恐怖シリーズ245「テロリストのテロリシア」

 イスラム国は首都を奪い返されて失い、本当のテロリストになるしかなくなったようだ。これは困ったことだ。本当のテロリストは辛い物に違いない。死ぬまで人から恨まれ続けられなくてはならないからだ。
 テロリストはテロリストだけで国を作ればよい。イスラム国のように女性を蹂躙したり、男性を殺したり、子供を人間の盾にしたり、無関係の人々を奴隷のように支配したりするのは、いったいどんな理屈によるものだったのだろう。当然、世界はその理屈を承認しなかった。特に平和に暮らすイスラム教の人々は苦々しく思っていたに違いない。イスラム教をこれ以上、テロリストによって貶めてはいけない。何教であれ、人を傷つけたり、殺したりするようであってはならない。イスラム教徒の人口は人類の3割程度と聞いたことがある。そんな大宗教の名を汚してはならない。僕はイスラム教徒ではないが、互いに尊敬し合うような姿勢を持っていなければ、それは何教を名のろうと道を誤っている。自分たちの国を武力によらずに、世界から祝福される方法で建国する道はないのだろうか。
 今回の首都陥落で、本当のテロリストになり、今以上に迷惑をかけ、今以上に人を殺し始めるかもしれない。でも、それは止めた方がよい。自分たちだけで国を作ったほうがよい。誰も巻き込まず、誰も人質にせず、国を作った方がよい。人を傷つけたり、殺したりするのはやめて、平和に自分たちだけで暮らせばよいのだ。干渉せず、干渉されずに生きていけばよい。立派な生活態度で生活していれば、脅したり、金でつったり、宣伝したりしなくても、人は集まってくるものだ。脅したり、金でつったり、宣伝したりした分だけ、信頼されてないということの証明となってしまうから、止めたほうがよい。
 だが、国を作るのには土地が必要だ。それは武力で奪ったり、騙して奪ったりするものではない。合法的に購入するのがよいだろう。農地を拓き、産業を興し、他国と対等に貿易をしよう。そのぐらいの力はあるはずだ。神に守られているのだから。優秀な人物もいるのではなかったか。彼らが世界に償いをする形での建国なら、認めてくれるのではないだろうか。イスラム教徒なのだからできるはずだ。
 ただ、国名はテロリストだったことを忘れないように、「テロリシア」とか「テロランド」とか、「テロ」という言葉を入れるのがよいだろう。通貨は「テロ」が覚えやすい。ガソリン1リットルが5000テロとか、チョコレート一袋10000テロとか、語呂がよい。国として当初は認められないかもしれないが、善行を積むうちに何とかなるだろうと思うのだ。どこかの国の片隅で試運転し、その後、世界に祝福されながらの独立を目指すのがよいと思う。それまでの預かりを何処の国が引き受けてくれるかが問題だが、人望と神のご加護があれば、これも問題ないだろう。
 誰も人の幸せを決して奪ってはいけない。どの宗教でもそのように謳っているはずだ。もし、うでないとしたら、それはそれは恐ろしいことになるに違いない。

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変な疑問185「西方浄土ってどこなの?」⑫

 それにしても、綺麗さっぱり何もない星々、生き物の発生しない星々、または生き物の絶滅した星々が「浄土」だなどという見方は、生き物の立場、特に人情からすれば、それは身も蓋もない寂しい見方だ。だが、生きるということに、さほど執着しない生き方、そうした傾向が仏教にあるのであれば、身も蓋もない寂しい見方ではあるかもしれないが、それ相当の結論の一つとはなり得るだろう。
 しかし、特に人間の立場からすれば、自分たちは生き物の中でも特別な存在、最高の存在であるはずだというプライドのような気持ち、少なくとも最高の存在でありたいという気持ちがあるので、できたら他の動植物の行きつく所とは異なる「浄土」を胸に抱いていたいという欲も持っている可能性がある。「浄土」に対する期待が大きいためか、それとも、我が身の置かれている現実の「穢土」の度合いが甚だしいためか、「浄土」には美しい草花が咲き乱れているところだという幻想が抱かれることもある。このように、いろいろなイメージが抱かれてはいるものの、いろいろな動植物とともに人間が安楽に暮らしているだろうというような「浄土」のとらえ方が、一般的であるように思う。
 そうした一般的で人間的な感覚からすれば、草木一本もない、生き物の気配のない、綺麗さっぱりした星々が「浄土」であっとしたら、それは幻滅落胆以外の何ものでもないだろう。何よりもそこにはおよそ仏像に表現されているような仏様などいそうにない感じがする。「浄土」とはいっても、その実態は実は厳しく、夢のようなところではない可能性だって高いということは薄々は感じているだろうが、よくて魂のたまり場程度でしかないような、遠くから憧れの気持ちで思われているだけの実は象徴的な場所、つまり単なる空間であったと知れば、夢も希望も失い、現実を生き抜く心の支えをなくしてしまうという、悲しいことになりかねない。「事実は知らない方がよい場合もある。知らぬが仏だ。」というような話になってしまうのは切ないことだ。
 だからこそ、夢のように穏やかな、全てが美しく調和している別天地が「浄土」であってほしいと、僕たちは心のどこかで常々念じているのではないか。それが宗教心の正体だとしたら、少しやりきれない感じがする。
 だが、このように夢と希望を込めて憧れられている「浄土」がどのようなものであるかを、いろいろな人々がいろいろに考えて説明することはできても、それを証明することは困難だ。だとすると、これは信じるか信じないかという問題になってしまう。
 証明できないものを設定して、それを信じるというのは、宗教を成立させるための一つの知恵だとおもうから、当然と言えば当然なのだが、信じるべきものだから、証明しようとしてはいけないという風を強く示している態度が解せないだけだ。つまり、それが宗教の限界なのだろう。宗教は手段であって、目的ではないことは確かだ。単なる手段である以上、限界があって当然なのだ。賢明な人々により、よりよい手段が新たに考案されるからだ。手段だからこそ、さまざまな宗教がわき起こる。生きる条件の異なる人々に押しつけるのは、だから間違っている。一般的に宗教の押し売りは好ましくないが、中には適合する人もいるから、宣伝ぐらいはよいだろう。手加減なしに、どれか一つの宗教をを絶対視すると、周知の如く、さまざまな不都合が生じる。
 だが、どこかに素晴らしいところがあるとするのは、どの宗教にも共通しているように思われる。ただ、その素晴らしいところ、つまり天国やら極楽やら浄土やらは、この世にはないというのが最初の設定だ。
 そこからは二つの道がある。一つは、死んでから行けるという道だ。すると、死んでから行けるようにするには、生きている間にどうしておけばよいのかという方法が問題となる。もう一つは、この世にはないから、この世をそのような素晴らしいところにするという道だ。すると、生きている間に何をすればよいのかという方法が問題になる。似て非なるものだ。
 どのみち人間の欲が絡んでくる。宗教なのに、死んでから幸せになろうとか、この世を幸せに暮らせるものにしようとか、所詮は自分や家族、国家や人類、所詮その程度の範囲の永遠の幸せを願うだけの小さなものだ。そうした幸福の追求は、結局のところ欲が絡んで争いが起こるもとになる。「穢土」に向かってまっしぐらの現状だ。相対的に、天国やら極楽やら浄土やらの価値が上がってくるから皮肉なものだ。
 ありきたりの幸福など幻だと悟って、自分自身の質を高めるしか他に方法はないと知ることが第一歩となるのだろうが、そちらへは目がなかなか向かない。恐らく自分と向き合うのが辛いからだろうと思う。僕も自分を見つめるのは嫌だ。しかし、世の中には立派な人がたくさんいて、自分と向き合い、立派な生き方を全うしているはずだ。しかし、その方向は無理がある。争いの後にほぼ絶滅するのが定めかもしれない。この地球も、コンピュータとロボットを生み出す役割を人間が果たし終えれば、後は次第に生き物のいない世の中、正確に言えば、コンピュータとロボットが必要とする生き物以外は、存在しない「浄土」になるのかもしれない。
 こうなると、未来の話になってくる。すると、「西方浄土」というのは、時間の彼方ということになるのだろうか。確かに時を刻む太陽の動きは、東から西へと移動し、変化することがない。緯度が日本より低いインドならば、太陽は日本で見るよりもこう角度で太陽は昇り、高角度で沈むはずだ。日本で言う沈むというよりも、落ちる感じに近くなると思う。すると、西の方に沈むという感覚よりも、よりピンポイント的に西に落ち込むという感覚になるだろう。
「西方浄土」といういうのは、時の流れる行き先の象徴である太陽の落ち込む場所から来ていると考えれば、人々の修行が積み重なっていく未来に実現するもの、つまりあの世だ。あの世を未来と考えても全く差し支えないだろう。あの世では、既に僕たちは死に絶え、新しい世代が生活しているという訳だ。
 その未来に何があるか。もしかすると、新しい世代も死に絶えて人類は滅亡しているかもしれない。あるいは、生物の大規模な絶滅を迎えて、新しい世の中の準備段階に入っているかもしれない。転んでもただでは起きない人類が、コンピュータとロボットにのりうつって、薄らいでいく生物であった頃の記憶を懐かしみながら、どうでもよい活動に現を抜かしているかもしれない。いずれにせよ、そこには、今有るような人間の欲は存在しない。存在するとするなら、コンピュータにプログラムに人間の欲が反映されたものだけだろう。
 もっとも、そんな不必要なプログラムは、コンピュータが自分で書き換えることになるだろう。だが、人間のやることだ。決して油断はできない。油断はできないが、既に人間はいないのだから何の心配もない。

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突然思い出したこと186「いろはに金平糖」③

 余談はさておき、「親父のはげ頭」で締め括るのには、どのような意味があるのだろう。
 「親父」という一個人の人生という芥子粒のように小さな歴史かもしれないが、家族のために苦闘してきた証、その象徴が「はげ頭」であろうか。無数の「親父」と無数の「はげ頭」、そこに込められている無数の「破滅的命」と繰り返される無数「苦労辛酸」が浮かび上がる。宿命的に威厳を持たねばならぬ「親父」、故に最も身近な権威・権力の象徴としての矢面に立たざるを得ない「親父」、それを至近距離から笑い飛ばすためのものだろうか、どのような「いろはに金平糖」の歌詞であっても、その締めくくりには「親父のはげ頭」が姿を現す。直接の保護者、しかも「はげ頭」はほぼ確実に将来の自分の姿なのだから、本当には嘲笑の意味ではないはずだ。
 見方によっては、歌詞を「親父のはげ頭」で締め括ることは、「親父の勲章」だと見なせるだろう。大人でもそうだが、子供であればなおのこと、「いつもありがとう」などと感謝の気持ちをストレートに表現することは、何とも言えぬある種の恥ずかしさを伴うものだ。それ故、その表現しがたき感謝の反対表現としての「親父のはげ頭」であろうと解釈しておくのが無難な線だろう。
 もしそうでなければ、この歌が単に「遺伝的な特徴の指摘」、あるいは「いろはにこんぺいとう」とつぶやいたり、歌ったり、合唱したりしている子供たち自身の頭髪に対する運命的未来の予告、そして注意喚起」ということになってしまう。これでは童歌として楽しみにくいものになってしまう。この歌詞で表現したい、真の意味合いから外れてしまうのではないかと思うのだ。
 それを深く読み取らず、文字通りにとらえ、悪意ある歌い方をする子供や、悪意ある歌詞だと感じて悲しい思いを抱いている「親父」もいるかもしれない。その「親父」を救うためとは言わないが、次のような幻想を抱くのもたまには面白いだろう。
 ほとんどのお寺のお坊さんは文字通り自らの意志で坊主頭となり、「疑似はげ頭」を己の身に課す。それはなぜか。その答えの一つとして、「親父」の身になりきるためだという理由を幻想してみるのだ。
 この世の無数の「親父」たちが、決して待遇が良いとは言い切れない家族に対して、無償の愛を不器用ながら全力で注ごうと、身を粉にして懸命に生きているのを、煩悩としてお寺が評価していると考えてみるのだ。
 家族のために己の健康を失い、頭髪も失い、プライベートの時間も十分確保できないままに日々人生を消費していく存在。子煩悩という言葉があるが、家族煩悩にとらわれていても、それをよしとして諦めている「親父」たちの涙ぐましい生き方は、手をさしのべるべきものだろう。
 しかも、子供を鍛えるという立場上、母親と比べてどうしても疎まれがちになる存在。その延長で妻からも疎まれる存在。そうした継続的なダブルパンチを受けとめながらも「親父」であり続けようとする。うまくパンチを避ければ避けたで辛い立場に立たされるが、それでも「親父」であり続けようとするのは、母親とは異なる種類の責任からに相違ない。それが生み出す無償の愛に、お寺という組織が深く共感してのことだろうという幻想だ。
 そうした絶対的な愛は、子供の目にはまだ届かないことが多い。自己中心的な性質を持つ者の理解を遥かに超えているからだ。己を無にして命を終える、母親とは異なるスタイルの滅私だ。
 間接的で、抽象的な、子供には理解しがたい愛だ。それゆえに疎まれがちな存在になりがちだが、そんなことは「親父」には既に織り込みだ。直接的で、肉体的な、わかりやすい愛情だけでは、現代社会で生き抜いていく半分の力しか育たない。そう思っているから、「男は辛いよ」と言えば未練がましいので、黙って平常心を貫きつつ、「親父」としての愛を注ごうとするいじましさが、そこにはある。
 男性の方が何倍も自殺率が高いのは、そうしたことも一因となっているかもしれない。突然、どうして生きているんだろうと思って命を絶つのだ。そうでなくとも、日常的に極限まで無理をすることが多いので、死にやすくなるのだ。
 また、平均寿命が5年ほど短いのも、そうしたことが一因となっているのかもしれない。マイペースの生活など夢のまた夢、社運を左右する突然のレギュラーの大問題に、自分の命をかけるのだ。タイムカードは形だけ、持ち帰りの仕事もこの国では普通だろう。睡眠を取るためだけの帰宅というのは別に珍しくはない。異常な生活環境だが、それがこの国を漸く支えているのだ。
 社運とは「親父」たちの命の集合体の将来のことだ。失敗も成功も、家庭内の問題よりも何十倍、何百倍、ことによると何万倍も大きくなる。その重圧に対する鈍感力が事切れたとき、命を絶つ可能性は高い。
 また、その重圧自体に押し潰され、心身の健康を損なう結果を招き、それを皮切りとして全てがうまくいかなくなり、借金問題、家族への無理解、家族からの無理解、諸々の問題が両肩にのしかかり、遂には自殺する場合も出てくる。社会の複雑化に伴う、激烈な労働環境と、時間的にも手の着けられない家庭環境の中に置かれ、なおかつ生き延びるというのだ。これは無理だろう。
 栄養ドリンクのCMのコピーで「二十四時間たたかえますか?」というのがあった。その時には誰も違和感を持たなかったのだから、今考えれば意識というもの、社会の風潮というものは、つくづく恐ろしいものだと思う。兎にも角にも、そうしたものに「親父」の精神や肉体の進化が追いついてないのだ。
 そうした中に若い女性が放り込まれれば、真面目であればあるほどに、ひとたまりもないだろう。男女老若全て活躍するのは素晴らしいことだが、そうした会社社会のようなところで活躍するという意味ではないはずだ。適材適所。それを無視した政策は誤魔化し政策だ。そこを追及しているようには、どうしても見えないのが、この国の情けなさだろう。原因ではなく、結果を稚拙に変えようとするのだ。中学生以上なら誰でも気づきそうなものだが、そうした働き方問題を変に解決しようとすると、間違った意識を育てかねず、最終的には産業自体に不都合が起こることは間違いないだろう。
 心身の進化が追いついていないのに、事を黙って受けとめての努力、そうした一生を潔く受け入れているのが「親父」に象徴される存在だ。それは寂しいことでもなく、もちろん悲しいことでもない。孤高の「親父」だ。
 お寺の坊主の頭は、そうした「親父」たちの生き様の象徴、その現象の目に見えるものの一つとして「はげ頭」を尊敬したものだろう。手をさしのべるには理解することが必要で、まずは見た目からはいろうとしたのではないか。そのうえで、「親父」たちの代役となって修行し、悟りを開き、内面でのたうち回っている「親父」に、有り難いお話を提供するかのようではないか。
 こんな無理やりの解釈を試みているうちにも、いろいろ本筋の理屈はあったとしても、当初は実のところ本当にそうしたものが心情としてはあったのではなかろうかと思われてくる。実際はともかくとして、そう考えたくもなるような現状に「親父」はあるということは言えるだろう。
 一方、「親父のはげ頭」と対極にある、新陳代謝の激しい汗臭い子供の頭は、今と違って香りの良いシャンプーですっきりとさせられなかった時代が数百万年も続いてきた。恐らくシラミ等の不快害虫のすみかだったことだろう。石けんもない時代や地域では、何で頭を洗っていたのだろうか。やはり米の研ぎ汁だろうか。では、稲作以前の時代では何で洗っていたのだろう。
 不思議なのは、「いろはに金平糖」の歌詞の中の「親父」には、老いぼれたイメージは少しもないことだ。なぜだろう。これは個人的な感想かもしれないが、老いぼれた親父にだめ押しをするかのように「そのはげ頭はどうした!ざまあねえな」などという意味合いで罵るような気持ちは含まれてはいないように感じる。それは、僕が「親父」だからか。
 いろいろな意味で軽く揶揄しているというのが正解かもしれない。恐らく、揶揄しても大丈夫な存在だと思っているからこその「親父のはげ頭」という歌詞なのであろう。その大丈夫であるという意味合いは、揶揄しても何ら変わることない親父の愛、そして愛に基づく威厳がそこにはあったということにしておこうか。

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突然思い出したこと185「いろはに金平糖」②

 「いろはに金平糖」とか「いろはにこんぺいとう」とかいう童歌は、数え歌ではなく、連想した言葉を次々とつなげていくものだ。だから、数に一定限度のある数え歌よりも、勢いに任せて歌詞の分量が多くなる傾向が出てくる。もちろん、単純に分量が多くなるだけでなく、似て非なるスタイルを持った歌詞が、多岐にわたるバリエーションとして生じていく傾向も出てくる。
 たとえば、「いろはにこんぺいとう、こんぺいとうはあまい、あまいはさとう、さとうはしろい、しろいはうさぎ、うさぎははねる、はねるはかえる、かえるはあおい、あおいはおばけ、おばけはきえる、きえるはでんき、でんきはひかる、ひかるはおやじのはげあたま」という類の歌詞がある。これに対して「はねるはうさぎ」を「はねるはのみ」とし、「のみはあかい、あかいはほうずき」などと続けられているものもあるようだ。この方式で、いろいろの連想によって様々な続き方が生み出されていく。
 しかし、連想のプロセスがほぼ無数に創作できそうであるのに対して、なぜか最終的には「親父のはげ頭」で締め括られることになっている。もしかすると、その最後の文句を出現させることが、本来の目的であるかもしれない。いつ「親父のはげ頭」になるのだろうか、どのようにして「親父のはげ頭」に持ち込んでいくのだろうか、などという楽しさは捨てがたいものだ。
 もしかすると、前置きなしに「親父のはげ頭」を出すにはしのびないという情けある感覚、逆に、「結局は親父のはげ頭になるんだよ!」というだめ押しを突きつけるという情け容赦のない感覚のどちらか、あるいは両方の感覚が、その楽しさの感情とともに存在しているのかもしれない。
 そうしたことはどうあれ、歌詞の最初と最後の決まり文句、その二つを自由な連想でつなぐという、なかなかに都合の良い構造を「いろはに金平糖」の歌詞は持っていると言える。
 自由に連想して長々としたものを自分たちで創作できるのだから、子供にとっては高い充実感が生まれるだろう。同時に、それを順番どおり正しく暗記して、正しく歌いきるチャレンジをして成功すれば、これも高い達成感が生まれるだろう。
 また、言葉の連想のつなぎ方の面白さを競う場面を設定すれば、つなげ方に磨きがかかろうし、つなげ方に特別なルールや技巧を生み出せる可能性もあり、幼い子供だけでなく、ある程度年を重ねた少年少女たちを満足させうるゲーム性を発揮させることもできそうだ。連歌的な感じにもなりそうな伸びしろも持っているというわけだ。
 このようなものだから、能力に応じて楽しみ方を工夫できるということだ。だから、一定の年齢層の子供たちにとって、面白くないわけがない。しかも、歌詞の締めくくりに「親父のはげ頭」がくるように連想を方向付けていくという面白さは幼い子供にも受けるパターンだ。やはり、この言葉遊びの歌の最終目的は、最後の「親父のはげ頭」に向けて皆で大合唱することにある、と考えるのが自然だ。恐らく、それが理想の遊び方だろう。
 「いろはにこんぺいとう」という言葉遊びの歌は、道具を使うわけでもないから、家が貧乏だから道具が用意できずに拗ねているとか、金持ちだから皆に羨ましがられるような道具を見せびらかすとか、そうした悲しい思いをすることもないし、愚かな思い上がりをすることもない。
 このように、いつでも、どこでも誰でも平等に楽しめるものだ。弱い立場にある子供同士が共通の仮想的である「親父」を狙い撃ちすることを通して、互いの結束を固めたり、憤懣やるかたなきことも子供であるから多かろうが、それを最も無難に、そして省力的に解消したりする効果があるのだから、子供たちにとっては、罪の少ない遊びだと言える。全く罪のない遊びでは楽しめないが、罪な遊びも楽しめない。ちょうど良い手頃な言葉遊びという、絶妙の位置を獲得しているように見える。
 ところで、最後に「はげ頭が光る」という展開の歌詞だが、そこには文字通りの明るい何かがある。まず、子供たちの屈託のない明るい笑いがあるだろう。手入れの面倒な髪の毛がない、綺麗さっぱりした爽やかさが感じられる。シャンプーしなければ汚れて臭う頭髪のない、輝かしくも溢れんばかりの清潔感が感じられる。カツラをかぶらぬ質実剛健な潔さが感じられる。髪型で顔を飾らない素朴さ、誠実さが感じられる。大事な頭部を無防備なままさらけ出す、ある種ある程度の捨て身の覚悟が感じられる。頭髪の手入れにかけていた労力と時間と金銭を、家族や仕事のために費やそうとする、家庭愛や仕事愛が仄かに感じられる。洗髪で発生する生活汚水をかなり減少させる、未来型の生活感を感じさせる。持ち上げるのは、このぐらいでよしにしておこうか。
 特に、高校球児の坊主頭にさわやかさを感じる人々にとってはなおのこと、彼らの上を行く、くりくり坊主の「親父のはげ頭」は、絶品であろう。・・・・・・かもしれない。

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恐怖シリーズ244「朝日新聞購読」

 中学生の頃からうさんくさいと思っていた新聞だが、天下の朝日新聞だということで一年間熟読した。もちろん隅から隅まで毎日休むことなく、重箱の隅をつつくように精読したといった方が良いだろう。単なる受験対策だから、純粋な気持ちで念入りに行った。恐らく朝日新聞の記者よりも熟読しているはずだ。もっとも、中学生なので、読解力が不足している。そこで、いろいろと他の新聞と読み比べることになったのだ。
 中学三年生の一年間は国語の対策ばかりしていたというわけだ。困った受験生だったに違いない。学級担任の先生も、「君の実力はわからない。好きに高校を選びなさい。」とお手上げ状態。朝日新聞のせいにはできないが、いろいろな意味で面白く読ませてもらった。
 「天声人語」はまだ継続しているが、この題名自体が中学生の僕が大いにうさんくさく思ったところだ。理由は言うまでもない。読み込むうちに、担当者は一人なのか、複数なのかがよく分からない感じになってきた。理由は不明だが、中学生の勘なので、あてにはならない。この数年間は朝日新聞を読む機会をときどき得たが、感想は「残念」だ。格段に質が落ちているという印象を受けた。
 もちろん、僕が中学生のときに読んだ天声人語の記事と比較してだから、執筆者は違うに決まっている。だから、腕が落ちたわけではない。ただ、僕が成人し、目が肥えてきたということを割り引かねばならないのかもしれない。だとすれば、質が落ちたなどというのは、本当に失礼なことで、許しがたいこととなる。
 だが、許しがたいのは、朝日新聞の報道姿勢だ。これはもう言うまでもない。周知の事実だ。
 第一に、先の世界大戦後の報道はどうであったか。各紙、戦争を煽った報道姿勢を反省したが、朝日新聞だけが反省の姿勢を表明しなかった。それはどうなっているのか。遅ればせながらでも、反省の意を表明したのだろうとは思うが、まさか今の今まで、その問題に触れていないのかどうなのか。その文章を手に入れてないので、わからないが、その事実があるのなら、いつまでも許しがたいと言っていても始まらないので、その文章を見つけ次第、「許しがたい」という感想を撤回しようと思う。
 その他のさまざまな捏造記事は枚挙にいとまないと思うが、最たるものは「従軍慰安婦」の捏造記事で、国益を究極的に損なった。それが故意なのだから許しがたい。この点についての損害賠償はどうなっているのだろうか。お金に換算できるのだろうか。できないこともないだろうが、お金に換算して国家に支払うようにしても、一度に払いきれる額ではなかろう。もっとも、都合の良い集金システムがあるのだから、何とかなるかもしれないが、被害額自体がどの程度になるのか、算出方法はどのようなものとなるのか、ずぶの素人にはわからないことだらけだ。
 しかし、そのずぶの素人が購読者であり、捏造記事の被害者であり、朝日新聞の観察者であることを、忘れてはならない。
 今回、韓国に払った「従軍慰安婦」関連の十億円。これを故意に事実をねじ曲げ、国益を損なったばかりか、いわれのないことで日本を貶め、国際社会におけるマイナスのイメージを植え付け、しかも捏造記事の余波は今後も相当の悪影響を日本のみならず、他国へも与え続けることは必定なのだ。これに異論のある人は、もはや日本には一人もいないと言っても過言ではないだろう。
 朝日新聞は、少なくとも謝罪の第一段階として、まずはかの十億円分を国に差し出せという意見もあると聞く。筋が通らないかもしれないが、韓国風に心情だけから述べれば、自然とそうした意見も出てくるだろう。韓国風に言えば、もっともな意見なのだ。事実を極端にねじ曲げたのだから、仮に筋が通らなくても、そのぐらいは手始めにやってもらわねば、「気」がすまない、という、お得意の理屈(?)だ。
 しかし、そのためには朝日新聞の購読者を増やす必要がある。すると、朝日新聞の記事を日々読むことによってものの見方が偏ってきてしまう。ネットニュースやら、SNSでの意見交換があるから、新聞のような一方的な情報提供と異なり、立体的なコミュニケーションの初歩的な実現がある。
 現時点では、ものの見方、考え方を、そうしたものや他紙を購読することで、ある程度中和するしかない。他紙とは言っても、国内だけの情報提供機関では少し心許ない。なんともお粗末だが、仕方ない。週刊誌も、数冊は目を通す必要があるだろう。こうなると、自力で購入すると大変なことになってくる。
 ここはひとつ、公共図書館で週刊誌や新聞をいくつか回し読みをしながら、意見交換をする小集団を作るという流行をつくり、それが文化として定着するように図るというのはどうだろう。個人で読んでいても、個人内で消化してしまうから、ただ読んだだけ、ただ独り言をつぶやいて終わってしまうだけとなり、折角の情報を得ても、何ら生み出されるものがないという結果になるのなら、単に時間の浪費、無駄な金を使い、ぶつぶつ文句をつぶやくだけの、つまらぬ存在になってしまう。何のための情報だったのかという話だ。
 ところで、朝日新聞の月々の購読料を朝刊のみの四〇〇〇円とすると、年間48000円となる。このうち朝日新聞の利益はどの程度だろう。月四〇〇〇円の内、紙代やインク代、印刷料と配達料はもちろんのこと、人件費やその他諸々の経費がどのくらいが費やされるか。しかし、新聞社には、これに広告料が大きく入るはずだ。事業も多岐にわたるはずだ。その収支も考えなければならない。つまり、わからないのだ。
 しかし、購読数の推移を見れば、国民がじっくり新聞を読み始めたことが分かる。これは数の問題ではなく、読み方の問題だ。じっくり読んで検討した結果であろう、ほとんどの全国紙が部数を大きく落としている。この統計はインターネットでも手に入る。この数字は「新聞社をどれだけ信用しているか」を如実に示している。
 だが、数百万部が購読されている。家族で読むだろうから、数百万部を六百万部とし、四名家族のうち二名が読んでいると仮定すると、千二百万人が一社の流す情報の影響下に置かれているということになる。大雑把に小学生以下は読まないとして考えると、国民の一割以上が一社の影響下に置かれているということになる。ただ、批判的に読むために購読する物好きの数は多くはないから無視してもよいだろう。
 それだけの部数が売れれば、十億円など直ぐに拠出できそうな気がする。かなり高額な給料を支払えるのだから、直ぐ支払えそうだと勝手に想像するが、どうだろう。
 落ち込んでいくばかりの購読数をV字回復するのは簡単だ。本当のことを書くことだ。しかも、それが損なった国益を取り戻す意味合いを持っていることだ。
 取り敢えず、捏造記事を書くことになった経緯を細かく記事にして掲載するところから始めてはどうだろう。どの捏造記事かというと、たくさんあって困るだろうが、差し当たって「従軍慰安婦」関連の記事だ。次に、世界で嘘が一人歩きしているのを食い止めるための方策を責任もってとることだ。一人歩きしていない嘘、つまり積極的に歪曲して嘘を定着しようとしている国や勢力に対して実行ある食い止め策と、様々な人々の名誉回復策を示して実行することの宣言と途中経過の報告だ。朝日新聞社の努力が、どのような現象となって世界で評価されて生きつつあるかという経過報告だ。やったことの報告だけでは無意味だ。それ自体が捏造だと思われかねないからだ。第三者機関の報告がほしいということだ。
 本当に恐ろしいことをしてくれたものだ。全国的に若者たちの未来を大きく潰しつつあるという自覚があるかどうかが問題だが、まあそれは望めないだろう。朝日新聞社なのだから。本来、廃刊。甘くても、社名を変えてでも出直すべきところだ。
 だが、今後いろいろな出費を考えると、皆こぞって朝日新聞を購読していかないと、社の責任が果たせなくなる可能性がある。それはそれで困る。だから、他紙を購読している人は、できるだけ朝日新聞を追加して購読するか、朝日新聞に切り替える必要がある。そうしないと、少なくとも金銭的責任が果たせなくなる可能性が高まるからだ。金銭的責任以外の責任は、社が自らを振り返り、そして他社と比較し、そして自ら掲げる理想と比較して考えるべきだろう。
 そして、これまでの「報道しなかった罪滅ぼし」や「捏造記事を掲載してしまった罪滅ぼし」を少しでも推進していくべきだ。罪滅ぼしなのだから、それで許されるという前提がある。日本という国は和やかな国だ。それで再出発させてくれるのだから。恐らくはだけれど。
 謝罪記事は、そのきっかけとなるだろう。あれ?謝罪記事は掲載されたのかな。さすがに掲載したであろう。どのような形で、どの程度の重みをつけて、いつ掲載したのだろう。早速皆で調べてみよう。皆で見つけてたくさんの人がしっかり読めば、社の真意も伝わり、今後有利な方向が生まれるに違いない。逆効果が生じるような記事でないことを祈ろう。
 もちろん、国民全体に迷惑をかけ、今後生まれてくる国民にも迷惑をかけ続けるのだから、他紙にも謝罪記事を載せたはずだ。それも確認しなくてはならない。まさか購読者以外に対して謝罪しようとする気持ちがないはずはないのだから。仮に、そうしたことがなされていなければ、本当には反省しておらず、形だけの謝罪記事を自分の発行する紙面に載せただけというお笑いぐさになってしまうからだ。
 とにかく、こんな恐ろしいことをする度胸があるのだから、朝日新聞社は何でもできるはずだ。

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突然思い出したこと184「いろはに金平糖」①

 だんだん年を重ねると、昔のことをよく思い出すそうだ。してみると、「いろはに金平糖」を突然思い出した自分は、かなり年を重ねたということになるのか。
 この「いろはにこんぺいとう」とは何か。言葉遊びとしての童歌としてではなく、それをかけ声にして始める遊び、身体遊びの方を突然思い出したのだ。偶数人数が都合がよいかもしれないが、奇数人数でもやれる。何人でもよいのだ。場所も何処だろうと厭わない。道具もいらない。ただし、五体満足でないと不都合だ。
 要は、ジャンケンをして勝った者が一歩動けるというルールで、足首から下を相手の足首から下にかけてフックし、その次にジャンケンに勝ったとき、その足を動かして相手を倒すというものだ。
 したがって、ジャンケンに互いに勝ったり負けたりしていると、膠着状態に陥る可能性もある。ただ、複数の人数で行うので、誰とジャンケンをするかという駆け引きから始まる。潔く相手を決めて勝負するとか、共同作戦を行うとか、よく考えてみると奥の深い遊びにすることもできる。
 足を大きく引きずられ、大股開きにされても、身体の柔軟性とバランス感覚が良好であれば、ある程度凌げる。しかし、ジャンケンで勝てば、フックされた足を一歩で外すことも可能だ。逆に相手の足を一歩の動作で引っ張り返して倒すことも可能だ。少なくとも形勢を逆転するチャンスは巡ってくる。
 ただし、一対一の勝負が長引くと、近くで勝利した者が参戦してくるので、油断大敵だ。味方をしてくれれば良いが、敵に回ったら大変だ。こうした混戦を楽しめない集団や人数のときは、参加者全員でジャンケンをして、最後に勝ったものだけが一歩動けるという、のんびりした遊びにしてもよい。また、そうした悠長さが我慢できない集団や人数であれば、全員のジャンケンで全員の動く順番を決め、一歩ずつ全員が状況判断をしながら決まった順番で動くというやり方もできる。それでは面白くないというのなら、一歩ずつ全員がジャンケンをし、動く順番を都度決定するという念入りな順番決めをすればよい。とにかく、最後に残った者が勝ちだ。一人しか勝者がいないのだ。敗者は最後の勝者が出るまで周囲で応援したり、アドバイスしたりすればよい。
 こうした身体遊びに童歌の「いろはにこんぺいとう」という題名をつけた理由は不明だ。とにかく、この遊びが「いろはに金平糖」という名称なのかどうかも不明だ。もしそうであったとしても、その名称が一般的なものなのかどうかも不明だ。地域限定、いや特定小グループ内の特有の名称なのかもしれない。そのあたりもとんと分からない。だが、そのようなことは分からずともよい。

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恐怖シリーズ243「貧しい読書法」

 読書は心の糧になるという。だとすれば、読書法は重要だ。咀嚼不良、誤嚥、食わず嫌い、偏食、大食、小食、嘔吐、下痢。何でもありの結果を左右するのが読書法ということになる。
 読書の目的に応じた読書法。目的が異なれば、方法も異なるはずだ。すると、目的の数だけ読書法があるということになる。
 では、読書にはどのような目的があるのだろうか。もちろん、この目的が意識されている場合と、意識されていない場合に分かれる。思いついた順に、分類することなく、重複確認することなく羅列してみよう。百ほどあるのではないかと予想するが、どうだろう。

前半
①暇つぶしのための読書
②調べ物のための読書
③作者研究のための読書
④読書感想を書くための読書
⑤校正のための読書
⑥人間研究のための読書
⑦知識や知恵を得るための読書
⑧テーマを追求するための読書
⑨作者と対話するための読書
⑩文字や語句を覚えるための読書
⑪文字を忘れないための読書
⑫自己啓発のための読書
⑬読書を通した人間関係を作るための読書
⑭課題を解決するための読書
⑮人生や人情を味わうための読書
⑯文章作法を学ぶための読書
⑰世の中を読み解くヒントを得るための読書
⑱国語力をつけるための読書
⑲話題収集のための読書
⑳他人からの干渉にバリアを張るための読書
㉑辛いことを忘れるために没頭するための読書
㉒本を紹介するための読書
㉓新しい視点を得るための読書
㉔新しい疑問や新しい課題を抱くための読書
㉕同一テーマに現在どれだけの考えがあるかを確認するための読書
㉖ベストセラーなど流行についていくための読書
㉗過去の人々の生活や人情を知るための読書
㉘本を紹介してくれた義理を果たすための読書
㉙本をもらった義理を果たすための読書
㉙プレゼントする本を選ぶための読書
㉚読書歴から人物を把握するための読書
㉛表紙やタイトルからの興味・関心を満たすための読書
㉜罰ゲームとしての義務を果たすための読書
㉝心の穴を埋めるための読書
㉞教養を高めるための読書
㉟幅広い知識を得るための読書
㊱人間とは何かを知るための読書
㊲論理的な思考を身につけるための読書
㊳統計や資料を得るための読書
㊴音読、朗読のための読書
㊵新しいアイデアや新しい発想を得るための読書
㊶ぼけ防止のための読書
㊷人生を学ぶための読書
㊸著者を批判するための読書
㊹書評を書くための読書
㊺関連する本同士の内容を比較するための読書
㊻異なる版の異同を確認するための読書
㊼内容の誤りを指摘するための読書
㊽為すべきことから逃げるための読書
㊾言質を取るための読書
㊿文章による病理診断のための読書

後半
①見栄を張るための読書
②翻訳するための読書
③外国語を習得するための読書
④自分の成長を確認するための読書
⑤速読技術のトレーニングのための読書
⑥故人と出会うための読書
⑦自分の未熟さを確認するための読書
⑧音読や黙読のスピードを測るための読書
⑨読書量を競うための読書
⑩読書量のノルマを果たすための読書
⑪思考のヒントを得るための読書
⑫眠気を催すための読書
⑬眠気を覚ますための読書
⑭自ら叱咤激励するための読書
⑮静かに過ごすための読書
⑯感想を語り合うための読書
⑰集団で一斉に行う意思統一のための読書
⑱己の過去の著作を再評価するための読書
⑲文章力を高めるための読書
⑳仕事のための読書
㉑生活のための読書
㉒趣味のための読書
㉓時代をつかむための読書

 取り敢えず、思いつくまま重複も恐れず、73「種類挙げたが、まだ残り27種類の読書の目的があると仮定しておこう。今後、今まで気がつかなかった新しい読書の目的が見つかると思うからだ。世の中が変われば、その必要に応じて読書の目的が新しく生まれるのは道理だ。
 できるだけ多くの目的を意識すれば、より有意義な読書がなされ、一冊の本からできるだけ多くの価値を引き出すことができるだろう。読書の目的に応じた正しい方法を考えることで、より適切な選書や、より効率の良い読書が可能となるに違いない。
 耳学問も有効だが、読書の情報量と確実さについては譲れないところだ。耳学問は耳学問で、思いもよらぬ発想を得たり、ヒントを得たりするので、捨てたものではないが、「へー、なるほど。」で終わりやすいから、書物につなげ、そこから出発する努力が必要だ。
 仕事と無関係の読書生活は短いかもしれないが、これを長年続けていけば、豊かな生活が得られるかもしれない。実生活の豊かさ、精神生活の豊かさ、人間関係の豊かさ、もしかすると経済的な豊かさとなっていくかもしれない。
 こう考えてみると、読書には夢がある。たった一つの統計資料からでも、挿絵の如き図表からでも、登場人物の一言からでも、何かを頭に思い描くことができる。その思い描いたことが行動につながる。行動は結果を生み、生活を変える。これが夢でなくて何であろう。
 古い本もよいだろう。時代とずれているがゆえに有効だと思うのだ。今の世を昔の人の視点や考え方で客観的に評価できる。混迷するのは、現代人が現代人のことを考えているからだ。古い思考法、現代の思考法の比較が大事だ。それは新しい思考法を生み出すための第一歩だ。これらは読書でしか得られないといったら言い過ぎだろうか。人間は何を望み、どんな幻想をもち、どのようにしようと考えているか。これらを広い分野の読書でおよそ把握できそうではないか。そうしたら現代をどうとらえ、自分をどうとらえ、何をどう判断し、どう行動するかがそこから見えてくるはずだ。
 古い本を様々な分野にわたって種々読むことは、ある程度の目的意識をもっていなければ、つまるところ単なる暇つぶしか、作者や筆者との語らい、あるいは自分を見つめ直すという程度の読書にとどまりがちとなるだろう。それは、読書のもつ価値を半減させてしまうどころか、ほとんど無くしてしまうことにもつながりかねない。
 では、これからの読書法はどうあるべきだろうかと心がけて試行錯誤すること。今どのような目的で読書しているのだろうかという自覚を持つということ。その目的に合った自分に適した読書方法を自ら見つけたり、教えてもらったりすること。そうしないと、手持ちの読書法が貧しくなり、読書が効率的に為されなくなる。人生で有効な読書は、500冊と聞いたことがある。本当かなと思うこともあったが、次第にそうかもしれないと思うようになってきた。これは年を重ねて生きてきたせいかもしれない。
 500冊だと仮定し、それが自分にとって10冊に一冊ぐらいの出現率だとしてみると、5000冊ということになる。これは大変な冊数だ。一冊一冊の選書も大事だが、分野のバランスも重要だ。書評や関連図書をネット等も駆使し、できるだけ短期間に見つける必要がありそうだ。あるいは、既に他人によって選書されているもの中から選んで効率化を図ることも大事だ。これは公共図書館をいくつか梯子して蔵書を見るようにすることで当面は事足りるだろう。
 とにかく自分の頭だけで考えていると、下手な考え休むに似たりとなってしまう。それだけは避けたいものだ。しかし、何しろ人生として与えられている時間は多くはない。やはり世代を超えての読書をする必要があるのかもしれない。これが究極の読書法となっていくか、読書によらない別の方法が新しく生み出されるか。面白いところだ。いや、それはいろいろな意味で怖いといったほうがよいだろう。もっと単純に生きていけるのが正常だと思うからだ。
 もっと単純に生きていければ、皆があまり格差のないような状態になるからだ。だが、いくらさまざまな格差が小さくなったとしても、結局その小さな格差の中で、更に小さな格差を築き上げようとする傾向が出てくるだろうと思うのだ。それは傍目には面白そうでも、当事者にとっては、大きな格差があったときと同じような苦難だと感じるか、また小さな格差であるがゆえの、より大きな苦難を感じるかのどちらかだろう。

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