違っている場合もある。また、数値化する範囲が不適切な場合もある。こうしたことによって生じるのが、数字のマジックというやつだ。だが、今回はそうした数字のマジックは関係ない。
 死刑廃止にした目的が、国によって異なるであろうということが抜けている文章だ。あるいは、死刑廃止を自国の必要性に応じて行った国がどれだけあるか、他国に非難されて死刑廃止を行った国がどれだけあるか、世界の流れだからという理由だけで死刑廃止を行った国がどれだけあるか。その他、いろいろあるだろう。勿論、表向きの理由ではなく、経緯を見なくてならない。そこに触れてないけれど、文章の内容から、どうしてもそこには最低触れていかねばならない問題だろう。ネットで拾ってきたような数字だけで文章を組み立てるのは、読む人を軽く見ているという感じを受けてしまう。
・第四の疑問
 「先進国ではこの傾向はさらに顕著だ。死刑制度撤廃を加盟条件にしているEU加盟国はもちろん、スイス、ノルウェー、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、メキシコ、ウルグアイ、トルコ、イスラエル……。実は、OECD参加35カ国の中で、死刑制度をもつのは、アメリカと韓国、日本のみ。」とある。
 しかし、先進国とは何の先進国のことだろう。産業の先進国ということか、科学技術の先進国ということか。もしかして、経済大国的な国のことか。文化の先進国のことか。医療先進国のことか。福祉の先進国のことか。その他、いろいろある。
 まさか、所謂先進国というやつか。統計的なデータの範囲をどうとるのかという問題だ。範囲の決め方によっては、随分と異なる結果が、動かせぬ数字で出てくる。
 また、「実はOECD参加35カ国の中で」とあるが、どうしてOECDという枠組みを選択したのだろうか。OECDの母体はEUなのだから、OECDを範囲として持ち出した時点で、それは死刑制度を有する日本を批判しているEUの意見を持ち出したのと同じではないか。35カ国中22カ国がEU諸国で、そのEUへの加盟条件に死刑制度撤廃があるのだ。この筆者の論法?何をか況んやだ。
 さらに、「実は、OECD参加35カ国の中で、死刑制度をもつのは、アメリカと韓国、日本のみ。」と続く。
 これはかなり不正確な記述だ。アメリカは合衆国の形なので、国として述べるときはアメリカといっても不正確であり、合衆国といっても、USAだけが合衆国ではないだろうから、ここはアメリカ合衆国とか、あるいはUSAとか表記した方がよいだろう。
 しかし、問題にすべきはそんな名称の記述の問題ではない。「死刑制度をもつのは、アメリカと韓国、日本のみ」というところだ。
 確かに、アメリカ合衆国は死刑制度をもっている。しかし、アメリカ合衆国として死刑制度をもっているわけではない。これは恐らく中学生に聞けば分かることだ。今もそうだろうが、全50州のうち、30州に死刑制度があるが、20州には死刑制度がないのだから、ここはアメリカ合衆国の60%の州には死刑制度があるとすべき部分だろう。「死刑制度を持つのは日本と韓国、そしてアメリカ合衆国の30州(60%)のみ」とすれば、大方よいだろう。筆者の言うように世界の潮流が死刑廃止に向かっているというのなら、死刑のない州を強調すべきだと思うのだ。しかし、そうしない。そこも分からないところだ。
・第五の疑問 
 「言うなれば、国家として死刑を積極的に執行している先進国は日本だけなのである。」とあるが、そうだろうか。随分と積極的に執行したのは、2001年、池田小学校で児童を8名惨殺し、負傷者も多数出した犯人の死刑だ。他の死刑囚と異なり、一年後には執行された。それ以外は積極的に運用されてはいないはずだが、どうだろう。
 少し調べれば、ネットでも死刑の実態が分かる。しかし、犯行の実態、被害者の実態、それは調べられない。それが調べられたとしても、それを他国の犯罪者の犯行の実態、他国の被害者の実態と比べる意味があるだろうか。国が違えば法律も違い、日本では犯罪であっても、他国では犯罪ではない場合もある。その逆もだ。
 しかし、極刑、最高刑を比べたり、同じ犯罪の刑の重さを比べる意味はあるだろう。比べる目的は、他国に合わせるためか、それとも他国を自国のものに合わせるためか。それは、両方おかしいだろう。比べる目的は、実態を知るということであったり、他国の人が犯したい犯罪がこの国では軽い罰のために、移住してきて実行するということを防いだりと、被害者を守るためのものであったり、被害者や被害者の遺族が納得するものであるための模索であったりすべきだろう。
 そもそも、「先進国」という言葉が目立つのはなぜだろう。日本は科学技術の先進国ではあるけれど、それ以外ではどうか。トータルで先進国かといえば、そうではないだろう。経済的にはかつては先進国だったかもしれない。文化的にはどうか、昔の文化、それも大方は江戸時代のものばかりだが、そうしたものが辛うじて建物や作品の中に息づいてはいる。
 他に誇れる先進的なものといって、これといったものがあるだろうか。勿論、作り上げられた虚像としての日本文化は内外にある。しかし、今生み出している文化は、果たして先進国的なものだろうか。そうは思わない。皆がそう思ってしまったら、文化は衰退していくに違いない。発展途上の意識がどうしても必要なのだ。

 国連加盟国の三分の一の国々には死刑制度がある。それぞれの国にそれぞれの歴史的背景や文化的背景がある。そして、それぞれが成長していく。成長は必ずしも存続を意味しないところが恐ろしいのだが、人生という短期間をレベルとしてみていけば、現在のところ、成長は存続を目指しているといって間違いない。
 存続をめざして各国が、できるだけ成長発展することを望んで活動している。その中で生まれた制度を実情に合わせて変えていくのは当然のことだ。しかし、それは外圧によるものであってはならない。民主国家であるのだから、その手続きに則って制度を改変すればよい。
 世界には変な法律がたくさんあるだろう。勿論、日本人の目からすると変なのだ。しかし、変だと思うのは、その国の歴史と文化を知らないからだ。無知であるがゆえに変だと感じるのだ。同様に、日本にも変な法律がたくさんあるだろう。勿論、外国人の目からすると変なのだ。しかし、変だと思うのは、日本の歴史と文化を知らないからだ。
 勿論、日本人であっても日本の法律で変だと思うものはたくさんあるだろう。それは法律の知識がないからだ。どんな法律があるかという知識ではなく、どうしてその法律が定められたかという知識と、どのように運用されているかという知識と、どのような効果を上げているかという知識だ。たとえ運用されていない法律があったとしても、だからといって単純に削り取ってしまうのは愚かだ。何かに影響を与えている法律であったり、他の法律に関係する法律であったりするからだ。
 因みに、死刑廃止論者は、ご遺族の前で持論を展開するところから始めよう。それが日本に於ける死刑廃止論展開の第一歩だ。僕には到底できない。だから、死刑廃止論者になりたくてもなれないのだ。少なくとも、裁判を傍聴し、気絶しない程度に遺体の写真を見つめることだ。それなら何とかできそうだが、まず涙でよく見えないだろう。写真のうちはいい。そのうちに、立体模型とか、VRで再現動画を視聴させられたりとか、できるだけ正しく判断するために、できるだけ実際に近いものを資料として見せられるようになってくるだろう。
 しかし、正確に生々しく再現すればするほど、死刑判決が出やすくなるかもしれない。そうなると、ますます国際社会から日本は孤立するだろう。特にヨーロッパの人々からは、人間扱いされないかもしれない。野蛮人扱いだ。
 だが、それは偏見というものだ。刑法の途上国である日本に対する差別だ。日本人が死刑制度のある日本という国に生まれたからといって、決して国連加盟国の三分の二にあたる死刑撤廃した国々の人々から、変な目で見られたり、罵倒されたり、非難されたりしてはならないことだけは確かだ。でも、死刑撤廃国が、そうしたくてうずうずしている人たちの温床となっていないことを祈るばかりだ。
 日本はどんな批判を浴びようが、外圧ではなく、被害者や遺族たちが先頭に立って死刑制度廃止運動を展開するという理想の形を追い求めていけばよいと思う。勿論、死刑は残虐だということなので、残虐ではないし刑の仕方や、死刑に匹敵する刑が開発されればよいのだろう。
 脳を操れば、どんな刑でも可能だ。殺すことなく罰を与えられるから、日本はそうした技術を持つように進んでいくかもしれない。

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恐怖シリーズ216「恐怖の管理」

 ものを知らぬというのは、実に恐ろしいことだ。次に恐ろしいのは、ものを考えないということだ。次に恐ろしいのは、知っていることだけをもとに考えてしまうことだ。その次に恐ろしいのは、考え方が偏っていることだ。その次に恐ろしいのは、その偏った考え方にこだわってしまうことだ。その次に恐ろしいのは、その偏った考え方にこだわり続け、日常の行動がその考えにとらわれてしまうことだ。その次の恐ろしいのは、その行動の結果として他人を不幸にしてしまうことだ。その次に恐ろしいのは、他人ばかりでなく、自分自身も不幸にしてしまうことだ。
 およそはこの順番で恐ろしいことが起こるように思う。しかし、順番が変わる場合もある。また、順番が抜ける場合もある。
 お互いの幸せのために、ものを知る努力を怠ることはできない。ものを知るといっても、学校と名のつくところで学ぶ、最低限の知識を身につけるということだけではなく、「世の中の物事を知る」という意味合いでの「ものを知る」であることは、言うまでもない。
 ときどき、こうした当たり前のことを、自覚する必要があると思うことに出くわすときがある。それはきっと神がくれたプレゼントだろう。
 恐ろしいことであると自覚する重要性。何を恐ろしいと感じるべきかという、恐ろしさの必要性。それらを踏まえた「恐怖の管理」は、余りお金をかけずに楽しめる、娯楽の一種に近いものではないかと思う。必要なことは大抵楽しいものだからだ。
 「恐怖の管理」とは、「恐怖をなくすこと」に限ったものではないのではないか。語弊を恐れず言えば、それは「恐怖の活用」と言ってもよい側面をもつものではないかと思う。
 すると、恐怖をなくすことは、ある意味恐ろしいことだと考えた方がよさそうだ。備えあれば憂いなしだ。恐怖は人に考えを持たせてくれる。考えをもっている人には勇気がうまれる。恐怖は人に準備をさせてくれる。準備があれば、行動力も高まる。成功率も高まるだろう。
 恐怖心のない兵隊は、恐らく最も早く死ぬだろう。好奇心が恐怖心に勝れば、トラップにかかりやすくなるだろう。
 因みに、知る恐怖、知らない恐怖は、具体例を挙げたとしても、なかなか比べがたい恐怖だ。

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誤字脱字・内容不適12「植物一日一題」

 牧野富太郎氏の痛快な随筆として有名だ。最初から最後まで、実に楽しく読ませてもらった。歯に衣着せぬ物言いが、爽やかだが、言われる方はたまったものではないだろう。著述には著述で記録に残しながら反論するのがよいと思う。
 さて、1998年発行(青空文庫)のものと1953年発行(東洋書館)のものを読んだのだが、残念ながら、その両方に誤植がある。出版物には、多少なりとも誤植の類はあるものだけれど、訂正される可能性が少なかろうと思う。
 「序文の代ふ」についての不思議は別の項目で述べたので、ここでは示さず、誤植だけの指摘で済ませたい。また、昔の本なので、今となっては当て字と見られるものも、その程度は無視しておいてもよいだろう。だが、見逃せないものもあるから、そのうち目立ったものを掲げておけばよいかと思う。
 
★1953年発行「随筆 植物一日一題」(東洋書館)
・「無憂花とはどんな植物か」に
<因果経ニ云ハク、二月八日ニ夫人毘蘭尼園ニ住ミ、無憂花ヲ見テ右手ヲ挙テ摘ミ、右脇ヨリ出デタマヘリ>とある。
 しかし、この中の「毗蘭尼園」はどこのことだろう。これはランビニオンではないのか。お釈迦様が誕生したランビニオンの無憂花のはずだから、漢字の並びが違うように思う。
 ここはどうしても「蘭毗尼園」でなくてはならないところだ。「毗蘭尼園」では、ランビニオンではなく、ビランニオンとなってしまう。そんなところはないだろう。どうして漢字が入れ替わってしまったか理由が分からない。
 まさか、牧野富太郎氏が間違えたのだろうか。それは考えにくい。不思議だ。この本は青空文庫版の「底本の親本」だから、青空文庫版も入力者が仏教に疎ければ、何の躊躇もなく「底本の親本」のままに、いや「底本」のままに入力してしまうに違いない。
 ということは、なんと、1998年発行の博品社のも、ノーマークで植字されてしまった可能性が極めて高い。なんと、三種類の「植物一日一題」すべてが「毗蘭尼園」になっているという、恐ろしい間違いの連鎖が完成してしまっているいうことなのか。一体どれだけの人々の目をスルーしてしまったのだろう。
 校正は文章を読むのではなく、一文字一文字だけに注目せよと言われる。しかし、本当は、その後で文章としても読まねば、大きなミスは防げないはずだ。

・「万年芝の一瞥」に
<また海にある珊瑚礁の一種であるキクメイ石の如きものも含まれてゐるやうである。>とある。
 しかし、この中の「キクメイ石」とは何だろう。どのような漢字を書くのだろう。菊明石だろうか。それとも、菊銘石だろうか。いやいや、その両方とも聞いたことがない。
 ここは珊瑚礁の一種というのだから、菊目石だろう。つまり、仮名書きして「キクメイシ」でなくてはならないところだ。「キクメイイシ」では「イ」が一つ余分だ。百歩譲っても「キクメ石」だ。
 また、牧野氏が珊瑚礁とは変だが、キクメイシは動物だから、専門外ということだろうか。もし書くなら珊瑚礁ではなく「珊瑚」だろう。

★1998年発行「植物一日一題」(博品社)を底本とした2012年作成「植物一日一題」(青空文庫)
・「ハマユウの語原」に
<『万葉集』四巻に「三熊野之浦乃浜木綿百重成心者雖念直不相鴨」という柿本人麻呂の歌がある。この歌中の浜木綿は即ちハマオモトである。この歌の中の「百重成」の言葉は実に千釣の値がある。浜木綿の意を解せんとする者はこれを見のがしてはならない。>とある。
 しかし、この中の「千釣の値」とは何か。たくさん釣りをするのに値するということなのだろうか。そんな言い回しはない。
 ここはどうしても「千鈞の値」でなくてはならない部分だと思う。「釣」と「鈞」はよく似ている漢字だ。一画違いだ。しかし、当然のことながら意味が全く異なる。見た目で判断して入力してしまい、校正の段階でも見逃されてしまったと思われる。
 ただ、「千鈞の値」という表現は古いので、今はあまり使わないのも確かだ。間違うのもやむを得ないかもしれないが、それは許されていてはならないことだ。「値千金」と混同して「千金の値」としなかったのだけは、良かったと思う。読み取りソフトの間違いを訂正し損ねたのだろうか。それとも、ただ見間違えて入力したのだろうか。
 
・「センジュガンピの語原」に
<千手原 是は千手崎より続き赤沼原[牧野いう、今はアカヌマガワラというのだが、往時はかくアカヌガワラと呼んでいたのか]の南西によれり広さ凡一里半余も有ける由茲は徃反する処にあらねば知れるものすくなし千手がぴんと称する
草花の名産を生ず>とある。
 しかし、この中の「千手がぴん」とは何のことか。「がぴん」というオノマトペは存在するかもしれないが、千の手ががぴんとなってしまうとはどういう様子を表現したものだろう。
 ここはどうしても「千手がんぴ」でなくてはならない部分だと大もう。そもそも、雁皮なのだから、「がぴん」は有り得ない。どうしても「千手がんぴ」のはずだ。よほど急いで入力したのだろうと思う。

・「三度クリ、シバグリ、カチグリ、ハコグリ」に
<搗栗加知久利ト訓ズ、熱栗ノ連殻ヲ取テ日日晒乾シ皺ムヲ待テ内ニテ鳴ル時、臼ニ搗テ紫殻及ビ濇皮ヲ去ルトキハ、則チ外ハ黄皺、内ハ潔白ニシテ堅シ>とある。
 しかし、この中の「熱栗」とは何だろう。炒りたての焼きたての茹でたての「熱い栗」のことなのか。それは如何にも不自然だ。読み方を示しておいて、いきなり「熱い栗」とはどういうことだろうか。なぜ熱いのか。その説明がないのは如何にも唐突だ。
 ここはどうしても「熟栗」でなくてはおかしい。「熟」と「熱」は似た漢字だけれど、意味が全く異なる。熟した栗を天日に干すというのなら了解できるところだ。そもそも、どのようにして熱するかの説明がないのもおかしいが、熱してから日に干すのだとすれば、そうする意味もよく分からない。やはり「熟栗」のはずだ。
 本家本元、青空文庫版の「底本の親本」でも、「熟栗」となっているから間違いないとは思うけれど、「底本の親本」が全て正しいわけではない。必ずと言ってよいほど誤植はあるはずだから。そして、最も誤植が多いのは、初版本であるはずだから。後の世のものになればなるほど、間違いが修正されていく。一応それが道理だと思う。

・「無憂花」に
<因果経ニ云ハク、二月八日ニ夫人毗蘭尼園ニ住ミ、無憂花ヲ見テ右手ヲ挙テ摘ミ、右脇ヨリ出デタマヘリ>とある。
 この中の「毗蘭尼園」は、「底本」も本家本元の「底本の親本」も間違っていたと考えられる。三種類の「植物一日一題」全てが間違っているというわけだ。「底本の親本」が間違っていたら、やはり正しくすべきだろう。ここは繰り返すが、かの有名なランビニオンなのだから、「蘭毗尼園」でなくてはならない。

・「万年芝の一瞥」に
<また海にある珊瑚礁の一種であるキクメイ石の如きものも含まれてゐるやうである。>とある。
 しかし、この中の「キクメイ石」とは何だろう。これも、本家本元の本、つまり「底本の親本」が「毗蘭尼園」と間違えていたように、牧野氏のチェックをすり抜けて「キクメ石」とすべきを、「キクメイ石」となっていたために、恐らく「底本」の博品社のものも「キクメイ石」となっていることだろう。困ったものだ。
 本当は「菊目石」または「キクメイシ」と文字の種類を一本化したいところだけれど。

 他にもあるだろうが、ざっと目を通したところではこれが主なものだ。あとは現代から見ると当て字の類だが、これは最初に断ったように無視した。
 これらの本を読むと、牧野氏以外の学者は、どうも牧野氏とは意見が異なっていたようだ。また、牧野氏の時代から随分と年月が経っている。だから、最新の植物学では既に違った意見が主流となっているかもしれない。何といっても僕に植物の専門知識があるわけではないから、これ以上は今のところどうしようもない。

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