心の断片474「日本の運命」

「日本の運命」

ガラパゴス諸島で
特殊進化した動植物が
群れているように
日本列島でも
特殊進化した混合人類が
群れている
大実験地
日本列島は
さらなる人類の第一歩を
悲しい思いで
約束している

過去のしがらみから
解放されるべく
新天地で
理想を実現すべく
決起して船出した
あの日々を
脳の深淵部に
魂として記録したゆえに
忘れることなく
思い出すことなく
そのままに
今を生きる
いつまでも新民族の
雄叫びを聞け

もう少しで
人類の新しい第一歩
必死の歩みが
ここから始まるのだ

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心の断片473「ゆううつな星」

「ゆううつな星」

偏見なくして
信じることはできぬ
ゆえに
偏見なくして
愛することはできぬ

信じることも
愛することも
だから
ともに美しい

偏見なき
直ぐなる目で
見つめることは
だから
とても難しい

人は誰でも
自分がしていることを
美しいと思いたい
でも
それは
どうしてだろう

人間一人一人の
疑惑の祈りが
吐息となって
どうしようもなく
この星を押し包んでいる

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心の断片472「覚醒」

「覚醒」

虹の中を通ったことがあるか
地中から
湧き出た如く
道路をまたぎ
半円形のアーチとなった虹の
その中をくぐり抜けたことがあるか

若き夏
原野の果てまで
真っ直ぐな
一本の道が
輝く虹の中心を突き抜ける
その神々しき構図に打ちのめされながら
彼方消失点の向こう
世界なき世界を見んとする

おう
くぐり抜けた瞬間
消えた虹のかわりに
すべてが
新しい意味を持ち始めた
岩も木々も
森も山も
この壊れゆく肉体も

虹の中を通ったことがあるか

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変な疑問281「< べらぼう >の語源の珍説出せるか」㉑

 さて、日本の標準語を日本国内に広める過程で、きたない方言を使うのを止めましょうという珍妙な宣伝を国が率先して行うというような不見識は、さすがにあるはずもなかろう。しかし、標準語を広めるという国の意向をよく忖度すればよいものの、その広まりを急がねばならぬと悪しく忖度した無教養は、いずれかの部署や団体ではあったかもしれない。
 「べえ、べえ言葉は止めましょう」ぐらいの穏当に聞こえる宣伝はあっただろうが、そうした方向性は自動的に展開していった挙げ句の果てに必要以上に高じてしまい、程度の甚だしくなった方言撲滅運動的な宣伝がなされるに至り、方言を話すことは恥ずかしいことだという意識を持つ人までもが出てくる始末。
 そうなったのは、自然の成り行きだったかもしれない。当時の上意下達の多くは、新聞やラジオや学校教育に依らねばならなかった時代だろうから、そのあたりの手のいれようの痕跡となるような何らかの記録は案外と残っているかもしれない。
 新聞もラジオも学校も、当時は権威の一つだっただろうと思う。現代でも、なぜか新聞社主催のコンクール類が何かとたくさん存在するのも、その名残だろうと思う。また、どこの学校を卒業したかということを頻りに気にする人がいるのも、その名残だろう。
 そのような存在が推奨するものは、正しく、美しく、立派なものであるはずだという頭があった。そのような思い込みに近いものが、人々に共通の意識として存在する場合には、とある何かを徹底させようとするときには、非常に役に立ったと思われる。
 しかし逆に、そのような存在が推奨しないものは、正しくなく、美しくなく、立派なものではないという感覚も育っていってしまうことになる。これは方言蔑視の原因の一つの種になった可能性がある。
 もしかすると、標準語というものを正確に話すことができる人が最初は少なかったために、稀に標準語を正しく話していると評価された人が、「綺麗な標準語ですね」と賞賛されたという時期があったことにヒントがあるかもしれない。賞賛の言葉が他の人の人の耳にどう聞こえたかという問題があるからだ。
 ある人の耳には、「あなたの話す標準語は、他の人が話す標準語よりも、綺麗な標準語ですね」という意味合いに聞こえたかもしれない。
 しかし、別の人の耳には、「あなたは、きたない方言とは違う、綺麗な標準語ですね」と聞こえたかもしれない。
 つまり、「綺麗な標準語ですね」という言葉足らずの表現によって、「標準語イコール綺麗」という感覚が確立してしまったかもしれないということだ。
 そして、その裏には、綺麗なものは価値が高く、価値が高いものは広まる力があるという感覚、そして新聞や学校といったある種の権威が推奨するものは正しく、広められるべきだという感覚が人々に共通していたという実態があっただろうということだ。
 それから時が経ち、標準語と思しきものを話す人が増えてくると、多勢に無勢で方言を公の場面で話す人が減り、「綺麗な標準語ですね」という賞賛の言葉の意味合いが、ますます「標準語イコール綺麗」という意味合いに加速していっただろう。
 そうした変化の中で「言葉がきたない」という言い方も生まれてくる。「標準語に慣れてないために、まだきたない標準語しか話せない」という意味合いなのか。「方言というきたない言葉で話す」という意味合いなのか。
 これらの意味合いも、「綺麗な標準語ですね」の場合と同じようなことがおこり、結局は「方言はきたない言葉だ」という意味合いに落ち着いていってしまったようだ。
そもそも方言がきたないと感じる人は、標準語と比べて何を感じているのだろう。
 それは清音と濁音の割合の違い、そして促音や拗音の割合の違いが、そのように感じさせるということもあるのかもしれない。
 「濁」は「にごっている」、「促」は「つまっている」、「拗」は「ねじれている」と、マイナスの意味合いをもっている。これは最初から変だという見方で見られているのも同然だ。方言は確かに「濁音」や「促音」や「拗音」の割合が、比較的多いように思う。
 また、標準語は官製のものであるから、良いもの美しいものという価値を最初から持っているものの、実際にそうした価値を認められる要素を持っていなければ、広まらないという事情がある。
 もう一つ考えておかねばならないのは、標準語を普及させようというときに邪魔になるものが、歴史的に、文化的に、生活文化的に土地に根付いている方言であるという事実だ。
 そうなると、標準語を普及させるためには、その土地土地の方言に対して、良くないもの、きたないものという評価を与えざるを得なかったということがあったであろうという想像がつく。
 そうなると、標準語を広める時期には、特に意図的に方言使用者を貶める風潮が広まった可能性が高い。
 方言を使うと罰を与えられたり、それが原因でいじめられたり、からかわれたりすることも多かったように聞く。それはそのまま「許されないタイプの差別」を生み出したに違いない。
 どの方言を使う土地で生まれたかという事実は変更できないものだ。だから、生まれた土地と強く関係する方言の使用を根拠として、本人が不利益を被るのは許されないことだと思う。
 日常使う言葉の問題なので、日々の言語生活の中でできるだけ標準語を話そうと努力する人も出てくるはずだ。また、そうした努力はまだしていないが、方言を公の場で話すことが恥ずかしいことだという世の中の流れを感じて、自分もそのように恥ずかしく思う人も出てくるはずだ。
 そうした人々の一部にもご多分に漏れず人間のできが悪い人もいて、他人の話し方や言葉が標準語から外れているのを耳にしたとき、自分のことは棚に上げ、その片言隻語を指摘して馬鹿にしたり、非難したり、それを契機に、いじめたり、いじったりし始める人も出たであろうことは想像に難くない。
 また、人間のできの良い人も、とある方言が自分が理解することのできる方言である場合は、自分が話しているかのように恥ずかしくなったり、自分が理解することのできない方言である場合は、「あの人たち、いったい何を話しているのだろう?」とか、少し風体が悪ければ「あの人たち、何を企んでいるのだろう?」という不気味さを感じたりすることもあったであろう。
 お国訛りという言葉がある。「言葉は国の手形」というが、故郷を誇りに思う気持ちが、そこには込められている。いつからお国訛りである方言が、マイナスのイメージを背負わされたかといえば、当然、標準語の普及のためのキャンペーンの過程においてであろう。
 ただ、いろいろな地方から来た人が一緒に仕事をしたり、作戦を遂行しようということになれば、互いに己の方言を話していては不都合が起こるのは確かだ。うまく標準語に近いものを話せないと、仕事の邪魔になるどころか、命を危険にさらす可能性も高い。そこまでいかなくとも、全国展開しているような会社であれば、標準語も話せない社員がいるということになると、イメージダウンにもつながるとの内部評価を少なくとも受けることになったであろう。
 例外として、方言が功を奏することがあるとすれば、敵の捕虜となり、拷問にかけられても、方言がきつすぎて話す言葉を敵が全く解読できないということぐらいだろうか。
 多くの場合では方言の混在によって共同作業等に実害が生じるということになると、誇らしきお国訛りである方言に対する不当な差別が正当化される風潮が生まれるだろう。すると、そのお国訛りを操る人をも不当に差別する風潮も生まれたであろう。
 それは実害がある人にとっては仕方ない面もあったかもしれないが、方言だけでなく、人までを不当に差別するということが一般化すれば、その人が活動する場はともかくとして、そこから何ら実害がない場所の人に対してまでも、その不当な差別が波及していったであろう。そして、最終的にはいつの間にか言語による「許されないタイプの差別」の温床が、常識の如くに広がっていった可能性が高いように思う。実際にはどうだったのだろうか。
 逆に、現在は標準語が浸透してきて、逆に方言が重宝される時代になってきている様子も見られる。それは戦争後に人々が官製のものから解放されていく過程で次第に形をなしてきた傾向であるように思う。もっとも、調査したわけではない。ただ、映画やテレビやラジオから流れてくる人々の話し言葉の変化を、年代順にたどったときに受ける印象として、そのように思うだけだ。
 どんなものにも役割がある。どこか折り合いのつくところで、揺れながら標準語と方言は共存していくしかないだろうと思う。
 さて、もともとお国訛りは、お国ごとに差別化されていった言葉だ。それはどのように差別化されたのだろう。そして、「許されないタイプの差別」はどのようにして生まれたのだろう。
 まず、言葉は分断化によって差別化されていくはずだ。それはどのようなものであっただろうかと想像してみる。

① 地形による分断化
・交通網と通信網が発達している分だけ、分断化が緩む。
・交通網と通信網が未発達である分だけ、分断化が進む。

② 長命化による分断化
・長命化が進んで家に引きこもる期間が長くなるほど、分断化が進む。
・長命化が進んで移住範囲や活動範囲が広がるほど、分断化は緩む。

③ 政策による分断化
・政策で行動範囲を限定する傾向が強いほど、分断化が進む。
・政策で行動の自由を保障する傾向が強いほど、分断化が緩む。

③ 世代間の絆の強さによる分断化
・三世代同居、二世帯住宅、地元企業への就職が増えるほど、分断化が進む。
・核家族化が進み、テレビの影響が相対的に高まるほど、分断化が緩む。

④ 地方の活性化による分断化
・人口が首都圏にあまり集中せず、地方が活性化するほど、分断化は進む。
・現在のように首都圏に人口が極端に集中するほど、分断化は緩む。

 他にもあるだろうが、今はこれしか思い当たらない。次に、こうして分断化した後の差別化はどのようなものであっただろう。適当に想像してみる。
 国土のほとんどが山である日本の場合は、結果としてほぼ地形という自然由来の原因によって言葉が分断化され、それぞれの土地でガラパゴス化する力が大きくはたらいてきたように見える。
 昔の国ざかい、今の県境、実際の境界線ができたのは、軍事的な理由の境界線が自然と山や川となったり、交通の効率を確保できるまとまりの限界の地域同士が周囲との折り合いでできた境界線であったりする。
 人々はその境界線内で暮らすなかで、話される言葉が長い年月をかけて独自に変形したり、独自に進化したりして、地域の生活に合ったように言葉が醸成されていったはずだ。それが、お国訛りというものだろうと思う。
 勿論、お国訛りといっても、所謂訛りであるアクセントやイントネーションの異なりや名称の違いなどの単語の異なりにとどまらない、言葉の全般、つまり方言のことだ。
 それぞれの方言は、それぞれの土地土地で使用者が互いに了解しながら一括りの「ものの言い方」として成立していったものだろう。己自身が独自に成長していった結果としての差別化であって、意図的な差別化ではないのが基本だ。
 鹿児島弁のように都市伝説的に他国の人に話していることが伝わらないように独特の言葉にしたというような、意図的な差別化の噂をもっている方言もあるけれど、それは事実だと仮定しても例外的なものだ。
 さて、他の地域との間で何らかの利害が一致しない憂うべき状況になると、それぞれの方言の違いは、その言葉の違いを互いに根拠とした「許されないタイプの差別」が生み出されるようになるだろう。相手を貶めるために、方言がダシにされるというわけだ。
 方言を根拠や契機として行われる不当な差別は厄介だ。それは、努力によって別の方言や標準語を使うことができるようになるからだ。
 使えるようになる努力を怠っていることや、努力しても習得できないことを理由として、その意欲や能力のなさを指摘しての蔑視が、そのまま不当な差別につながることがあるのは、評価の問題であるだけに厄介だ。また、何か言われるのが嫌なら正しい言葉を使えばよいではないかという理由が、難なく通ってしまいがちことも厄介なことだ。
 それは努力すれば変更できるものであっても、「許されないタイプの差別」がなされた時点でアウトだと皆が思わねばならぬことだ。なぜならば、標準語を十分に話せないことは、本当は何ら問題の無いことだからだ。ある程度話すことができれば、共同で作業をすることに支障はないのだ。少しずつ完全でないのはお互い様ということでよいものだ。アナウンサーでも目指すならば別だけれども。
 必要とあらば、翻訳ソフトで対応できるようにすればよいことだ。全く文法の異なる外国語でもある程度は可能なのだから、日本語の方言翻訳ソフトならば可能だろう。
 かつては、アクセントやイントネーションの違いなどがあるという点が、不当な差別の根拠とされることが多くあったに違いない。方言を出すと笑われるというのもそうだ。また、何々方言だからという理由ではなく、方言丸出しで平気でいる、あるいはそれを売りにしているということを根拠とした差別もあったかもしれない。これは今もあるように思う。
 しかし、恐らく戦後は、新しい感覚で方言を捉える人が多くなりはしなかったか、経済が成長し、子供たちが故郷を離れて大学に通うという状況が急に増えていった。そこでは「これって〇〇弁でなんていうの?うちらは〇〇って言うよ。」というような、方言に対する好奇心も、蔑視と同時に芽生えていく環境が増えていったのではないかと想像する。好奇心か蔑視か、どちらに思いを抱くかは、教養の程度によるのであろうが、そんなことをそのときに本人が自覚するよしもないだろう。
 これは仮に言語管理という言葉があるとすると、その言語管理ができていないことに対する低い評価をネタに笑いものにするという、極めて下品な行為だ。
 下品な行為であるということは、「許されないタイプの差別」の一つの特徴だろう。平均以上の人間レベルにある人たちが、「許されないタイプの差別」を思いつかなかったり、思いついたとしても実行するのを思いとどまったりするのは、そうした人たちが、もともと上品な人であるか、あるいは下品な人にはなりたくない人であるからだと思う。
 もし、「べらぼう」が人間でなければ、言語の問題も何もないが、仮に「べらぼう」が精巧な着ぐるみを着込んで人間以外の特別な生き物のふりをしている日本人であったり、その中身が日本語を知らない外国人であったりした場合も、人語を話さない限りは問題ない。唸っているか黙っているかしていればよいのだ。
 しかし、仮に「べらぼう」が、特別な人間であるという設定の場合は、方言がらみ問題が生じる。外国人であれば、通常は外国語を理解するものもいないだろうから、それはそれで問題は無いが、よくある外国語のようなイントネーションの日本語が、一種の方言のように扱われるかもしれない。だが、舶来物好きな日本人は、逆にそれをプラスに価値づける方向に行く可能性が高い。問題は、「べらぼう」が日本人の場合だ。
 たとえば、どこかで聞いたような方言を人間である「べらぼう」が発したら、その方言によって、「見世物小屋」が営業上創作した謳い文句とは異なる「べらぼう」の出自が、お国訛りであるだけにさらけ出されてしまうおそれがある。営業上の経歴を方言に合わせてでっち上げておけばよいのだが、巡業の場所によっては変更しなくてはならない場合も出てくるだろう。
 江戸時代に標準語というものは、まだ存在しないのだから、「べらぼう」を演じるときに標準語を使ってお国を誤魔化すわけにはいかない。かといって、江戸での巡業で江戸言葉を話してしまうと、身近なものに感じられて、普通でない感じをお客さんに与えられない。
 江戸は、今の東京と同じで、基本的には地方出身者の集まりだから、「おや、あのお国訛りは、自分の故郷のものだ。」などと気取られたら、さすがに騙され半分と割り切って見物に来ているお客さんであっても、それはそれで懐かしくはあろうけれども、見世物を見に来た客としては興ざめになる可能性がある。それは避けたいことだ。
 お客さんに「あんなやついたか。噂も聞いたことなかったぞ。」という気持ちにさせてしまっては、今ひとつの見世物になってしまうだろう。
 やはり、「べらぼう」が特殊な人間であるという設定ならば、できるだけ神秘的なほうがよく、その出自も〇〇出身と言われているが、実際には不明であるというぐらいにしておくのがよいだろう。方言を話してしらけさせる可能性があれば、話せないということにしておき、その理由として何か不幸な事件をでっち上げ、それがきっかけで言葉を失ってしまったとか、生まれつき話せないけれども、「天は二物を与えず」ともうしましょうか、こんなことができるのでございます、というような話を最初からしておけばよいだろう。
 仮にその「べらぼう」が、話すパフォーマンスをもっていたとすると、その話す方言と同じ方言を話すお国の人が、一般生活の中で、「おまえ、べらぼうと同じしゃべり方だな。」と蔑まれたり、「おまえも、べらぼうと一緒に働けばいい。ここを止めてくれ。」とパワハラを受けたりして、いわれのない不当な差別、つまり「許されないタイプの差別」を受ける可能性もある。
 また、稀にその逆もあるだろう。日常生活や仕事でいつも蔑まれて差別されている人物が話している方言と「べらぼう」の方言とが一致したとき、「見世物小屋」で働いている「べらぼう」に対してまでも蔑視の気持ちが湧き起こり、「べらぼう」には何の落ち度もないのに、「あいつも仲間だ。やっちまえ。」とばかりに、「べらぼう」に意地悪をする可能性がある。これも「許されないタイプの差別」だ。勿論、親方が「べらぼう」を守ってくれるだろうが、非営業時にやられてしまうかもしれない。
 大人気の「べらぼう」の見学者は多いはずで、その見学者たちの目の前で、そうした意地悪をする人間は、さすがに出てこないだろうとは思うが、あまりにも酷い事件の犯人の方言と一致した日には、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」式に、捕まらない犯人の代わりに「べらぼう」が白昼であっても標的にされるおそれがある。暴徒に理屈は通じないのだ。
 「切腹」だの「切り捨て御免」だの、恐ろしい制度が存在した時代なのだから、命に対する感覚は、現代人とは大きく違っていたと考えた方がよいと思う。世が世なら「銃刀法違反」「凶器準備集合罪」の疑いのある人間がうじゃうじゃと公道を闊歩していた時代なのだ。
 武士の「切腹」にしても、実際には「斬首」だ。首をすぐに落とさないと、腹を切って飛び出た内臓類を立会人たちに投げつけたり、のたうち回ったりして大変なことになる可能性があるからだろう。「切り捨て御免」など、裁判で事実関係の確認をするなどという手続きがないのだから、もしかすると人違いで一刀両断されてしまう可能性もあるのだ。一般庶民の感覚も尋常ではないはずだ。
 ところで、言語の違いを根拠とした差別のなかの「許されないタイプの差別」には、方言によるものだけではなく、外国語の種類によるものと、言語障害によるものとの二つを加えなくてはならないだろう。
 外国語の種類による不当な差別が起こるのは、どこの国の言葉かということがわかっている場合が多い。誰も彼も、一等国とか二等国というような、くだらない序列を知らず知らずのうちに受け入れて、不変のものとばかりにランキングしているのだ。
 その低ランクの国とされてしまった国の言葉を、それと聞き知って、その国出身であるというだけで蔑視して差別するということがあれば、それは不当な差別、つまり「許されないタイプの差別」だ。無関係のものを結びつけているということで、論理的にも破綻している行為だ。
 その国に生まれたくて生まれたわけでもなく、低ランクの国だからといって見下す人間的レベルの相当に低い人から蔑まれる筋合いもない。そうしたことが理解できないレベルの人間が犯しがちなことで、ほぼ救いようがない。
 「べらぼう」が外国人の場合であっても、江戸時代は外国に対する情報自体が少ないだけに、偏った印象を持っていた可能性が高く、それがどのような蔑視、あるいは尊敬につながっていくかは、微妙だ。また、一般人は多くの国々を知っているわけではないので、特に序列などによる偏見を持つほどまでには至っていなかっただろうと想像するが、どうだろう。そもそも、外国語を聞いてどの国の言葉かということを判別できない可能性のほうが高かったのではないだろうか。
 これだけ国際化が進んだ現代ではどうだろう。意味が分からないまでも、どの国の言葉か分かるということがある。言語によって、蔑視したり尊敬したりする人は、それだけで十分なのだ。
 十か国語の区別ができる人は少ないのではないか。英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、中国語、韓国語、これくらいならほぼ全員の人が区別できるだろう。ロシア語、スペイン語、ポルトガル語となると、半数ぐらいの人が怪しくなってくるかもしれない。ベトナム語とかスワヒリ語あたりになると、かなり怪しくなってくる。
 ランキングしてないつもりでも、何語を習いたいかということになったとき、それは表面化してくるだろう。
 「べらぼう」が日本人である場合はどうだろうか。江戸時代にも今の県民性のようなものが一般的に言われていた場合、お国訛りから判断して、「あいつはきっと〇〇の生まれだから、〇〇な奴に違いない。」などという決めつけがなされ、それが本人の不利益につながるようなものであれば、まさしく「許されないタイプの差別」ということになるだろう。
 県民性とまではいかないが、「東男に京女」などと実に大雑把な評価もあったようだから、藩ごとの人物評的なものもあったに違いない。特に各藩が集まる江戸では、そうした藩別の何らかのランキングがあったに違いないと思うのだ。
 しかし、どのようなランキングがあって、それが不当な差別につながろうとも、最終的には藩の規模や来歴などがものをいうから、開き直って何とも思わない藩もあったかもしれない。
 では、言語障害によるものはどうか。言語障害のなかでも、吃音は人によっては訓練で矯正できるものであるために、かえって厄介だ。
 無知なために理解のない人や、心の育ってない人からは、矯正する努力を惜しんでいるのかとか、知能に問題があるのかとか、ふざけているのかとか、不当な扱いを受けて、不当な差別、「許されないタイプの差別」を受ける可能性がある。
 人の気持ちが分からない人からは、「かわいそうね」という表情をされたりとか、「何が原因だったの」とか不躾に聞かれたりすることがあるかもしれない。それは心配してくれてのことなのだろうが、不当な差別というよりも、不当な扱いだ。本人が抱えている悩みを想像する能力が乏しいレベルの人間だから仕方ないのだが、その表情自体が暴言と同じ効果をもって傷つけるはずだ。
 蔑視にしても、想像力に欠けた扱いするにしても、その行為の前の表情がある。本人は、そうした顔をされた時点で、「許されないタイプの差別」を受けていると感じるはずだ。
 通常は実際には行為に至らず、表情で終了することが多いと思うが、表情というものが、生まれつきの顔つきや、受け取り方次第ということもあり、この問題を難しくしているように思う。

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心の断片471「オーチンジュウダ」

「オーチンジュウダ」

この星の大珍獣ヒトは
冷酷無比にとどまらぬ
他族を
絶滅寸前に追い込んでは
オー!
チンジュウダと喜ぶ変態
絶滅の寸止めを楽しんだ
ほろ苦いオマケのつもりか

根っから珍獣ヒトは
オーチンジュウダと
名前を変えるがよい
何よりずうずうしき
罪を罪とも思わぬ跳梁跋扈
それでも珍獣なのは
真性珍獣の証
もういい加減気持ち悪いから
別の星に移住してくれないか
ああ そういえばそうして
別の星から来たんだったか

なあ
オーチンジュウダよ
誤解覚悟の
Очень Judahじゃどうだ
それとも
おお、死んじゃった?が
おっちんじゃった?と訛り
さらに崩れて
オーチンジュウダに
なったかもしれんと
誤魔化しとくかあ

 宇宙船着陸に巻き込まれ
 無残に死んだ地球人の亡骸を
 宇宙人が見て
 「アレハナンダ?」と尋ねましたとさ
 近くにいた少年は泣いて
 「おっちんじゃった」と答えましたとさ
 「ナルハド、アレハ
 オーチンジュウダトイウモノカ!」と
 記録しましたとさ

おばかなエピソードつきだ
黙って胸に納めてくれい
大珍獣ヒトよ

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日々雑感393「他人のイメージ」

 たまに困ることがある。それは人の表情を見るときに、頭蓋骨の形も見ようとしてしまうことだ。そして、何よりその前に、眼球の全体像を見ようとしてしまうことだ。唯一の救いは、脳までを頭に思い描こうとするところまでには至っていないということだ。
 なぜ困るかというと、実際の表情から受けるイメージと、眼球の全体像のイメージと、頭蓋骨のイメージの三つのイメージが、同時に感じられてしまうからだ。それは混乱の原因にしかならない。
 その混乱を回避しようとして、人を見ないようになるという傾向が自分の中に生まる可能性があるとしよう。そうしたら、それは誠に困ったことだと言ってよいように思うのだ。顔のみならず、服装、仕草、話題や興味、言葉遣いまでを含めた、その人全体全体から受ける印象を素直に受け取ればよいだけなのに。
 八、九割は肉体内に埋没している眼球やら、肉に包まれて全く肉体内に埋没している頭蓋骨やら、そうした思わせぶりに隠されたものが、かえって妙なこだわりとなり、どうなっているのだろうかと、思ってしまうのは、何とも因果なことだと思う。
 眼球など、球体に決まっている。だが、少し見えているから気になるのだ。頭蓋骨などがどのようであるかは、分類できそうなので、興味を持つのは自分でもおかしくはないと思うのだが、だからといって実際に確認できるわけでもないので、何となく人柄と結びつけて、頭蓋骨占い的なものができないかと考えたりする。
 人が一目他人を見て感じるものというのは、案外と頭蓋骨に原因があるのではないかと思っている。一目見ただけなのに、なぜかその人に心惹かれるとか、馬が合わない感じするとか、表情に包み込まれた頭蓋骨に原因がありはしないかと思うのだ。勿論、その頭蓋骨そのものにではなく、見た者が瞬間的に頭に描いた相手の頭蓋骨のイメージにだ。
 後ろから見た頭の形とか、そんなものでさえも、心惹かれるか惹かれないかということがある。これもそうしたことの証拠の一つだろう。バックシャンなのかもしれないが、やはり後ろに回ると心惹かれるということは、誰しもがあることだろう。
 本当は三六〇度ぐるりと周りから見て、頭蓋骨のイメージをつくるのが正しいのだろうが、じろじろ見るわけにもいかない。何度か会う機会を持つうちに、三六〇度分の情報が貼り合わされるときがやってくる。
 そのときこそが本来の打ち解け合う日に違いない。当然、斜め上からとか、斜め下からとか、真上からとか、いろいろな角度から見る機会があれば、頭の中のイメージとしての頭蓋骨の形を割り出すのに申し分ない情報が得られるだろう。
 自分が受け入れてもよいタイプの頭蓋骨である確率の高さ。それは髪型などで情報が歪められるおそれもあるし、意図的に歪めさせることもできるのかもしれない。そうなると、髪型の好みの意味や、頭髪を失うことの意味や、どのような帽子を好むのかという趣味などについて、改めて考え直した方がよいのかもしれない。
 さて、常日頃は、顔の表情だけを見ているので、そこから気持ちを読み取ったり性格を読み取ったりするのに支障は無い。もちろん読み取るといっても、経験と照らし合わせているに過ぎないので、正しいとは限らないが、それは元よりどうでもよいことだ。読み取ったことの真偽は、結局は確率の問題でしかない。しかも最終的には生活上便宜的に自分なりの仮の了解をしておくという臨時措置的なものであるからだ。したがって人はつきあう必要があるということになる。勿論、最初から読み取りの真偽が問われる場合もあろうが、極めて稀だと思う。
 表情は、表情筋による顔面の変形だ。だから、ニュートラルな表情を見極めておかないと、変形のありようを目測し損ねることになる。怖い顔になっているのか、元々が怖い感じの顔なのかという問題だ。しかも、女性の場合には化粧効果による印象操作が加わるので、より正しくニュートラルな表情をイメージするのに手がかかる。化粧をするにも手がかかるが、読み取る方にも手がかかるというわけだ。上手な化粧だと、素顔を全く隠蔽してしまうだけでなく、新しいイメージも明確に打ち出してくるので厄介だ。
 もともと怖い顔なのに、かわいい化粧がしてあり、それが怖い表情を示すべき感情を持ったとき、どの程度の抑制をかけながら表情筋を変化させた結果なのか。それとも、もともとかわいい顔なのに、きつめの化粧がしてあり、それが怖い表情を示すべき感情を持ったとき、どの程度の抑制をかけながら表情筋を変化させた結果なのか。
 そうしたことを考えると、他にもいろいろな組み合わせが出てきて、迷いが出てしまう。表情を読み取っているのではなく、顔面の表面に塗られた化粧品の層を見させられていると感じ始めた日には、特に初対面の人でニュートラルな表情や素顔を見た経験がない場合など、表情から気持ちや心を読み取ることなど、不可能に近くなるわけで、誠に始末が悪い。
 すると、迷わないようにするため、心の窓である目を見ようとする。それも一筋縄ではいかない。特に女性の場合は目の周りの化粧がある。錯視によって、見る者の読み取りを十分に混乱させる。ここを入念に化粧する人が多いのは、目自体の表情を意図的につくることが、カラーコンタクトレンズや眼鏡の類を使わない限りは不可能だからだろう。だが、読み誤られるということによって、その努力が裏目にでないとも限らない。
 仮に、いろいろな色の、いろいろな模様の、いろいろな形のコンタクトを、予め準備しておき、時に応じて交換すれば、自分の感情や心を演出したり、広報したり、隠蔽したりすることの補助手段として有効にはたらくだろう。
 しかし、時に応じたこまめな交換の手間を惜しめば、目の固定的な装飾の意味しか持たなくなるので、気持ちや心の変化に応じて自動的に色や形を変えられるものが開発されない限り、目自体の表情に関することの話題には上らせる意味はないだろう。
 つまり、目をトリミングするまぶたの輪郭を変形させるという古典的な方法と、その実績を主な原因とする表情の痕跡である皺をどのように程度残したり、無くしたりするかという美容にかかわる方法と、目の周囲を化粧したり、眼鏡のレンズの形やフレームのデザインの工夫をしたりするという美容補助的な方法などによらない限り、今のところ目の表情を意図的に作ることはできないのだ。
 そうしたことすらも面倒だといって、逆にサングラスなどで、目とまぶたの輪郭と目の周囲の化粧と、その土台になる皺などを隠蔽するというという暴挙に出る人もいる。
 将来的には、帽子の庇の裏の色を変化させたり、庇を通過する光の色をコントロールしたりする工夫や、特に夕方以降などでは、顔面直接照明や顔面間接照明などの工夫をコンパクトな装着型の照明器具で実現し、感情の動きに連動させて顔の色合いを自動や手動によって調整するなど、喜怒哀楽のそれぞれの表情を美しく演出して広報したり、逆に、顔色の悪さや緊張や怯えどの表情を照明によって補正や隠蔽をしたり、あるいは、積極的なデザイン照明を施してファッション感覚で人間の新しい表情を模索したりと、様々なことができるようになるかもしれない。
 しかし、目自体となると、やはりこの時代の技術では、コンタクト装着という表情の変化を否定してしまうような、美的には自殺的な方法以外とることができない。どうしても固定的な装飾品と同じレベルに留まることになり、変形させられないのだ。
 強いていえば、瞳孔の開き具合とか、目の充血の度合いとか、目の振動とかによる、目自体の表情というものがないわけではない。
 瞳孔の開き具合は、瞳の色合いに若干の変化をもたらすものの、基本的には形の変化によるものだ。瞳の大きさが変わるわけではなく、瞳孔が閉まったり開いたりするということによる、瞳の色合いの変化という目立たないものなので、表情として捉えづらい。ただ、瞳孔が開いたときには、それを目の輝きとして捉えられはするだろう。しかし、それは本能的な反応に近く、細やかな感情や心の表情とは言い難いものだ。
 目の充血の度合いは、睡眠不足なのか、眼病なのか、感情の高ぶりなのか、瞬きを我慢していたのか、すぐには判定しにくい。それが、たとえ感情の高ぶりであっても、やはり高ぶりにすぎず、本能的な反応に近いものであって、やはり複雑な感情や心の表情とは言い難いものだ。
 そんなこんなで、迷いが生じ、結局はどうにもならないので、仕方なく、眼球の全体像を思い浮かべ、「どのようにまぶたでトリミングされていたとしても、結局は球体なんだよね。睨んでも、目をつり上げても、伏せても、閉じても、まぶたの裏には結局はあいつもの球体の目があるんだろ。」としらけてしまうのだ。こうした感覚に陥ることがある人はきっとたくさんいるに違いない
 すると、最後の頼りは皺というこになるが、この皺もなかなかあてにならない。皺ができにくい人もいれば、個人の歴史としての皺が、現在の表情としての皺の意味を凌駕する人もいる。
 こうなると、どんなに恐ろしい形相で迫ってこられても、それは単なる眼球が迫ってくるようにしか感じられなくなってしまうのだ。そういう諦めが生じるのだ。
 目の玉という全く間抜けな形をかろうじてまぶたで落っこちないようにしてもらっているかのような代物が二つ並んでやってくるのだから面白いといえば、面白い捉えだ。
 そして、その眼球は相手にだけあるのではなく、自分にも同じようなものがあり、したがって同等であるばかりか、合計四つの目の玉が急接近するのだから奇妙この上ない。
 そんなこんなで、少なくとも目は怖くなくなってしまうのだ。怖いものが減るということは、回避行動を選択しなくなる度合いが高くなるということなので、それはそれで不都合なことだとは思う。
 「目が怖い」という決まり文句も空しいばかりだ。恐ろしい目で睨まれようが、目が三角になろうが、目がつり上がろうが、空気に触れる肉体の中で、再生力も乏しく、傷つきやすく、極めて脆弱で残念な存在だ。それにも関わらず、情報収集という、生きていく上で非常に重要なはたらきを担っているという、非常にかわいそうな器官だ。同情するに余りある。「目が怖い」のではなく、「目はかわいそう」なのだ。
 このように、実際に怖いのは、眼球ではない。あれほど弱い存在はないからだ。そう思うと、「怖い」と「かわいそう」とが相殺されてしまい、人の目が怖いということはなくなった。
 本当に怖いのは、眼力だ。眼力といっても、それは視力のような受け身の力ではなく、外に与える力だ。この眼力は超能力に匹敵する力がある。しかし、その眼力も、作用するのは特定の人のみだ。眼力とはいっても、それは象徴に過ぎないからだ。その象徴たる所以を理解していない人には、一向に眼力が効かないから、これもかわいそうだ。自分の眼力はオールマイティーだと勘違いしやすいものだ。実は、対象限定で、条件反射を促すサインでしかない。ただ、眼力は有効対象者によって他に伝染させることができるので、そこが厄介なところかもしれない。
 そうはいっても、眼力など、そもそも印刷物で代替できるものでしかない。目のマークを貼るだけで、防犯効果があるくらいだ。眼力の神話にとらわれていると、悪くすると、他人の目が怖くなってしまう。自分だって同等の眼力を持ち得るにもかかわらずだ。
 形からしても、目玉のおやじの体がないやつだから、相当に間抜けな存在だ。では、目の急接近かといえば、それも四つの目の玉の大集合なので、滑稽なだけだ。
 実際に怖いのは、目の接近の度合いだ。それは拳等による攻撃の射程距離に入ったかどうかの判断材料の一つになる。急接近すれば、その勢いで射程距離内に入る可能性が高いと判断できるから、相撃ちと反撃の準備が必要だ。相撃ちが間に合わねば、直ちに反撃する心構えだけしておけばよい。その準備やら、心構えがないときには「怖い」という感情が生まれてしまう。
 急接近してきた場合は、相手も距離を目測しての急接近だから、その目測を誤らせるために、こちらも同様に急接近するしかない。これによって相手が驚かないことはない。こちらは相手の急接近は計算済みなので慌てないが、相手はこちらの急接近は計算外だからだ。慌てたところに全力で「ごめんなさい」と言いながら、頭を下げればよい。
 この頭を下げるのは急接近しながらだ。だから、前傾する分だけ直前でさらに加速する結果となる。通常の礼のように15度ぐらい前傾すれば、ちょうど相手の顔面中央に、こちらの頭蓋骨の最も堅いと言われる額が届く。直前の前傾は、実際の加速よりも大きな加速として感じられるものだ。だから、慌てることになる。慌てたときにはもう激突しているのだが。
 当たれば、ヘッドバット、頭突きとなり、相手はほぼ昏倒する。鼻血は100%出て血まみれになる。当然、目からは無数の星が出て、何秒か戦闘不能になる。大変なことだ。もしかすると脳震盪を起こしているかもしれない。
 頭をあまり下げると歯に当たって怪我をするので、そこだけ注意が必要だ。当たらなくても脅威を与える。こちらは謝って頭を下げ、誤って当たってしまった形にしているので、非はない。後は間髪入れずに逃走する。
 場合によっては、インパクトのあったとき、思わず上がった手首を決めて間髪入れずに紅葉返しをかけ、引き倒しながら、肘などによる目に対するとどめの打撃を加えて逃走するか、相手との距離によっては、両手による打撃系の紅葉返しを打ってから逃走する。専守防衛と逃走というみっともないやり方がベストだろう。
 しかし、確実に逃走する手立てがない場合は、こちらも急接近したり、ヘッドバットなど繰り出したりしないことだ。ひたすら謝ったのち、何年後でもよいから忘れた頃に誰かが10倍返しする環境をつくればよい。手を汚すのは下の下だ。そんなことには関わるのは止した方がよい。できるだけ穏便に事は済ませるべきだ。
 

 

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変な疑問280「< べらぼう >の語源の珍説出せるか」⑳

 こうしてみると、僕たち人間は滑稽で面白い動物だ。もしかすると、この蔑視欲求の強さや、蔑視対象の多さなど、蔑視の度合いの様相だけでも、その人となりの主要な部分をある程度は測定できて、イメージできるかもしれない。そう考えると、生き物である僕たち、そして人間である僕たちにとっての蔑視、その意味からなかなか興味深いことが分かっくるような感じがする。勿論、言葉による蔑視にかかわらずだ。
 具体的には、どのような言葉が、どのような言葉の使用者から蔑視され、その蔑視された言葉を操る人までもが蔑視されていき、「許されないタイプの差別」が現実のものとなってしまうのだろうか。
 たとえば、国際社会の中で問題視されている国の言葉や、とある国の属国レベルとなっている国の言葉や、所謂「未開」とされている国の言葉や、とある言語の使い手が聞いた場合には、かなり特別な特徴、特に滑稽な感じを与えるとされている言語や、とある理由で敵愾心を抱いている国の人々が使っている言葉などに対しては、どういうわけか耳聡く反応し、何を目的としてだろうか、蔑視の気持ちが湧き起こり、それに伴って「許されないタイプの差別」が行われてしまう可能性が高そうだ。
 さらに、これらに加えて、標準語と方言との関係もある。個人的には、標準語自体が標準語たらんとして無理をしているように感じる。その無理の跡を癒やしてほしいかのように、関西弁だの、関西弁もどきだのが、いろいろな形で全国に広がる様子が見受けられる。また、少し方向性は異なるが、テレビドラマやコマーシャルなどで使用されたために、とある方言の特定の単語や言い方が部分的に、半強制的に流布され、中には流行するものも出るという現象も見受けられる。
 そのような状況で、自分は標準語を話しているつもりになっている人が、とある方言のものの言い方などについての断片的な知識を得たときなどは、どういうわけであろうか、俄にその方言やその使用者に奇妙な好奇心をもって注目し始め、同様の方言や似た方言を耳にしたときに、何かを発見したかのように大喜びし、「許されないタイプの差別」を行う可能性がある。「方言に対する標準語の優位」という先入観に支配されているためだろう。
 標準語は単なるスタンダードで、長い歴史と地に根を張った文化に裏打ちされている地域語である方言とは、本来比較しにくいものだ。そして、人工的ではあるが、ある意味では理想的な存在としての運命を背負わされ、土地土地の方言よりもランクが上だという見方もできないわけではない。
 しかし、それはランクが上なのではなく、種類が別なだけだ。その種類にいろいろな差異が生じて、よりよい標準語がつくられたら、その中でのランキングは可能だろう。
 何でも比べてランクづけをしたがる人がいる。その手にかかると、「父親と母親とどちらが偉いか」とか「どの民族が優秀か」などという、比べられないものまでもランキングし始める。
 これは「金と木とどちらが価値があるか」という比べ方と同じだ。グラムあたりの単価で比べれた場合には、「金」の価値が高いが、家を作る場合には「木」の価値が高い。燃やして暖をとるには「木」の価値が高い。
 「民族」に至っては、地球上最も人口の多い民族が最も優秀だとも言えるし、最も人口が少ない民族なのに存続しているという意味では、少数民族が最も優秀だとも言える。単に平均年齢が最も高い民族が最も優秀な民族なのかもしれないし、平均年齢に幸福指数をかけたものの、その人口分の総和が最も大きい民族が、最も優秀な民族なのかもしれない。
 それらはどのようにランキングされようとも、実は問題ではない。要はランクづけする者の目的と、ランキングするという行為自体の満足度が、本当は問題にされなくてはならない。
 それは、ランクづけする者は、ランクづけされる者にとって超越した存在たり得るからだ。しかも、ランク争いとは無関係の安全地帯で、ほぼ無条件に安易に効率よく、しかもランキングを発表するごとに、権威に類似したものまでを、棚ぼた式に獲得できるからだ。
 「べらぼう」たち「見世物キャラクター」が、嫌悪の対象となったり、皇紀の対象となったり、尊敬の対象となったりするのも、一人一人が自分や普通の人々と比べてのことだ。どうしても人は何かを認識するとき、比べて差異を見つける作業を必要とする。「見世物小屋」はそれが容易で、そして典型的だ。どう認識しても、ランクづけの不安はない。微妙なものは無く、すっきりしているからだ。結果が明確であり、しかもその結果が説明されてもいるのだ。
 日常生活で、要不要を問わずランキングし続けて人は生きていると言ってよいように思う。そのランキングすることの責任と疲れ、ランキングされることの不安と、ランキングすることの不安。そうしたものから一時解放される場が、「見世物小屋」だといっては言い過ぎだろうか。
 言葉のように、本来ならば格付けしにくいもの、もしくは格付けする意味のないものに対しての格付けについて、敢えてそのランキング結果を出そうとする場合は、本質的なものを取り上げての格付けを根拠をもって評価するのではなく、単なる印象による格付けにならざるを得ない。格付けとは名ばかりのランキングになってしまうということだ。もし、アンケートによる投票数結果によるランキングだとしても、その結果から記事を起こしにくいものであれば、逆に記事にあったランキングを発表するとも限らないだろう。
 そのような珍妙な状況を作り出す目的が何であるかということを、ランキング結果とセットで問題にすべきだろうと思う。
 さて、その印象による格付けとは何か。標準語と方言の場合は、中央発のものと、地方発のものというところからもたらされる印象による格付けだろう。また、発音そのものや、言い回しとともにある独特のリズムなど、「音」から受ける印象の違いを根拠とした格付けだろう。
 もし、これらによって「許されないタイプの差別」がなされるならば、言いがかりにもほどがあるというものだろう。
 恐らくは、それらの印象に附随してくる別の印象を根拠としているのだろうと思う。想像するに、その言葉の使用者の印象だろう。もし、服装、仕草、表情、そうしたものの中から見出された典型的な共通点が、一つの評価としてある程度の人数の人々に共有されていれば、それが一つの印象として形をなすからだ。
 さて、標準語は、依って立つべき柱となる方言はあったにしろ、標準的でなければならないゆえに、結果としてバリエーションとしての語彙が比較的貧弱な傾向になると言えるだろう。それ故であろうか、表現が単純で率直なものとなりやすいように感じる。勿論、それは悪いことではない。良いところもたくさんある。
 しかし、相手によっては、標準語のそれが冷たさとして感じられる場合もある。標準語が、それが言葉の持つ大事な機能の一つである「相手とのつながりが温かいものであるということを感じさせること」において、不十分なものであると評価されてしまうことがあるということは、無視できないことだろう。
 それは、「長い歴史の中で育まれてきているだけに、細やかな心の表現が可能な」所謂「方言」と呼ばれている地方の土地土地の言葉との比較においてだ。
 本当は、そうではないのだが、それぞれの方言に慣れ親しんで育ってきた人にとっては、標準語に対して、そのように感じるのだ。
 しかし、この逆の場合も同じようにあるだろう。それは、標準語に近い言葉を日常的に話していると思っている人々や、各地方の方言の使用者が、その地方以外の方言を聞いたとき、細やかな心の表現どころか、話の筋すらつかめないという状況が生まれかねないことだ。言葉の持つ大事な機能の一つである「相手に伝えたい物事を正確に伝えること」において、方言は他の方言に対して不十分なものであると評価されてしまうこともあるというわけだ。
 だから、言葉にはランクも何もなく、実のところは、相対的なお互い様の関係でしかないように思われる。そうであるにもかかわらず、標準語に近い言葉を話しているとなぜか自負している人には、方言を話す人を見下す傾向がときとしてみられる。これは、見ていて滑稽というよりも、なぜであろうと興味深く感じる。
 こうしたことは、標準語に比べて、方言は美しさに欠ける嫌いがあるという感想についても同じようなことが言えるだろう。元来そのような感想は、持ちにくいものであるはずだ。耳慣れているかどうかの問題に過ぎないからだ。
 どちらが美しいかと比べるのも困難だ。言葉の何が美しいかは、黄金比率に相当するような要素が言語にもあって、そうしたものが発揮する美しさがあるとすれば、そのようなものは別としてだが、あくまでも絶対的なものはなく、あるのは個人的な感想にしか過ぎない。
 しかも、その言葉のどこに注目するかも人によって違うだろうと思う。また、同じところに注目していても、その評価については、やはり十人十色のはずだと思う。
 ただ、一つ言えるのは、標準語の場合には、標準語として方言の片鱗が見える度合いが少なければ少ないほど、美しいと評価されやすく、方言は、その言葉を育んだ風土の中にあって、その風土の雰囲気を醸し出しているものであればあるほど、美しいと評価されやすい、ということだ。
 標準語は、日本という国の中で共通に使えるという意味での標準性を獲得するために、さまざまなものを犠牲にする必要があったに違いない。勿論、具体的に何をどれだけ犠牲にしたかということは確かではないので、今後、想像していくしかないのだが。
 一方、方言は、その土地土地の歴史の中で練り上げられてきた完成度の高い言葉として見るのが、やはり基本的な見方だろうと思う。長い長い歴史の中でバリエーションとしての語彙が豊富になっていき、それ故に表現が、場や人情に沿った繊細なものとなっていきやすく、相手にも温かさを感じさせたり、心情的豊かさを感じさせたりしているように思う。
 日本語が日本に広がりながら、狭い土地土地に細かく分断化され、まるでそれぞれ生え抜きの日本語が複数乱立したかのごとく、それぞれ美しくガラパゴス化したということなのだろう。
 しかし、日本が一つの国となり、交通網、通信網がしっかりしてくると、どうしても標準語が必要だから、方言とのバイリンガルが育っていく。バイで日本全国通用するのだからありがたい。インドや中国のような多言語国家では、国語の授業などはどのようにしているのだろう。
 ところで、「べらぼう」が、特別な存在であるがゆえに大人気であったということならば、それは海外から来たものかもしれない。海外の人、海外の人によって調教された動物、というような可能性もゼロではないだろう。

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