変な疑問174「いじめた奴の部屋で自殺しない理由」④

 日本の場合は、自殺についての法律上の制約というものは見当たらない。法律上の制約がないうえに、認められる認められないは別として、文化として「心中」とか「切腹」とか「殉死」とかいうような、自殺の文化というものの名残がまだある。日本らしく自殺にさえも寛容なのだ。そして、いざというときには、実像はどうあれ、爆弾三勇士のようなはたらきや、特別攻撃隊のような自殺攻撃も生み出す国柄だ。万歳突撃に至っては、他国では恐らく理解に苦しむ行為だろう。
 法律や文化が自殺に寛容なところがある一方、宗教の場合はどうだろうかという疑問は残る。自殺が罪にならないという宗教があったとすると、その場合、許される自殺の条件とはどのようなもので、それをどのように言葉で表現しているのだろうかという疑問がわいてくる。敢えて文言にして記述する性質のものではないかもしれない。習慣法的に規制がなされている可能性もあるということだ。だから、文献だけを資料とするのは好ましくはない。
 海外では、集団自殺するようなカルト教団のようなものがあって、それがニュースとして報じられたこともかつてあったように記憶している。また、密教の即身成仏などというものは修行なのかどうなのか解釈はどうあれ、客観的に見て明らかに自殺だ。
 さて、各宗教で、自殺というものはどのように解釈され、どのように評価されているのだろうか。実にたくさんの疑問が湧いてくる。「これこれこうした自殺は許されるが、これこれこうした自殺については許されない」というような自殺の是非を論じているものがあるかもしれない。あるいは、「これこれこうした自殺の方法は許されるが、これこれこうした自殺の方法は許されない」というような方法に関する規程を論じているものがあるかもしれない。成文化されているもの、されていないものの両方の面から調べていく必要がありそうだ。差し当たって想像するに、「自殺を禁止する」と明確に定めている宗教はあっても、「いじめた奴の部屋で自殺してはならない」と定めている宗教はないのではないか。
 だが、一つ言えることがある。それは、「所変われば品変わる」と言うが、所が同じでも、時代が変われば、法律だろうが、文化だろうが、宗教だろうが、何だろうと変わっていくのが普通だということだ。逆に、変わらなかったために、陳腐化してしているものも意外と多そうではないか。
 ただし、経典等に禁止事項を書き連ねるとしても、その条文には数量的な限界がある。また、状況が変わるごとに経典を書き換えているようでは、宗教的権威にかかわる問題となってしまう。だから、細かくは規定せず、その都度の解釈で運用できるような、抽象性を持たせておくことが大事だ。
 だから、「具体的に禁止されていないことならば、どんなことをしてもよい」ということには、なかなかならない。自殺禁止と書いてないから、自殺してもよいとはならないし、自殺禁止と書いてあっても、それが実質的にいじめた奴の部屋で行う「報復的自殺」であっても、「命懸けの修行」と解釈されるような文かがあれば、これを実行してもよいという解釈になるかもしれない。
 この辺りの問題は、結局は文化の問題となるだろう。文化は、法律や宗教のように記述されることはない。もし、文化について記述されたものがあるとすれば、それはその文化についてまとめた研究書や資料の類だけだろう。
 一方、たとえば、新種の犯罪であったため、「現状の法律では問題がなく、したがって罪とはならず、罰もない」という、被害者やその家族等の関係者にとっては、いかにも理不尽なことはあり得る。「疑わしきは罰せず」ではなく、新種の犯罪であったために、関係する法律がないので、罰することができないという場合だ。「すみません。罪になるとは知らなかったので、やってしまいました」となってしまうのだ。これが子供であった場合、どこまで許し、どこから許さずに罰するかという問題だ。
 自殺の場合は、あまりにも頻繁に起こる。だから、罪であったとしても新種でも何でもない。実行した者が既に死亡しているので、現実的には罰したくても罰するのが難しい。せいぜい死体を晒すぐらいが関の山だ。ただ、自殺未遂で生きながらえているならば、それが原因で他人を死なせたり、傷つけたりしたときには、過失致死傷罪に問われるぐらいだろう。
 いじめた奴の部屋で自殺をすれば、どうなるのだろう。死体遺棄罪があてはまめられるのだろうか。本人が自分の死体を遺棄するという論理は成り立つのだろうか。死に方によっては、この上なきトラウマを植え付けることになるので、最大の報復となるだろう。もし、トラウマにならなくても、悪霊となって取り憑けば、死ぬまで報復は続くことになろう。その家は事故物件となるから、売るにしても安く買いたたかれるだろうから、結果としては経済的な制裁ともなり、遺産がその分だけ乏しくなる。
 部屋に取り憑くのではなく、本人に取り憑けば、事故物件とならず、その家族が被る被害はやや軽減されるだろう。実際に悪霊になり得なかった場合も、遺志を継ぐ者によって悪い噂を立てれば、悪霊が存在するのと同等の効果を与えることになる。自殺する者は、そこまでやる覚悟があるかどうかということが問われる。決して発作的に事を為し、あらぬ人に迷惑をかけることがあってはならない。この試みが成功しても、罪なことをするわけだから、成仏できないかもしれない。
 だが、元々成仏しようなどという気持ちにはなれないはずだ。成仏せずに、死霊、悪霊となって苦しめ続けてやるという思いに満ち満ちているのだから。できるだけ罪つくりな死に方をし、たちの悪いものに変化してやるぐらいには思っているはずだ。
 では、どうしていじめた奴の部屋で自殺せずに、他の場所で自殺してしまうのだろう。それは、いじめた奴が一人ではないからだ。大抵は複数の人間がいじめにかかわる。多勢に無勢という安全地帯でのみ、臆病な「いじめ実行者」は活躍するからだ。見張り役もいるだろう、囃し立てる役もいるだろう、実行する役もいるだろう。全部がいじめ実行者だ。だが、迷うことはないはずだ。最初の実行者をターゲットにすべきだろう。最初の一人目が居なくなれば、いじめは撲滅されていくだろう。大人が裁かなければ、被害者が報復するというのは、好ましくない図式だが、どうしても自殺しなくてはいけないということになったら、そこはどう考えるか。
 どうしても、複数の「いじめ実行者」に報復をしたいのなら、血でもよいだろう。献血のように400ミリリットル抜いても死なない。これなら複数の相手に対応できる。最大の相手には、こっそり部屋に入って自殺ということなのだろうか。死体を直ぐに移動させられないような工夫はいくらでもできる。
 だが、いじめた奴の部屋で自殺をするというケースは聞いたことがない。そうした精神状態ではないのだろう。恐ろしくて家には入れないのだろう。だが、死ぬ気になれば何でもできるものだ。ということは、こうしたケースを流行らせないために、偽の事実を報道しているのだろうか。例の、社会への影響を配慮してというやつだ。

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変な疑問173「西方浄土ってどこなの?」⑥

 そのような障害は、「浄土化」の拠点同士が遠い将来において相争うことの原因となろう。結果として、あるいは計画として、複数の拠点による「浄土化」は、「浄土」を追求つつ、逆に「穢土」を増やしてしまうという、大きな矛盾を抱えたものになっていくように思う。地域差を払拭することは不可能だからだ。
 地域の文化、地域の政情、地域の人々の性質等々、皆異なるものになってしまうのは当然のことで、絶対的な常識と思われることでさえも、食い違うことがある。
 常識が異なるだけでなく、もちろん感性も異なる。したがって、それぞれの地域で、どのようなかたちで「浄土」がとらえられ、どのように「浄土化」を図ろうとし、どの程度「浄土化」していこうとするのかも、異なるだろう。しかも、地元で発生した「浄土化」の動きと、よその地域から流れ込んできたものとが、どのように影響し合うのかという問題もある。
 こうした様々な状況の中で、全く新しい発想の宗教、似て非なる宗教、真逆の発想の宗教が発生し、互いに勢力を争うようになる。主張と批判のなかで、皮肉にも自ら「穢土」を実現させていく醜さや滑稽さは、不謹慎ながら目を見張るものがある。人間の本質がそこに透けて見えるのだ。
 すると、「浄土」の信仰、「浄土化」の努力に伴う、宗教的対立や血塗られた事件の連続も、苦難の道を敢えて体験させるという意味では、人類に課せられた必要な修行、必要なステップなのだろうとは思う。
 宗教にかかわらず、いつの時代でも、指導者は理想を説く。しかし、実際の担当者は各地の土地柄、歴史、文化などの踏まえるべき現実を念頭においた、それなりに合理的な活動を、それぞれの地で長年にわたって積み重ねていく。
 その中で、次第に毛色の異なるものが発生して定着するようになると、元来同根の哲学を持ったもの同士が、互いに争い合う姿勢を見せることになる。同一の根からごく自然に成長していった分派同士が紛争を起こしたり、抹殺し合ったりするのだ。
 こと宗教においては、その傾向は強かろうと思うのだ。何を思ったか、実際に「西方浄土」に行こうとして旅立った者たちが、自分なりに「浄土」らしき地域を見つけ、そこで学んだとすれば、志あればこその「浄土」探しだったのだから、学んだことを行動に移そうとしたときの活動場所を、「この地」、あるいは「気に入った地」ですることになる。当然「浄土化」しようとするので、そうした複数の地域が「浄土化」の各拠点とならざるを得ない。すると、遠い将来の紛争の種となる。
 ゆえに、先見の明で、「西方浄土」へは行ってはならぬ、たどり着いたと思われてはかなわぬという思いを抱き、「西方」という方角だけの曖昧な表現で伝えたのかもしれない。もちろん、距離的な表現も「十万億土」とあるが、これも意味としては無限の彼方というに等しい。この距離的な表現は、地球を球体としてではなく、平らなものとして見ているか、地上ではなく、宇宙を視野に入れているかという問題にもなってくる。   
 このような大雑把で適当な表現では、「西方浄土」などというものは嘘なのではないかという疑いをもたれる。しかし、適当であるから確かめられないともいえる。確かめられないのだから、信じるしかないのだ。
 これでは嘘をついているのと同じだが、嘘も方便ということだ。あるいは、大雑把な表現によって、より神秘性をもたらすものとして計算された表現であるのかもしれない。こうしたところも疑問の一つだ。
 お釈迦様は思慮深いので、こうした安全策をとりつつ、「西方浄土」はあこがれの地、目標の地として確かにある、だから先ずは「この地」で諦めずに頑張りなさい、もしかすると西方にある浄土が広がりを見せ、いずれ「この地」が「浄土化」の波にのるというようなこともあるだろう、だから、できるだけ大勢の人々がその波にのって救われる力を、自分自身につけていくように、「この地」で上手にみんなの意識を高める指導をしなさい、ここで頑張るのです、などというような、そういう意味をこめての最期のお言葉だったのだろうか。さまざまに想像できる。このあたりを仏教界ではどのように解釈されているのだろうか。疑問百出だ。
 さて、「十万億土」という表現もあることから、「西方」とは、もしかすると(相当のもしかするとだが)、地球表面の接線上の「西方」、つまり宇宙空間なのかもしれない。冗談に近い想像かもしれないが、どうだろう。十万億土は地球サイズではなさそうな数字に見えるのだ。十万億土の単位が「土」なら、それは土地ということだろう。だが、十万億というのは、十億ということなのかという疑問もある。

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日々雑感352「失言制作と不祥事暴露を同程度にやり続ける覚悟はあるか」

 今のようなやり方なら、失言などはどれだけでも見つけることができる。状況から言葉を引きはがし、その言葉の一部分をピックアップすればよいのだから。不祥事も誰に注目して探し出してきたかというだけの話で、材料などどこにでも転がっている。こうしたことが仕事の一つなのだから、別段それはよい。
 問題は、この報道姿勢をどの政権に対しても公平にやり続ける覚悟があるかどうかということだ。ある政権に対しては、失言制作と不祥事暴露の努力の手を緩め、別の政権となったときには、その努力の手を緩めないということがあってはならないのだ。その姿勢の変化の根拠を述べなくてはならなくなるのが、今のマスコミが負うことになる責任だ。それを述べる覚悟があるのだろうか。
 もちろん、報道対象を政権だけに絞るのも不公平なので、政権外の政治家にも、同様の努力が払われなくてはならない。どちらかに偏るのは、結果的に何らかの政治的な活動を報道関係者が行っていることになると見なされるだろう。
 さて、そんな報道姿勢の変化の根拠を述べるような誠実さをマスコミに期待する方が間違っているのだろうが、世の中何が起こるかわからない。いつマスコミが正常化するかわからないのだ。その時には、「今、失言制作と不祥事暴露の手を緩めているのは、これこれこういうわけがあるからです。」とか、「今、失言制作と不祥事暴露の手を緩めていないのは、これこれこういうわけがあるからです。」とか、説明責任を果たしてくれることだろう。
 取り敢えずは、その説明責任をどの程度果たすかで、どのメディアが、いや、どのマスコミ関係者が、比較的信用できるかという、国民の評価が決まってくるだろう。おそらく、マスコミの信頼回復はそこから始めるのが、よいかもしれない。
 上手にそれをやらないと、「失言や不祥事がないのではなく、何らかの理由で、その手を緩めているんではないのか。怪しいぞ。」とか思われてしまう。
 過去はどうだったか。録画しない以上、テレビの放送内容はその都度消えていくから、証拠が残りにくい。そこを計算して、テレビの放送内容の分析は手厳しくしなければ、民主主義が揺らいでしまう。しかし、これは実際にやると大変時間がかかってしまう。だから、そうしたチェックを公正に行う独立したチェック機関の設立が必要になってくる。これは先立つものが必要になるから、そうした面で、テレビの放送局は守られてしまっている。今後もここが民主主義の穴となっていくことだろう。
 そこで、新聞や雑誌が注目のしどころとなる。これらはそのまま記録に残るからだ。たとえば、新聞などは公共図書館に古い時代の者から蓄積されている。縮刷版で通して読んでいけば、いろいろなことがわかってくる。もちろん報道結果を確認するために、新聞以外の資料も見ていくのだが、報道すべきことを責任もって報道しなかったために生じた国民の不都合が浮かび上がってくる。購読料を徴収しながらの失態なのか、それとも、購読料を徴収しながらの背信行為なのか。それが問題だ。 
 

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変な疑問172「西方浄土ってどこなの?」⑤

 ところで、地球を離れて宇宙から俯瞰することができて初めて、この星はこの星で一つの世界だという認識が実感された。もしかすると、旧ソビエト連邦のガガーリンやテレシコワもそうだったかもしれない。だが、月面着陸したアメリカの宇宙飛行士たちは、確実に地球を客観視できる位置に立ったのだから、また格別の実感をもって人類の孤独を思い知ったに違いない。彼らはことごとく人生観が変わってしまったという。世界は一つ。しかも、それは、漆黒の宇宙にぽつんと浮かぶ孤独な星の一つに過ぎないのだ。
 宇宙飛行士だけでなく、月面を大地として宙に月のごとく輝く地球の小さな写真を見せられた多くの地球人も、同様の感覚を持ち始めた。問題はその感覚を意識の上にいつまで保持できるかということだ。直接の体験者は長らく保持できようが、動画や画像で間接的に体験した者は、ごく短期間のうちに意識しないようになってしまう。
 つまり、その体験を元に物事を考えるのではなく、優待依然として、身の回りの文化や個人の乏しい体験から、幻想を抱くしかないのだ。直接の体験者は、自ら考え、行動することが多い。日常という幻想から一つ殻を破り、自分の見方考え方も含んで客観視する瞬間を何度か持つことになる行動を自ら取ることになるのだ。
 間接的な体験をなまじいしてしまうと、自分の小さな理解を新しい常識として認識してしまい、もっともらしい弁舌をまことしやかにふるいがちだ。ただ、直接の体験も、下手をすると、事柄の一面だけを強烈に感得しているおそれがある。そこを考えると、直接の体験者の語ることも、そのおそれありという心構えで、かえって心して聴くべきだ。 
 さて、地球を客観して持ち得るこうした感覚は、頭でわかっている知識だけでは持ち得ないものだ。実際に直接目で見たり、少なくとも動画や画像で間接的にでも見たりしなければ、持ち得なかった感覚だ。しかも、映画ではさんざん掲げられてきたはずなのに、その時には持ち得なかった感覚が、実際の写真だと言われたときに、ある感動とともに、改めて湧き上がってくる種類のものだ。
 古い昔ではどうだっただろう。古い時代にも世界が図式化され、模型化されていった。たとえば、ヘビの上の亀が乗り、その亀の甲羅の上に何匹かの象が乗り、その象の背中で大地を支えているという図式だ。そんな巨大な蛇やら亀やら象など存在するはずはないのだが、当時の人々の想像力の限界なのか、目に見えぬものを、目に見えていたもので無理やりに表現することしかできなかったのだろう。苦肉の策だ。
 そうした図式や模型の中で「西方浄土」はどのように表現されているのだろうか。それとも表現されていないのだろうか。これは確かめたことがないが、どうだろう。
 もし、そうした種類の無理やりに作られた想像上の世界の中に表現されていなければ、それが作製された時代には、世界の彼方に「西方浄土」があると考えていたか、具体的な形には表現できないところの世界、つまり人の心の中にあるものと考えていたか、そもそもそうした図なり模型なりを作製する類の人には信心がなくて示されてなかったか、逆に「図や造形にすることなどまかりならぬ、罰あたりめ」、と権威筋から禁じられていたのか。実際にはどうだったのであろう。
 ともかく、この「どこもかしこも現実にそうであってほしいところの浄土」、「どこか知らぬが実際にある理想郷としての浄土」、「目にすることのできない、決してたどり着くことのない観念としての浄土」、こうしたさまざまな性格を兼ね備えた立体的な「西方」が、お釈迦様がイメージしていたものであろうと解釈したい。
 「西方」とは方向のことで、元来は地域を指し示す言葉ではない。だが、地域を指し示す言葉としても使われないでもない。だが、地域であれば、随分と曖昧な範囲の地域だ。しかも、その曖昧な範囲が「浄土」だというのだ。そこに矛盾はないが、あまりにも大雑把なのが気になるところだ。これも疑問の一つだ。
 この「西方浄土」というお釈迦様の発言は、「自分は『この地』の『浄土化』は諦めた。だが、弟子たちよ。後はよろしく頼む。」という願いを託したものであったかもしれない。あるいは、「浄土」が「浄土」である以上、そこからスタートした「浄土化」が周囲に及んでいくはずなので、「西方」から見て「東方」である、「この地」に向かって「浄土化」されてくるのを、心静かに日々精進し、その日を待ちなさいという心得を、弟子にそれとなく示したものかもしれない。
 あるいは、その「西方」へ行って、「浄土」を深く理解し、いかに「この地」を「浄土化」させていくかを研究してきなさいという指令としての意味を込めたものなのかもしれない。さて、どうであったのだろう。これも疑問の一つだ。
 だが、「西方」へ行っただけでは、「この地」の「浄土化」を推進させることはできない。「浄土化」を図るべく、交渉をしてこなければならないであろうし、連絡手段も構築してこなくてはならない。現代のような通信手段がなかった時代なのだから、これは大変な作業だ。言語も異なるだろうから、その苦労も覚悟し、克服しなくてはならない。辞書は最低限作成すべきだろう。当然、一人の作業では無理だ。バックアップも含め、かなりの集団で断行しなくてはならない。また、その間、「この地」の活動が疎かになるから、その備えもしなくてはならない。もしこれが後生への宿題だったとすれば、随分と重いものを課したものだ。
 つまり、「西方」からこちらに向けての「浄土化」と、こちらから「西方」にむけての「浄土化」という両面共同作戦を企図していた可能性があったのではないかと見れば面白い。これは大胆すぎる想像だが、本当に「この世」の「浄土化」を図ろうという野心があったとするならば、まず「この地」から、そしてその拠点は多い方がよいに決まっている。
 当然、この一大事業は組織的に行わねばならない。その活動を支える経済的な支えは十分だったのだろうか。信仰の力だけでは何事もままならない。信仰の力を背景とした集金システムの確立は不可欠だ。先立つものなしには、いつの世でもどこでも何もできはしないのだ。
 もちろん、お金がこの世の中にない時代には、そうした大事業は難しかったはずだ。物々交換の時代では、腕力や話術によってものごとを成し遂げていたのだろうが、小規模の変革に終始していたのだろうと想像する。いや、腕力や話術はもちろんのこと、経済力の代わりに恐怖させる力や畏怖させる力、そしてそれらを含んだ、信仰の力こそが大きな事業を成し遂げていったと想像する。その信仰の力に経済力が加われば、一大事業も、その後の影響の是非はともかく、成し遂げられるやすかったのではなかろうか。
 ただし、「西方浄土」が行ける地域で会った場合、そこへ行って帰ってきた者の「浄土」についての解釈が、一様に同じだとは考えにくい。「浄土化」する方法についての方針も、一様に同じだとは考えにくい。そして、「浄土化」の拠点の多さは、後の大統一に向けての障害となるおそれも十分にあったはずだ。

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突然思い出したこと176「ウォークマンの功罪」

  ウォークマンなるものが流行り始めたのは、1980年代辺りからか。かれこれ40年になるだろう。最初に手に入れた人が15歳だったとして、55歳。もう子育ても終わり、親の介護をする年齢だ。その親たちの後を受けて、今の若者は、類似機能を持つ、相当進化した音楽機器を手にすることができるはずだ。ただ、残念ながら、どれだけ機器が進化しても、ウォークマンという商品のコンセプトは変わっていないように思う。したがって、長年にわたるウォークマンや同等商品等による、人間への影響は決して小さくはないはずだ。
 商品価値とは別に、対人的価値に目を背けることなく、立体的に見つめるようにしなくては、自分やその周囲を正しく見つめることにはならない。そこで、取り敢えずは思いつくままに、対人価値にかかわるであろうウォークマンの功罪ともいうべきものを、以下に列挙してみた。都合により、単なる項目だけだが、これらにかかわって、実際に何が、どのように変化し、人の何がどのように変化してきたのかは、調べるよしもない。だが、商品化されて流行する前と後とでは、確実に大きな変化、それは文化的変化とも言うべきものがあったように感じる。
 そうした変化も、ある年齢以上の人には感じることができない。だが、木の年輪が、一番外側だけでは全く機能しないように、これまでの蓄積である一つ一つの年輪が年輪としての意味があり、木にとってそれらが全て必要であったように、これまでの生まれては消えていった、さまざまな商品が、年輪のように人々の感覚から思考までに刻んできたものを、本来なら一つ一つ確認する作業が必要だ。
 自然と木の内側は朽ちてなくなっていくが、それには相当長い年月がかかる。ウォークマンが出現してからの歴史はまだまだ浅い。3世代分ほどの年月が流れたら、形ある変化として、また内容ある変化として、意識されてくるのだろう。もっとも、そこまでウォークマンの類の使用が継続していなければ、そのような比較の動機も生まれにくいだろうけれど。

①音が流れるので、ボリューム調整で単なる耳栓以上の効果が期待できる。
②新しい人間関係が作られにくいので、交際費が抑えられる。
③刺激のないつまらない生活を、即時的に疑似救済できる。
④同一グループ内で別々の曲を同時に聴けるので、群集心理による暴走を抑えられる。
⑤互いに聴きたいものだけを同時に聞けるので、乏しい話術でも衝突することなく、生活できる。
⑥他人の趣味と自分の趣味とを比較して、熱く語り合うというような面倒な避けることができる。
⑦他人に迷惑かけず、互いの趣味を尊重し合うスタイルだと悦に入ることができる。
⑧聞きたくないものは、聞こえていないふりをし、面倒なことに関わりを持たないようにして自分を守ることができる
⑨何かをしながら音楽が聞けるため、その歌詞の理解が浅くなり、余計な観念にとらわれないで暮らせる。
⑩聞きたいものだけを聞くことで、趣味が固定化し、散財を防げる。
⑪消極的だが、他人とのおン学趣味の差別化を主張することができる。
⑫同じものを同時に聞いて楽しむという生活習慣がなくなるので、感動を共有化しなくてすむ。
⑬必要に応じてタイミングよく聴くことができるので、高い音薬効果が期待できる。
⑭音楽を身近なものにして、自分だけの世界に入り込める。
⑮好みの音楽だけを聴けるので、深くはまることができる。
⑯音楽を距離感をもって鑑賞するのではなく、音楽が頭の中で聞こえることにより、自分が演奏したり歌ったりしているという感覚に浸ることができる。

 部分的に重複した内容やら、因果関係にありそうな内容やら、いろいろたくさん出てきそうだ。脳トレとしては、20項目は挙げてみたかったが、努力不足で、16項目だ。
 だが、17項目目になって初めて出てきたマイナス面はこうだ。
 それは、最も危険な香りがするマイナス面は、外からの音を遮断するだけでなく、主に以下の三つのものを遮断する作用があることだ。
①不定期に浮かび上がってくる過去の記憶を遮断する。
②瞬間的に次々と湧き出るアイデアを遮断する。
③自分の内部から発掘されてくる反省材料を遮断する。
 これらは一言でいうと、自分のためになる内部からの情報をも遮断してしまうということだ。こうした効果が日常的にあるとすれば、それは恐ろしいことだ。実に先の16項目にわたるプラス面を一気に蹴飛ばしてしまいそうな威力があるマイナス面ではないか。これは、単なる項目の数だけの多数決では判断できない問題の好例となろうか。
 もっとも、先の16項目も、裏を返せばマイナス面ともなり得るものが多い。これは十分に分析し、洒落で商品カタログに記載すると面白いかもしれない。詰まるところ、商品価値が非常に高い分だけのマイナス面というものがやはりあって、それはウォークマンも例外ではなかったということだろうか。
 さて、これらをまとめて一項目とせず、三項目とカウントしても、全部で19項目に過ぎない。後一項目が直ぐに思い浮かばないということは、それだけ脳トレが足りないということだろう。無理やり二十項目にできないとは何とも悲しい。
 あ、一つある。ネーミングだ。
 ⑳歩きながらでも音楽が聴けるウォークマンを座って聴くときに、罪悪感や違和感が生まれる。

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恐怖シリーズ240「法医のL氏」⑯

 死なないことが幸福なのか。不老不死が幸福なら、全人類は不幸だということなのか。「永遠の命が得られますよ。」こんな言葉をキリスト教系の伝道師のような人たちから言われたことがあるが、永遠の命とは果たして何なのか。それは取りも直さず、死ぬということではないのか。
 死なない人は見たことも聞いたこともない。ということは、誰も神を信じていないということではないのか。それとも信じ方が間違っているのではないか。では、正しい信じ方は誰が教えているのか。その人は死なないのか。それとも別の神を信じているために、結局は死んでいくということなのか。すると、どうやって信じるべき神を見つければよいのか。
 だが、神を信じることで永遠の命が得られるのなら、神を信じていながらも皆死んでいく以上、永遠の命というものは、やはり死ぬということではないのか。すると、信じているものと信じていないものとの差がないということになってしまうではないか。まさか死んでからの差があるということなのか。疑問百出だ。
 この世で今のままの生活スタイルを送ることが、永遠の命を得るということなら、それは人口爆発を加速するだけで、何の意味もないどころか、他の人の命を脅かすことになってしまう。ということは、この世で今のままの生活スタイルを送ることではないということになる。では、食べるものも食べず、しかもエネルギー資源を使わずに生きていくという、普通に生きている人に迷惑をかけないような生き方が可能な、何か特殊なスタイルで生きていくことなのだろうか。どこまでも疑問は尽きない。
 彼らの話は何時間聞いていても、結局は理解できず、彼らも自分もともに混乱していくことになってしまうばかりだ。最後は「信じることです。信じることです。」とつぶやいて立ち去る姿は、とても救われているような感じには見えなかった。そんな人たちが異国で布教活動をしても、自信の修行にはなったり、実績となったりするのかもしれないが、説得力のある布教は難しいというものだ。
 だが、宗教を興そうというL氏は、自分はどのように布教すればよいのかということを、ここに来て、やっと考え始めた。
 そもそも永遠の命とは何か。そのようなものを望んでいる人はいるのか。ほとんどの人は、一通りの人生を歩んだ後には、できることなら早くこの世から去りたいと願っているのではないのか。「ぽっくり寺」などというものが流行したことがあるが、それが本音ではなかろうか。永遠の命など、少なくとも日本人の望むところではないのではないか。
 そうした個人的な命の存続よりも、子孫の繁栄、つまり家の存続や国家の存続、人類の存続を望む人の方が多いと感じるのだが。だが、実際にそれは調査していないので、実態は不明だが、何となくそう思うのだ。
 ただ、家の存続、といっても建物ではなく、家系の存続だが、そうしたものや国家の存続といったものに対して、永遠の命という表現を与えても、大きな違和感はないように思う。だから、「永遠の命」などという思わせぶりな表現をするのではなく、明確に「家系」「国家」と言えばわかりやすいはずだ。それなのに、そう言わないのは、神の存在感や神秘的な雰囲気という魅力を、そこに見い出しにくいからなのだろうと思うのだった。
 彼は、職業柄「遺志」という言葉を頻繁に頭に思い浮かべる。目の前に文字として感じる時すらある。職業病かなと冗談で言うときがあるぐらいだ。
 自分の遺志が後世に伝えられて、少しずつ実現していけば、それはそれで自分の命を誰かが代わりに使ったという形とも解釈できそうだ。これこそある程度は「永遠の命」と言えそうではないか。命のつながりが縦にも横にも広がり、寄ってたかって自分の遺志を実現していくのだ。
 それは個人的な幸福の追求というケチなものではなく、時の流れの中で寄り集まり、つながり合って増大した遺志だ。それは「大志」となって燦然と輝きながら、人々を幸福にしていく可能性が高い。多くの者の大志となった以上は、社会の改善や変革にかかわるものである可能性も高いからだ。
 これならば、お飾りの単なる決まり文句ではなく、神秘的な雰囲気づくりのための言葉でもなく、実質的に意味のある、ほぼ「永遠の命」と言えるだろう。逆に、「大志」が実現しにくいものであればあるほど、つまり時間がかかる分だけ、そうしたネットワーク化した命の永遠性が保障されるとも言えるだろう。
 既存の宗教では、どのように命というものをとらえ、どのように位置づけて教えているのだろうか。伝統ある宗教を超えたものに仕上げていくには、そうしたものも調べておく必要がある。実に面倒な手段を選んでしまったのだろうと思うが、こだわりはないのだ。宗教路線から、別路線に変わっても別段問題はないのだから。

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変な疑問171「西方浄土ってどこなの?」④

 まず初めてその言葉を聞いた弟子はどうするだろう。
 「西方の彼方」からやってくる商人などの旅人の人々の話を聞き、情報を得ようとするだろう。また、言い伝えや言い伝えを記録したものを調査するだろう。その中に人々の古い記憶が刻まれているかもしれないからだ。
 たとえば、人類がアフリカで生まれたという史実に関するものなどだ。極めて古い昔、長い年月にわたり、そして長い年月をかけ、今でいうアフリカから東にあるインドに向け、人々は移動を何度か試み、東方各地へたどり着いていった。更にインドを越して、その先へ去っていく者たちもいた。
 ただ、西からの旅人に限らず、通常の旅人が口にする話題は、大抵は良いか悪いかの両極端のものだろう。もしくは、他の土地と大きく異なる習慣や風俗についてだろう。その中で、話題性が高いもの、つまり、不思議に思うことや驚くことなどを、少し大袈裟に話すという傾向があるはずだ。聴く者たちの耳を驚かせたくなるのが人情だからだ。
 普通のことがほとんどで、普通でないことが少しのはずだ。しかし、伝わるときは、普通でないことがほとんどになってしまう。又聞きになればなるほど、その傾向は強くなり、理想郷が出現したり、地獄が出現したりすることになるものだ。「西方浄土」も、こうした旅人による聞き伝えによる、極端化の産物である可能性が高いようにも感じられる。これは、「恋愛の結晶作用」と類似するものであるようにも思う。
 伝言ゲームのように、伝播し、話半分で聞けば良いことを、敢えて真に受けたり、尾ひれをつけて旅の途中で誇張されていくのを、誰もとめることはできない。旅人は、どうせ流れていく人々だから、話の内容に責任など持たない。良いことは素晴らしく誇張され、伝説化され、美化されていくのも、誰もとめられない。
 何世代にもわたり、こうした他地区からの者との、特別なコミュニケーションが続けば、最初は旅人の放言だったかもしれないが、結局は時の流れの中で、かつて伝えられたものが言い伝えとなっていった内容と、ほぼ一致するようなこともでてきて、「それなら昔聞いたことがある。」という確認作業となり、詰まるところ、その信憑性がますます高まっていくことになる。こういう仕組みであろうと思うのだ。
 それが旅人のルートにおける、それぞれの地で言い伝えとなっていれば、東の方から西の方へ旅をしていく者が各地で得る情報として得たものと、結果として悉くほぼ一致していくため、最初は単なる伝言ゲーム的な現象であったものが、ほぼ共通する伝説の理想郷のイメージを、各地の人々の頭の中に固定していく現象に変化していくように思う。
 単なる情報から、確かな事実として認識されていくメカニズムというのは、案外このような時間をかけての自然なものなのではないかと思う。今と違って、インターネットで広く確認のための資料を手に入れたり、膨大な書籍資料から必要な情報を手に入れたりして、物事の信憑性を短時間で確認することができなかったからだ。
 つまり、野心的な商人や修行僧など、土地に縛られずに行動できる立場の者も、資金や体力の限界を感じた時点で、「西方浄土」とおぼしき地域にたどり着かぬ前に、出発点に戻るのが普通だ。彼らが人々に土産話を語るときには、一つの世界として矛盾のないように頭の中で編集されていく。それが長い年月をかけてのコミュニケーションの中で、共通イメージとしての「西方浄土」を確立させていったのではなかろうか、と推理できないかということだ。
 そうして創り上げられていったイメージの中の「悪い情報」に起源するものについては、最終的には「浄土」の対局にある「地獄」として、その物語が成長していくであろうし、その間に存在すると意識される「この地」は、「穢土」として、さらに強く意識づけられていくに違いない。
 間といっても、地理的な間となると、問題が出てくる。「天に昇るの天、現在地、地獄に落ちるの地下」というような、「上、中、下」という縦の線で結ばれた世界か、それとも「西方、現在地、西以外の方向」というような、横の線で結ばれた世界か、という問題が出てくるのだ。しかし、観念的にとらえれば、縦も横もなく、対極にある世界だと処理することは、一応はできるだろう。ただ、わかりやすいように図式化しようとすると、途端にどのように描いたらよいのかという戸惑いが生じるのは、仕方ないことだ。
 そうした問題がどうであれ、わかりやすいのは、この「この地」の位置は、「さあ、あなたは浄土へ行くのか、地獄へ行くのか。」という分岐点に人々が立たされる構造だ。これは誰にでも理解されやすい立ち位置であることは確かだ。
 さて、このように「西方浄土」をとらえてよいものかどうかは知らない。仏典はもとより触れたことがなく、仏教にも詳しくないのだから、今のところは仕方ない。しかし、お釈迦様の気持ちを想像することはできそうだ。どのような気持ちであろうか。そのあたりから「西方浄土」を見つめることができるかもしれないとは思う。

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