恐怖シリーズ333「少子化推進を喧伝した罪」

 少子化問題は、「少なく生んで大事に育てる時代の到来」という旗振りをしたマスコミにも大きな責任がある。旗振りが仕事だから仕方ないのだが、これはどうにもおかしかった。それは今から何年前だろう。たぶん四十数年前だろうと思う。定かではないが、印象だけは強烈に残っている。岩波文庫の古典的なマルサスの「人口論」を読もうと思ったのだから、おそらくは学生時代だと思う。
 テレビ番組での発言はこうだ。「世界は人口爆発の危機にある。だから、日本も少なく生むようにしなくては。」と何度も何度もいろいろな番組で報道していたのをはっきりと覚えている。それどころか、なんとテレビニュースでも何度もその考え方が紹介されているのを見た覚えがある。
 娯楽番組以外はあまりテレビは見ない僕でも、耳にしたのは二度や三度ではないのだから、実際にはかなり数多く報道されていたのではないだろうかと思う。
 所謂専門家や政府関係者の言をそのまま流すのは、伝達係としてのマスコミとしては当然のことだ。しかし、コメントの付けようはあるだろうと、その時は思ったものだ。
 今後の社会問題として大きく取り上げ、論議の場を作ることはできたはずだ。反対意見などをわかりやすく述べそうな評論家などを一覧表などからピックアップするのも仕事のはずだ。他に誰がそれをやれるのか。マスコミしかないではないか。
 もしかすると、そのような大議論がなされていた番組があって、あまりテレビを見ない僕だから、それを見なかっただけなのかもしれない。実際にはどうであったか分からないが、あったとしてもその大議論は何も実を結んでいないということだけは確かだ。どちらかというと、逆方向へと流れたのだろうか、今となっては少子化推奨の弊害は膨大なものとなるばかりの状態だ。
 まさかマスコミは少子化推奨の伝達者ではなく、原動力であったのか。もっと言うと言い出しっぺそのものであったか。あるいは、言い出しっぺを掘り起こすという愚を犯したのか。
 伝達係としてだけではなく、お得意の批判係としても、機能すべきときに機能しなければ、テレビにマスコミとしての価値があるとは思えない。
 国民一人一人は無力なのだから、国民の感覚をマスコミが生の声として、力ある形で示すことが必要だ。そのためのマスコミでなくて、何がマスコミと言えようか。そうした声も高まろうというものだ。
 最もまずいのは、価値を見極めきれずに何かを発信するタイミングを逃すことだ。そうなると、手遅れになってからのマスコミ登場ということになる。混迷してから、あるいは手遅れになってからのほうが登場のインパクトは確かに大きい。しかし、さすがにマスコミがそれを狙って発信のタイミングをずらして調整しているというわけでもあるまい。
 しかし、大抵は「誰に責任があるという、犯人捜しは意味が無いでしょう。問題は皆さんがこれをどうとらえるかということです。」などという意味無意味なコメントを添えて報道するしかないタイミングでの登場が多いように思う。それを聞くたびに、ぞっとするのは僕だけだろうか。
 まずは責任の所在を明らかにしなければ、話が進まず、問題の解決に至らないからだ。何のためのマスコミかということが問われるだろう。この状態だと、オピニオンリーダーとしての正しいマスコミのあり方など、望む方が愚かということになってしまわないか。
 僕たち国民は個々としては個々なりの力があっても、全体の声をまとめるという点では全く無力に近い。大集団は何でも手遅れになる。国という大所帯なればなおのことだ。マスコミの価値はそこにある。事実だけを伝達するのではなく、多面的多角的なものの見方を提示してみせる必要があるのだ。少なくともまっとうな賛否両論ぐらいは示せなくてはならない。
 その事実の伝達さえも実は十分ではないのが現状だ。また、まっとうな賛否両論にもお目にかかったことがない。質の低い伝達内容のばらまきに近い状態というのが実態だ。自分が熟知している分野でないと分からないが、相当にいい加減だ。しかし、それは情報源の責任も大きい。誤解しないような内容の解説を添えての情報提供をしないからだ。
 そんな現状はネット社会になって顕著に知られるようになってきた。そうしたことに加えて、「報道しない自由」を掲げることで、マスコミ自体がその価値を下げているのだから、本来のあり方を追求する姿勢をもっと強く持つことによって己の価値を上げていくような努力をすべきだろう。
 さて、数十年前の当時、少子化推奨の度重なる報道の根底にある理屈のおかしさには、子供なりに大いに困惑したものだ。聞き手のアナウンサーも「そういう時代がやってきたということですね。」と笑顔で念を押す。そして、「はい、そうです。未来の子どもたちのために、質の高い子育てを実現するために必要なことです。」と、いわゆる専門家か政府関係者か忘れたけれども、年配の男性が話を続けるシーンが印象的に脳裡に残っている。最後に女性アナウンサーが「女性の生き方にもこれからは変わってくるわけです。」と締め括るパターン。
 何を頓珍漢なことを言っているのだろうと驚くばかりだった。子供の自分がそう思うのだから、分かりやすい頓珍漢だったと思う。具体的にどのように語られたかの全体像は思い出せないのだが、一つ一つのことばは正しいのに、つなげ方の論理がおかしいから、全体として間違った結論となるという印象を受けた。つまり、一つ一つのことばは正しいだけに、その結論までが正しいことのように伝わってしまうではないかと思ったものだ。
 そもそも、あまりにも変な理屈で同じような報道が繰り返されるのが、僕がマスコミ不審になる第一の原因だった。もっと適切な質問をしてほしいのだ。そのやりとりの中から、視聴者は問題の本質を見いだして意見を持つしかないことが多いのだ。その思考の余地がないような伝え方をしている以上、報道の責任は果たされていないと思う。
 中学生当時、既に少子化問題は明らかになっていたので、学校の授業でも取り上げられた。二十年後、四十年後、日本の人口の年齢別分布がどのようになっていくかは、やがて高等学校でも勉強した。そのお陰で、これは近い将来大変なことになるぞと、危機感がますます強まった。現在の政治家も同じような授業を受け、子供の頃に強い危機意識を持ったはずだ。
 世界の国々と比較された統計は、社会の資料集に載っているから子供でもこれからどうなるか一目瞭然だった。「このグラフが逆ピラミッドになっていく。」という先生の言葉も強烈に心に刻まれたものだ。では、どうすればよいのかというところまでは、授業ではやらなかった。
 しかし、どうなるかは話し合ったように記憶している。それ以来、社会の資料集をみるたびに、いろいろなことが読み取れる数字やグラフに長時間見入るようになった。その点今の子供たちは恵まれている。学校の図書館の本も昔より多く、家庭でもインターネットの検索が可能だ。優秀な若い人材がこれからたくさん出現してくることだろう。
 残念ながら国会でも少子化問題は長年後回しにされてきたようだ。それはどういう意図があって、そのような国会運営がなされていったのだろうか。真意はわからないが、結果としては現状が如実に物語っている。
 もう十年二十年前から日本人の労働者不足が危ぶまれていたが、どんな手を打ってきたのだろうか。まさか対症療法的なことをおざなりにやっていたわけでもないだろう。
 さて、回復不能なレッドラインというものが何にでもある。そのラインをまず示すことが不可欠だが、恐らくそのラインを超えているから報道できないのだろう。とにかくノロノロなのでこうなる。
 しかし、知的レベルが高い人たちによる国会運営、マスコミの報道活動であるはずなので、その国会運営や報道活動も意図的なものであるはずだ。一体全体、少子化を推進することによって何を狙っていたのだろうか。
 人口問題は、国民の生活を根底から揺るがす大問題だ。それは、じわじわと効いてきて深刻なダメージを国に与える厄介な問題だ。小手先の措置を執るだけではなく、国のシステムとして、文化として、どういうわけか崩されてしまった子育てや結婚に対する感覚を、根本から鍛え上げなければならない。それぐらいは国がまず早急にしてほしいものだ。しかし、そこにマスコミがどう関わるかで成否が決まることを忘れてはならない。
 結婚と出産、そうしたものは、本来は個人の問題だ。しかし、それが放置できないラインを越すと、集団生活をしている以上、個人の問題ではなくなる。すると、そこに国家が手を入れるという不自然な状況が生まれる。しかし、その不自然さは当然の不自然さであって、受け入れなくてはならないものだ。単純な理屈だ。
 数年前だったであろうか、子育てについて国がもの申したことがあった。そして、それは大きなお世話だという世論を煽った人々がいて有耶無耶になった。実際に見かねる状況があって、それが国の力に大きな影響を与えることになるということが明確になったので、仕方なく国が重い腰を上げ、言いたくもないことにわざわざ口を出した、ということの意味が彼らには分かっていないのだ。
 どのような状況でも一つ覚えに筋論を言い張る人々は、臨機応変の現実路線の苦肉の策を理解することが出来ないのだ。その苦肉の策を弄するに至った状況というものの理解が足りないということもあるのだろう。
 それにも増して、根本的には、筋論を主張することは楽であるし、論についてだけは批判されないという安心感があるということが、一人一人は事情が異なるだろうけれども、主張することが何らかの個人的快感につながるということがあるからなのだろうと思う。
 世にいろいろな陰謀論があるが、眉唾物だろう。しかし、少子化問題については、陰謀論の色合いが相当に濃いように思う。国を滅ぼすにはいろいろなやり方があるが、人口管理不全に陥るような条件をそろえ、その環境をととのえたら、オートマチックに日本は滅びる。
 政治家はお金の使い道しか考えない。そして、そのお金はうまく活用されないので問題はうまく解決しないことが多い。
 しかし、人口問題は本来は人の生き方の問題だが、直接的には国の問題だ。人口が半分になれば、有用な人材も半分になると考えてよいだろう。また、人が広い分野を研究し、広い分野で起業し、バランス良く活躍するということが不可能になる。
 何よりも、防衛費が大幅に減少する。国防力が弱くなるということだ。文字通り国の形が経済的にだけでなく、地理的にも変化する可能性が高まるということだ。
 移民を入れようということになるだろう。これは禁断の一手だが、必要な一手だ。日本に移民は不向きなのだが、入れざるを得なくなる。それによって生じる諸問題は、その時に解決すればよいではないかという議論とは言えない議論にきっとなる。
 打開策は取り敢えず二つありそうだ。人口問題は、人の生き方の問題だから、教育の問題だ。先ずは筋論で、教育改革しかない。有るか無きかの授業時間数になった家庭科の授業の時間を増やして、家庭の機能、家庭経営の方法、子育て、そうしたものを十分に学習するところから変えるところから始める改革だ。クーラーが教室に入る時代だから、夏休みを減らせば可能だろう。
 学校の先生方は、研修や出張や行事や部活動が夏休みに集中するので、夏休みのほうが、学期中より忙しい人も意外に多い。乱暴な話かもしれないが、改革は乱暴なものだ。授業を増やして、その分だけきっちりと雑務を減らせばよいだろう。授業時間とその準備時間よりも、はるかに雑務のほうが多いというのだから、思い切って無くせばよい。そうでなかったら人を増やすしかないが、それは予算が許さないだろう。
 もう一つの手は、恐ろしくはあるけれど、マスコミの良識におすがりするしかない。無闇に芸能人の離婚や不倫を話題に取り上げたり、その手のドラマを常時放映したりすることによって、「結婚なんて不幸になるばかりという誤ったメッセージ」を送る回数を、せめて半分にすれば、状況も変わってこようというものだ。とにかくこうした「無用の表現」が減ることを切に願うばかりだ。
 つまり、育ち盛りの子供が、見なくてもよいものに興味深く見入っている状況を作るのはそろそろ控えていくということだ。離婚や不倫は現実問題だが、「表現しない自由」というものがあったではないか。せめて半分にすれば、数十年後には少子化を足踏みさせる効果ぐらいは出る可能性があると思う。数十年後では、既に手遅れなのだが、百年単位で考えれば、欲転換したと評価される可能性は高いように思う。
 最後に残った手は、新しい文化の創造だ。それは恐ろしすぎてまだ文字に出来ない。とにかく政治は目先のことしかやらないようだから、学校教育とマスコミにお願いするしかない。
 本当は、学校教育とマスコミが手を組むのが最も効率がよいのだが、互いに反目し合っているというわけではないだろうが、馬が合わないようにも見えるので、取り持つ大人物が出るのを待たねばならない感じがする。
 ただ、かつて少子化を喧伝した責任をマスコミにはとってもらうという意味で活躍してほしいと強く思う。もっとも、陰謀の首謀者であったり、あるいは片棒をかついでいるのであったりすれば、改革するふりをするだけだろうから、望むべくもないが、首謀者である可能性はあまりないだろう。
 また、たとえ、無自覚に片棒かつぎをして同様のはたらきをしていたとしても、意識的に「無用の表現」を控えて、まずは半分ほどにすれば、いつかは分からないけれども、やがて効果が得られることには違いないだろうから、無自覚の片棒かつぎであったとしても、あまり問題ではないのかもしれない。
 「無用の表現」は言葉遣いのようなレベルから、ドラマを通じて表現するテーマのレベルまでいろいろある。それをまずは半減しようというのだから、マスコミにとっては批判されていると受け取るだろう。
 勿論、批判以外の何物でもないのだが、批判らしい直接的な批判だと、批判することは大得意のマスコミも、批判されることには慣れていないせいで、妙な動きをするかもしれない。
 たとえば、ものすごい勢いで叩くとか、まるで無視するとかだ。つまり、妙な動きといっても、いつものやり口というわけだけれど。
 同じマスコミでも新聞は記事として目に見える形で毎日残っていくから、公共図書館に次々と証拠が残っていくので、批判をしやすい。戦前、戦中、戦後の各新聞社の記事を追っていくと突っ込み所満載だ。あまりにも突っ込み所が多くて、逆に批判しにくいということもあるかもしれない。
 とある問題一点に絞って追究していくという方法がよいだろう。購読者が大幅に減っているとはいいながらも、新聞はその購読総数からいって、まだまだ、この国の人々の意識の反映であったり、意識操作の形跡であったり、「報道しない自由」がどのように行使されてきたのかの良き資料であったりする。
 昭和の時代の報道内容などであれば、まだまだ多くの人が新聞を読んでいたので、その影響は今よりも大きかったに違いないが、「報道されない内容」については、今も昔も変わらない影響があるはずだ。
 まず何が報道されるべきであったかを知るためには、時を遡って読んでいったり、順に読んでいったりと、何度も往復するように読み込む必要がある。時間はかかるが面白い。いや、腹が立つことばかりであることに誰もが気づくだろう。
 購読者の気持ちになるためにも、新聞記者自身も、他者の新聞も一緒にテーマを決めて読み込む必要がある。当然そうした研修は継続的に行われていなくてはならないと思うが、実際にはどうだろう。自分がものにした記事を載せてもらって喜んでいてはいけない。没にしたのは自分じゃないのだから、報道されなかった責任など自分にはないなんて思わないことだ。
 一方、テレビやラジオとなるとビデオに撮らない限り証拠として残らないので、批判をしにくい。ビデオに撮ったとしてもそれを視聴するには異様に時間がかかる。これはうまいセキュリティー(?)だ。過去に遡って番組を見る気にすらならないからだ。

広告
カテゴリー: 恐怖シリーズ | コメントをどうぞ

日々雑感343「回文遊びは無料で面白い」

 回文は単純だが面白い。何より無料だ。紙と鉛筆があればよい。
 回文は、上から読んでも下から読んでも同じ文になる文だ。よく聞くのは「薬のリスク」とか「私負けましたわ」とか「食いに行く」など、昔からあるものだが、少しだけ長くなると、「イラクイラン元来暗い」とか「ロリコン外科いい加減懲りろ」などが有名だ。
 秀逸な回文はネットにいくらでも転がっている。たとえば、「世の中ね、顔かお金なのよ」などだ。どのようにして作成したのかと感心してしまう。
 回文ではなく、逆から読むと逆の意味になるものは作成されているだろうか。ただし、のめり込むと時間の無駄遣いになりかねないので、その傾向の強い人は、手軽に取り組めるだけに要注意だ。

カテゴリー: 日々雑感 | コメントをどうぞ

誤字脱字衍字・内容不適?39「南国太平記」②

 さて、明らかな誤植としては「地獄相」の段に次のような件がある。

「去る者、日々た疎しと申して、若い娘は、すぐ血の道を上げるが、暫く我慢して、外の男と添うておりゃ、又、その男の肌がよくなるものじゃでーーーな、ここは、わしの顔を立て、月丸の武士を立てさせ、その方の身の上も固めると、三方、四方よいように、さらりと、別れるのじゃ。」

 ここの「去る者、日々た疎し」の部分は、どう考えても「去る者、日々に疎し」でなくてはならないだろう。単純な入力ミスだが、これも手入力によるミスとは思われない。「に」が「た」に見えてしまう人間の目というものは考えにくい。一画多く見えただけという問題ではないだろう。言い古された、この部分の入力作業中に、この聞き慣れたといってよいほどの諺の文句が頭に浮かばないはずはなく、入力ミスなど考えられないところなのだ。勿論、変換ミスもあり得ない。
 例によって、読み取りソフトの誤変換の見逃しだろう。そして、見逃した原因は恐らく、あまりにも言い古されてきた諺であったためだ。
 誤変換されていても、最初の「去る者」という文言を見ただけで、それ以後の文言が頭の中で「正確に」再現されてしまい、実際に目に見えている文字が「不正確」であったとしても、「正確に」入力されていると見做してしまうという現象が起きたからだろう。
 これは分かりやすいからよい。しかし、たとえば「こと」が「とこ」と逆になってしまった入力ミスのために、文の意味が全く逆になってしまうということもある。平仮名が連続して並ぶ可能性の高い文末などではミスがないように見えてしまうのだ。
 そして、始末の悪いことに、意味が逆になっても、文脈が通ってしまうということがままある。勿論、文意は逆に伝わってしまう。恐ろしいことに、こうしたものがニュース記事に出現することがある。特にネットニュースの記事などは、発信のスピードを優先しているせいか、チェックが甘いように思われることが多い。
 耳からの情報が得られていれば、文字よりも聞いた印象によってミスなく文意が伝わる可能性も出てくるが、耳が不自由であれば、その可能性はなくなる。目からの情報、耳からの情報、それらの情報を照合しつつ理解していくから問題は起きにくいのだが、耳が不自由な人は限られた情報源で解釈していかねばならない。
 このように、「たかが誤字脱字衍字など取るに足りないものだ。」という感覚が恐ろしい。同胞ならともかく、異国の人とのつきあいが大事な時代では、その誤字脱字衍字によって、思いもよらぬ意味合いが生み出されて、それが確認するのも憚れることならば、修正不能の大誤解となって、お互いの不利益が生じかねない。このように大袈裟ぐらいに考えてちょうどよいだろう。
 一般的に危機意識がないのは、逆にのんきで、ある意味で幸せなことかもしれない。しかし、その人たちの代わりに神経を費やしている人たちが公には勿論のこと、公でなくてもいることを忘れてはならないだろう。勿論、危機意識のない人たちは、そんなことに気づくはずもなく、それとなく教えられたぐらいでは、「へえ、そうなの」の一言で終わる。
 それで、どちらの人たちのほうが多いのか。日々状態が変わるのだろうけれど、確率的に、偽の自己防衛のための「危機意識」の棚上げを得意とする人たちが多いというのが感想だ。それはそれでよいのだ。皆ぴりぴり頭を使っていては、すごい社会になってしまう。それも御免被りたい。
 何事も普段はほんわかしているのが最上だろう。そのように、普段はほんわかしていられるぐらいの確たる厳格な緻密さを基本的に持っていることが、逆に必要なのだけれど。

 ちなみに、「萌出る物」の段には、次のような件がある。この中の「封襲」は誤植なのだろうか。

「封襲した上は、近々、帰国せずばなるまい。」

 この「封襲」というのは、島津斉彬が親の島津斉興から領地を受け継ぐという意味だろう。代替わりだ。しかし、受け継ぐということならば、一般的には「封襲」ではなく、逆の「襲封」のはずだ。
 しかし、中国語辞典では、両方同じ意味の熟語として出てくるから、「封襲」=「襲封」だ。だから、誤植だと単純に考えてはいけない。
 問題は、底本も「封襲」であったとした場合、なぜ日本では一般的ではない「封襲」を作者が選択したかというところにある。
 作品内には、中国語を意識した言い方が他にもあるかもしれないが、自分にはあまりよく判別がつかない。

カテゴリー: 誤字脱字衍字・内容不適? | コメントをどうぞ

変な疑問286「< べらぼう >の語源の珍説出せるか」㉖

 ところで、椅子などの家具は、カタログの仕様を見るに、大方80キログラムの体重を上限として設計されているようだ。専ら人だけを運ぶ一般的なエレベーターでは、一人あたり70キログラム台ほどを上限としているようだ。勿論余裕を持って定めた制限だから、それを超えてもすぐに壊れるわけではない。
 ちなみに、重量制限の表示は、目の不自由な人には見えず、重量オーバーの警報も耳の不自由な人には聞こえない。まるで目や耳の不自由な人がこの世に存在しないがごときの有様だ。これは一見すると、障害のある人を健常者と同様に扱っているため、差別していないように見えるが、「当然の配慮としての差別」がなされないタイプの気のつかなさだ。蔑視という悪意によるものではなく、気を遣わずに平気でいるという罪を犯している疑いが濃厚だ。
 さて、「当然の配慮としての差別」は、80キログラムを超える体重の人に対して、「なすべき差別化」を図るものだ。
 その理由は、安全確保のための危険回避の行動を促す必要があるためだ。体重にしても、物の重量にしてもそうだが、重量制限オーバーが原因で起こる事故は、命に関わる結果となる場合も多い。
 物の利用における体重や物の重量についてはどうであろう。
 体重にしろ、重量にしろ、それが規定以上であれば、物の本体自体の破損や故障がまず起こり、その結果として本体の落下や本体からの転落、または破損した本体の一部などによる身体の損傷に至り、それが致命傷となることがある。したがって、規定の体重や重量による差別は厳格に実行されなければならないものとなる。
 乗り物や遊具や橋など、人や物を載せる施設については、定員を守らなければ、体重による重量オーバーによって、コントロール不能に陥ったり、転覆したり、沈没したり、壊れたり、落下したりして、深刻な大惨事を招くだろう。
 八人乗りの救命ボートが一隻しかなく、一人あたり八〇キロの計算だったとする。すると、六四〇キロの積載能力があるボートという設定で、救助されるべき人間を選ばねばならないというとき、どんな問題が起こるか。
 四〇キロの子供を十八人救うべきか、これから子供を産める六〇キロの若い女性を十人と子供一人を救うべきか、というような問題も起こるだろう。また、あと八〇キロの余裕しかボートにないとき、最後に救う人をどうするかということが、現実的には起こりそうだ。もう乗ってしまっている人を下ろして調整するというのは、早い者勝ちではないが、行いがたいことだからだ。
 そのとき、八〇キロの大人を一人救うか、四〇キロの子供二人を救うかという問題が悩ましい。その大人がその子供たちの親である可能性は案外と高いだろう。一人救うか二人救うかということで、単純に考えたら子供二人を救えば、一人余分に命を救えるのだから、それが正解ということになる。
 しかし、それが親子であれば、断ちがたい絆がある。時間的な余裕があれば、親子の絆を断たず、三人片足切断して重量を減らして乗り込むという手がないわけではない。ちなみに、その後の親子の絆はより固くなるだろう。
 次に、挌闘行為における体重についてはどうであろう。
 単純な肉弾戦であれば、技術差もさることながら、体重差が大きければ、それによって勝敗がほぼ決定され、負けた者の多くは身体の損傷を免れない。そして、その体重差がかなりのものであれば、負けた方の身体に障害が残ったり、悪くすれば命を失ったりすることもある。
 そこで、柔道、レスリング、ボクシングなどの格闘技では、体重別で試合を行うことが多い。柔道には、その本質的な精神に沿い、より実戦的な意味合いの濃い「無差別級」という階級がある。文字通り「差別」が施されていない階級で、これが本来の挌闘のあり方を追求する形には一応なっている。
 つまり、「無差別級」以外の体重は、全て「差別」がなされているということだ。もちろん、その差別は「当然の配慮としての差別」で、選手の身の安全を優先して、配慮された措置だ。
 次に、武器の使用における重量についてはどうだろう。
 武器を使用しての勝負などは日常生活では起こりにくい。特に喧嘩などは準備がないのが普通だから、素手での勝負となることが多い。その場合の勝負は体重差が大きな要素となって決する。
 通常の喧嘩ならば計画性はないので、素手でなければ、手近なものを臨時に武器として使うことが多い。たとえば、石や筆記用具などだ。仮に計画性があった場合でも、武器は角材や木刀やバットやナイフが多い。
 しかし、そうした武器も、体重の重い者に対しては効果が軽減してしまう。武器が軽ければ軽いほど、体重が重ければ重いほど衝撃が少なくなる。また、大きく厚みのある筋肉とその周りについた脂肪層の厚さ厚いほど衝撃が少なくなり、怪我の深さも浅くなってしまうからだ。
 脂肪といっても内臓脂肪だと駄目だが、皮下脂肪のほうが厚ければ厚いほど、ナイフもその分だけは深く届かなくなるはずだ。鍛えられた筋肉に皮下脂肪が多くついているという人ならば、内臓に達する致命的な刺し傷は、たとえ届いたとしても浅くなるだろう。
 逆に、体重が軽い場合、つまり筋肉が薄くて皮下脂肪も薄ければ、同じナイフで刺された場合には、より酷い結果になるはずだ。 
 こうした体重が絡んだ事故の衝撃的な記憶や、体重差によって負けた勝負の恐怖の記憶、それらが長い年月、歴史的に積み重ねられてきた記憶が、本能的なところに作用して、それが代々受け継がれているかのように感じる。つまり、重い物に対する恐怖だ。
 体重オーバーの人に対する本能的な恐怖感や、反射的な回避の行動も、その類の恐怖感が原因となっているように感じる。
 「べらぼう」の体重が一五〇キログラムから一八〇キロの人間型の獣の類であると仮定すれば、通常の人間から見たときに二倍から三倍の体重があったことになる。これはそれだけで脅威だ。
 ちなみに、人間型の獣と仮定する理由は、過去の記録に「愚鈍なしぐさで客を笑わせていた」とあるからだ。四つ足の獣で、愚鈍なしぐさを表現できそうなものはいない。人間型の獣ならば、二足歩行が可能な四つ足の獣が、二足歩行の姿を無理にとって歩いたのが愚鈍なしぐさに見えたり、普段は歩行に用いている前脚が人間ほど器用ではないためめの不器用さが愚鈍なしぐさに見えたりしたのではないか、と想像することができるからだ。
 そして、その見かけの体重から受ける恐怖感と、「愚鈍なしぐさ」で客を笑わせるギャップこそが、「べらぼう」の魅力であった可能性がありそうではないか。
 さて、「見世物小屋」という限定された空間、且つ、管理された空間においては、その大きな体重差に起因するであろう恐怖感も、適度な好奇心となり得るだろう。限定され、管理された空間によって、完璧に閉じ込められた「べらぼう」に対しては回避行動をとる必要がなく、安全地帯からの観察対象、鑑賞対象という存在に「べらぼう」を位置づけることが出来るからだ。
 そのような「見世物小屋」のような特別の条件の下で、「べらぼう」に遭遇したときの人の心に生じる心理とは、どのようなものだろう。
 圧倒的に不利な体格なのに、お代を払っての見物客という圧倒的に優位な立場にある見物客。逆に、圧倒的に有利な体格なのに、空間的にも時間的にも制限された「見世物小屋」という管理された空間の一キャラクターとして組み込まれた「べらぼう」。
 自然の条件下で生じる自然な心理とは真逆の心理状態がそこでは生まれるはずだ。つまり、語弊を恐れず言えば、逆転した立場での裏返しの心理が生まれる。
 見物客の人間は、恐怖のために表情をひきつらせるのではなく、笑顔となるわけだ。そこからさらに、「こっち向かないかなあ」とか「こっちこないかなあ」などと、恐らくは檻の中などに「べらぼう」が収監されているからこその発言が飛び出すに違いない。
 ただし、生まれてほどない小さな子供は論外だが、少し大きくなって物心つくようになってくれば、本能的に恐怖にかられる子供も出てくるだろう。周囲の大人の反応を見て、安心なんだなと了解するまでは、残念ながらそれが続き、「べらぼう」を楽しむことはできないというわけだ。

カテゴリー: 変な疑問 | コメントをどうぞ

日々雑感342「裏の側面」

 何事にも裏がある。その裏は、よい裏である場合も悪い裏である場合もある。勿論、良くて悪い場合もあれば、悪くて良い場合もある。
 その裏にも当然裏があり、裏の裏と呼ばれる。しかし、面白いのは、裏にも側面があり、裏の裏にも側面があることだ。それは裏や裏の裏を知っている当事者が知らないことだ。それは裏や裏の裏が積み重なって自然に生じてくるものだ。
 この側面は傍観者からは見えている。しかし、傍観者は裏や裏の裏を知らないことがある。すると、その側面は断片的な情報や知識として脳裡を掠めていくだけで、何らかの印象を残していくだけになる。
 その印象をたどったり、つなぎ合わせたりしていくと、その側面が浮き上がってくることがある。幾つかの浮かび上がった側面から、当事者のみが知る裏や裏の裏が見えてくることもある。
 それはただの幻影かもしれないが、その幻影が仮説となっていろいろの説明がつくようになれば、ただの幻影とも言えなくなってくる。
 その作業は面白い。ぼけ防止の脳トレにもなろう。

カテゴリー: 日々雑感 | コメントをどうぞ

日々雑感341「旭日旗マニアの親日が多いのかも」

 先日、何年かぶりにテレビアニメ「ワンピース」を見た。主人公ルフィーの上着が縦から見ても横から見ても、どうにも旭日旗に見える。
 数年前に韓国で「ワンピース展」が中止になって話題になったことがあるけれど、やはり旭日旗のように見える旗が描かれているからという理由だった。韓国のワンピースファンは随分とがっかりしたそうだが、たまたま先日見たアニメでは、ルフィーが旭日旗を使って作ったのではないかと思われるような図柄の上着を着ていたのは、作者の意地だろうか。意地悪だろうか。偶然なのだろうか。
 もっとも、紅白幕のようにも見えるから、追究されたときには、おめでたい紅白幕がモチーフですというのであろう。だが、裾がひらめいたり体が動いたりすれば、旭日旗を連想する模様に見えてくる。実に巧妙な手法のようにも見えるが、やはり偶然なのだろうとも思う。
 韓国人はあまり旭日旗に神経質になると、何でも旭日旗に見えてしまう感覚を身につけてしまう。これは正常な日常生活を送るに当たって不都合が生じる可能性が高い。
 本当に心が受け付けないものならば、自然に目に入らないように自己防衛するのが自然だ。また、目に入っていても感じないように感覚がコントロールされて、気に障らないよう自己防衛するようになるのが自然だ。それを殊更に見つけ出そうというのは、大好きなマニアに近い。これはもう一種の「親日」だと言えよう。
 今日のありさまは、旭日旗マニアの親日行為に近い。興味のあるものには、人間目聡くなるものだ。ほぼ百%の日本人は、旭日旗など目に入らない。興味すらない。老人はいざ知らず、今日まで旭日旗という名前すら知らなかった人が実はほとんどなのだ。これは無知なのではなく、関心がないということなのだ。逆に言えば、韓国人の騒ぎのお陰で、老人以外の日本人が旭日旗という名前を知るようになったと言っても言いすぎではないと思う。
 これはある意味で理想的な愛国心の表れ方だと思う。特別なものがもう特別ではないというのは、さらに特別で、もっと大事なものに関心を抱き、先へ先へと歩みを進めているということの証拠なのだ。

カテゴリー: 日々雑感 | コメントをどうぞ

日々雑感340「スポーツの感動?」

 感動を売り物にしているものに本物はない。とは言い切れないが、演劇でも音楽でも感動を呼ぶものは、現実そのままの本物ではない。だから、本物のスポーツで感動を売りにしているものには、怪しい臭いがたちこめている。勿論スポーツで感動することは多々ある。しかし、感動を売りにしている場合には、何かが怪しいのだ。
 そもそも人工的に感動を生み出しておいて、素晴らしいですねとは、怪しい以前に気持ちが悪いではないか。これにお金が絡んでくれば、かなり表面的な爽やかさを押し出さないと、見え透いてしまいがちな薄汚い部分を、とてもじゃないが覆い隠すことが出来ない。
 本来のスポーツのあり方からかけ離れたものを見せられ続けて、随分と僕たちの感覚も狂わされているという前提で物事を見つめ直すと、目から鱗が落ちたように明瞭に世の中が見えてくる。それは真実の世界だから、面白いものではないこともある。
 面白いことや、感動することは大事なことだが、その質が問われる。食べ物もおいしいものだけに目を奪われていると、病気になってしまうのと同じで、なぜか面白いと感じていることや、無闇に感動しているものがあれば、それはどうしてなのかと見つめ直す必要がある。
 一部の者がうまい汁を吸うためのシステムにはいろいろあるが、スポーツの場合は、体格向上、体力増進、精神修養、健康維持などの目的以外の方向にで少しでも動いているときは、眉に唾をつけて、そのスポーツとその周辺、そしてそれらのバックにあるものを特定するところから手をつけて、何が何を蝕んでいるのかを確認していくべきだろう。
 本人の肉体や精神が蝕まれているのか、学校が蝕まれているのか、地域が蝕まれているのか、そのスポーツ界が蝕まれているのか、政治が蝕まれているのか。
 その点、プロスポーツは、割り切ったものだ。純粋な娯楽としてビール片手の感覚で観戦を楽しめばよいだけだ。つまり、高みの見物を楽しんだり、興味本位の覗き趣味を満足させたりすれば、取り敢えずは、まずそれでよいのだ。
 今回、高校野球で、投手の肩などを心配して登板させなかった監督が批判に晒されている問題も、何が何を蝕んでいるのか、あるいは蝕もうとしているのかを明らかにするところから考えた方がよさそうだ。
 あれほどの選手を出場させなかったのには、それ相当の理由があるはずだ。その結果として自分が矢面に立たされることも十分に想定したうえでの決断であることに間違いないだろう。そこを考えただけでも、優れた監督だと言えると思う。少なくとも僕は尊敬できる人だと思う。
 また、こうした決断が出来る監督というのは生徒と保護者と学校に信頼されているということなので、やはり頭が下がる思いがする。
 そのようにいろいろと思いを巡らすと、考え方には勿論いろいろあろうけれども、あの監督を批判する資格がある人など、ほぼいないのではないかと思う。だから、多くの人が批判する事態を目にして、何か異様なものを感じてしまうのだ。
 あれこれ外野のそのまた外までがうるさいのは、監督という立場に立ったことのない人間と、野球を見るのが大好きなだけの人間に加えて、単に自分がその投手の活躍を高みの見物か興味本位で見たかっただけの人間が多かったということだろう。そう思わせてしまったのは、投球の速度や投球の才能がずば抜けていたからだ。
 そうした面白い齣がテレビ画面の中でどう動くか、あるいは眼下のグラウンドでどう動くかを見たかっただけなのではないだろうか。どうしてそんな面白いことをさせてくれなかったのかという不満が、監督の批判になっただけなのだろうと思う。
 確かに野球というのは、予測できない小さな球の動きによって人間たちが右往左往するように見えるゲームだ。
 野球のルールもまともに知らない僕から見ると、野球は次のように見える。
 守りのシフト敷かれるべく駒が動く。そして、予想外の白球の動きを処理するために齣が動く、そしてランナーをアウトにする動きに向かってさらに駒が動く。この「構え」から「構え」の再構築に至る守備チームの構造的な変化の妙を楽しいと感じ、ゼロ点が続くフラストレーションが打撃の快音とともに解消に向かい、点が入ることによって解消する。卓球と異なり、見物客は随分と待たされる。待たされた分だけ解放されるものが大きくなる。それが楽しいのだ。
 将来ある選手を、そうした類の自分の楽しみを満足させるための齣程度に見ているのだろうかと思ってしまう。そのような楽しみなど一時のものに過ぎないので、「感動」という言葉で飾ることになるが、選手にとっては一生の問題だ。だから、実に無責任で自分勝手な批判に聞こえてしまう。
 もっとも、スポーツは無数の屍を乗り越えて最後に栄冠を勝ち取ったものだけが光を浴びるという仕組みに取り込まれてしまってからこの方、体を壊してしまった人は運が悪かったぐらいにしか見られないので、肩に腫れが見られようがどうしようが、無責任に「男ならやれ」ぐらいのノリで見られてしまうのは仕方ないのかもしれない。だが、本当は運が悪かったのではない。人災に近いものが体を壊したと見るのが正しかろう。
 しかし、そのように言ってしまうと興行上たいへん好ましくないので、無言で立ち去る姿にまた感動するという飾りをつけていく。そのあたりが嫌らしく思われてならないのだ。スポーツ自体は素晴らしいものなのに。
 とにもかくにも、いろいろなものから蝕まれるのを防いでくれた恩師だと、その選手は将来身にしみて感じ入ることだろう。そして、あのとき投げられなかった選手ということで、いつまでも注目されて話題に上ることになるという特典つきだ。

カテゴリー: 日々雑感 | コメントをどうぞ