恐怖シリーズ344「旭日旗モチーフ?」⑬

 ところで、かの国において戦後以来の「反日教育」を受けながらも、そして愛国心を持ちながらも、客観的に物事を見て、総合的に判断できる知識階級や、そもそも「反日教育」を受けていない高齢者は、現状の異様な二国間の関係をどのように見ているのだろうか。
 「政治的に意図的に作り上げられた反日の姿勢や活動は、あまりに理不尽なものだ。」と理性的に判断することのできる人たちが、どの程度いて、どのようは社会的影響力を持っているのかということが問題だ。
 今回、かの国の勇気ある著作「反日種族主義」が、かの国にあって二か月で十万部を超える販売数を誇り、ベストセラーとなっているようだ。これまで沈黙を余儀なくされているどころか、意に反して「反日」の言動を取らざるを得なかった、かの国の人々が、「我が意を得たり」と読み広めていったからだろう。そして、並みの洞察力があれば、何となくおかしいぞと思っていた人々も、目から鱗が落ちる思いで読み深め、記載された事柄に強く共感したからだろう。
 勿論、歴史の真実など誰も直接に確認することができない。そこには解釈があるだけだ。解釈する人の数だけ歴史があると言えば言いすぎだが、残念ながら解釈というものは意図的にどのようにでも加工できるものだ。
 「理屈と膏薬はどこへでもつく」とはよく言ったもので、どの国でも歴史の中で行われてきている。加工しようという意識がなくとも、歴史というものは勝利者の手にあるものだから、一方の側の見方によって解釈されたものとなる。他方の側から見れば、最初から加工されているようなものに見える。そこへ歴史学者が他方の側の解釈をして添えるということはある。
 正史は正史だが、他方の側の解釈が添えられていないものは、正史の正史としての度合いが低く、信用できそうにない。 
 しかし、「反日種族主義」という著作を、目から鱗が劣る思いで読み進めた人たちがいる一方で、逆に「親日」を叩く材料を得るために読み進めた人たちもかなりいるのではないだろうか。
 想像に次ぐ想像を重ねているうちに、最初の想像がいつの間にか動かざる真実にすり替わってしまって、そこからまた更なる想像に突き進んでいくための土台になっていくという、二重の現実逃避。かの国には、そうした傾向が強くあるように感じるから、このように自分も想像してしまう。想像というのは、そうしてみると悲しいものだ。
 そうした人々も両方合わせなければ、十一万部という販売部数を短期間で叩き出すことはできないという感じがするが、どうだろう。
 もし、そうでないとすれば、あの販売部数の伸びは、本音を言えぬ社会の深き闇が相当のものであることを示していることになろう。その後の販売部数の報道がなされないことに対しても、また別の闇を感じてしまうのだが、そう思うのは僕だけではないだろう。
 現代は情報化時代だ。当然のことながら情報は操作可能だ。しかし、それを情報を総合的に分析すると、理屈に合わないことがあぶり出されてくる。あぶりだされて都合が悪くなると、新たに嘘を追加するか、解釈し直すかのどちらかだろう。だが、そうした力が不足しているか、解釈の種が尽きれば、単に隠蔽するということになるだろう。もちろん、隠蔽したこと自体を隠蔽する方法が悲しい技術として発達し、そうしたこと自体を受け入れる精神構造も、悲しい性として身についていく。
 こうしたことは、どこの国でもあることだが、かの国ではその傾向が強く出ているように感じる。この傾向が、個人的なものとしてではなく、社会的なものとして歴史的な流れをもってくるようになったのは、政治の強行的な「反日路線」の成果だろう。日常的な発想や文化的なレベルにまで浸透して一般化してしまったために、強行的な「反日路線」自体に何の疑いもなく、ごく当然のこととして行われていくのだ。当然、そこには反省もなく、ためらいもなく、羞恥心もわくことはない。その路線には絶対正義としての「反日」がそこには掲げられていたからだ。
 次の段階は、何の看板も掲げられていないのに、性根としての「反日」が根付いてはたらく状態の到来だ。一時的な意図的なものから、世代交代を経て文化へと定着した姿だ。発想の根底にあるゆえに、そこから逃れられはしない。また、苦しいときには自然としがみつくものとなっていく。
 そうした己の精神構造に関わる重要なものが、己に内在するものにではなく、日本という己の外にあるものに依拠しているということが、そもそも不健全の始まりだろう。かの国の哲学者たちは、いったいどのような警鐘を社会に対して鳴らしていたのだろうか。
 さて、これまで、かの国で難なく生きるには、正直な気持ちを敢えて打ち消して黙っているか、単純に「反日」に同調してしまうか、二つに一つを選ばなくてはならなかったと想像される。そこに葛藤を感じるタイプの精神レベルにある人々については、そうした葛藤が、これからはなくなっていくだろうから、そこに関しては楽になっていくだろう。
 学校の教科書を書き換えてまでして徹底させる必要のあった「反日教育」が、人々に長年の影響を与え続けてきた。それは文化レベルにまで達したため、正常化させるには、「反日教育」にかけてきた年月がかかるに違いないからだ。つまり、当分の間、「反日」に関しての葛藤すら起きないだろうと想像される。
 つまり、世代をまたがる「反日教育」(平日の学校教育はもちろんのこと、マスコミによる年中無休の国民教育)によって、「人工的な反日の人心」が一般化され、さらに定着していくということだ。その中で、さまざまな心情を持った人々が生活していくということになるのだと思う。
 社会的に強い批判を浴びたり、家族にも大きな影響があったりするはずの、一見「親日」と評価されてしまいそうな、「反日種族主義」のような著作を敢えて出版しようとする出版社も相当な覚悟だったろう。それは、当然のことながら商売ではあるけれども、もともとは愛国心ゆえだろう。
 そして著作に関わった人々たるや、学者としての誇りを半ば命をかけてでも守らざるを得なかったという、あり得ない国家の状況があったとはいえ、その愛国心の強さや正義感、学者魂は相当のものだと、本当に頭が下がる思いがする。人の尻馬に乗る者たちの振りかざすインチキ愛国心と比較しては罰が当たるが、誠に雲泥の差だ。
 そのインチキ愛国心で「旭日旗」を否定するのか、真の愛国心で「旭日旗」を否定するのかは、同じ否定されるにしても、重さがまるで違うのは、言うまでもない。

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恐怖シリーズ343「旭日旗モチーフ?」⑫

 それにしても、かの国においては、ここ十数年来の相次ぐ教科書の「反日改訂」によって架空の歴史を刻み込まれてきた若い人やその親たちの年代は、「三つ子の魂百まで」のたとえもあるように、かの国の歴史学者たちによる長年の研究成果である著作「反日種族主義」の記述内容を正確に読み取ったとしても、恐らくは心情的には了解することができないであろう。なんともかの国の政府は罪なことをしたものだ。教育を政治的に利用し、国民の知識や感情までコントロールするという目論見は、そこに「誠」がなければ、真の愛国心も育てられないというよい例だ。
 それに対して、この国は一九六五年以来「かの国と仲良くしよう、お隣の国なのだから」と再スタートを決意して誠意を尽くしてきた。しかし、それが気に入らないのだろう。仲良くしてしまうと、お金をせびり取ったり、脅し取ったりすることができなくなるからだ。
 爺さん婆さんの言っていたことと、親や先生たちが言っていることとの間に生じる矛盾を、鋭く見抜いている「かの国の若い世代」は、ネット情報や、かの国の勇気ある研究者たちからの情報を手にすることによって、ますます確信を持って覚醒し始める時期となってきたようだ。
 世代ごとで保有している情報や知識、その間にあるギャップが大きければ大きいほど、つまり「反日教育」の程度が甚だしければ甚だしいほど、「三つ子の魂百まで」作戦である「反日教育」がとなえる嘘の内容は、より賢く情報源の多い若い世代の目に、奇異なものとして映ることになるのだ。それを計算に入れず、「反日教育」を徹底させることだけを単純に考えているのだから、実にお粗末な戦略だ。
 どれほど巧妙に「反日教育」を徹底させても、通常の判断能力と並みの教養を持っていれば暴くことができる程度のものだ。感情が邪魔をして、もしそれができないのであれば、国民の程度が疑われてしまうだろう。
 嘘からは嘘の結論しか生まれない。その嘘の結論を好む人々が目標としていることを洞察する力が、かの国の人々にあるかどうかが試されている重要な時期にあることを、岡目八目だからだろう、この国の人々は心配しているのだ。そうした他国の国民に対する心配があるから、かの国でこの国の商品に対する不買運動が長期化していても、この国では、かの国の商品に対する表立った不買運動など起こらないのだ。
 しかし、かの国の「反日」の根拠となるものの嘘を日本が暴くと、感情的になって反発する材料とするだけなのは、これまでの経験から火を見るよりも明らかだ。
 幸いなことに、かの国は「反日活動」を国際社会で広めようとしている。実は、この活動は国際社会の一員である各国の学者たちを小馬鹿にする活動となっている。かの国は、各国の歴史学者や政治学者たちが、「反日活動」自体を研究対象にするということを怠っていると解釈できるからだ。
 さらに、かの国が、自分たちが展開する「反日活動」によって伝達される情報を、各国の歴史学者や政治学者たちが鵜呑みにすると見くびっていると解釈できるからだ。つまり、自国以外の学者たちは三流学者ばかりだと見くびった、低い評価しかしていないということになるからだ。
 それに反感を感じない学者はいないだろう。その方面からも、かの国の「反日」がご都合主義による嘘に塗れたものであることが論証され、反論がなされるようになるだろう。現政権による「反日政策」が現在進行形だから、まだ分析を続けている段階なのだが、現政権が崩壊して次の段階に入ったときに総括が始まるだろう。
 さて、かの国の憂国の愛国者である歴史学者たちは「反日種族主義」を著したのみならず、「反日デモ」に対するデモを始めたらしい。このデモンストレーションは、かの国には勿論のこと、日本にとっても大きな意味を持っている。
 だが、これを心情的経済的に支援しようと思う日本人はたくさんいても、残念なことに行動を起こすことができない。簡単な理屈だが、そんなことをすれば、かの国の損得抜きの命がけの歴史学者たちが、自国での立場をますます無くすどころか、その家族にまで及ぶであろう被害が甚だしくなるだろうと容易に想像できるからだ。信じられないことだが、かの国はそういうお国柄なのだから仕方あるまい。
 孤立無援の存在になることを当然覚悟しての反「反日デモ」を、かの国において、かの国の研究者が敢行する。つくづく学者というものは偉いものだと思う。政権に目をつけられ、自分の立場が悪くなり、家族に実害が及ぶことを承知で起こす行動というものは、「金も要らない、地位も要らない、命も要らない」という、批判される側としては実に始末の悪いものだ。彼らと彼らの家族たちの人権が侵されることがないように祈るばかりだ。
 勿論、かの国の大統領は人権派弁護士として慣らしたお人だと聞くから、厳しい立場に置かれるであろう彼らの人権を政権の名誉にかけても守るであろう。それができなければ、「仮面が剥がれ、正体を現した」と国民から蔑まれるからだ。
 「金がほしい、社会的に注目されたい、少しでも長く生きたい」という性根の対極にあるのが、お抱え学者とは一線を画するところの、真理を追究する、これら真の学者たちだと尊敬する。当然のことながら、その真の学者にしても「親日」であるとは限らないだろう。
 実は、学者にとっては「親日」も「反日」もないと思う。だが、嘘は嘘として許せないのだ。とにかく、反日の立場にある学者とか、親日の立場にある学者とか、どちらも嘘くさいことには変わりない。
 「反日」を否定する人は「親日」であるという理屈が論理的に間違っていることは、幼い子供でも理解できるだろう。しかし結果として、「反日」か「親日」か、という二価値論的な偏狭な判断だけが選択肢として頭に浮かんでしまうように訓練されてきた人々の人口が増えているのが、かの国の実情なのだろうか。その惨状を「反日デモ」の中に目の当たりにし、損得勘定をしない真の歴史学者たちは、憂国の愛国者として立ち上がるしかなかったのだろう。
 彼らは「旭日旗」について「反日種族主義」の中でどのように著述しているのだろうか。それにしても、学者が真の学者たろうとするとき、孤立無援の存在になることを厭わないという覚悟をしなければならないものなのか。それは少なくとも正常な世の中ではないと言わざるを得ない。

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恐怖シリーズ342「旭日旗モチーフ?」⑪

 単なる哨戒機に過ぎない「日本の自衛隊」の航空機に対する、「韓国軍」による不当なレーダー照射事件は、「現在の日本の自衛隊」から連想した「過去の日本の軍隊」、つまり韓国人も含めた旧日本軍に対する気持ちを、なぜか「現在の日本の自衛隊」に対して直接的具体的で危険極まりない行動として表現したものだろうと思う。
 しかし、このレーダー照射は一個人の感情に基づくものではあり得ず、「韓国軍」としての活動中の軍事行為と見てよいだろう。この解釈は間違っているだろうか。
 確かに「現在の日本の自衛隊」は、専ら自国を防衛する仕様の武器ではあるものの、法的制限は別として、とにかく制服を着て武器を持っており、組織のスタイルも当然のことながら他国の軍隊と酷似していることは間違いない。だから、日本の後期高齢者に当たる年齢の人々なら、旧日本軍を彷彿とさせるものではあるだろう。
 ただし、その旧日本軍には、韓国の若い男性の積極的参加が多くあったと聞く。最近の韓国の主だった歴史研究者たちも、そのようであったと研究結果を著作物で発表した。発禁だと叫ぶ人がいる一方で、多くの韓国人が購読しているようだ。
 しかし、いくら反日教育が学校教育の場でも徹底され、歴史的事実がねじ曲げられて伝えられているとは言え、そうした「現在の日本の自衛隊」からの連想で、旧日本軍を思い出し(そんな年寄りが乗船しているとは思われないが)、目の前の「現在の日本の自衛隊」の、しかも単なる哨戒機に対して、撃墜の強い意志を示すレーダー照射を行うという狂気の沙汰と言ってよい行動に走ってしまうだろうか。もっと言えば、そんな行動を取ってしまう人物が軍隊で働いていてよいかということだ。
 まさか指令を出した者がいるとは思われない。仮にそうであれば、余程の愚か者であるか、余程の策略家であるか、そのどちらでしかないと思う。さて、どちらなのだろうか。作戦行動中なのだから、一個人の判断でできるはずもない行動のはずだ。
 しかし、レーダー照射も作戦の中に組み込まれたものであったとすれば、軍隊なのだから、個人の判断とは別に、そのような危険な行動も強要されることはあるだろうと思う。納得はできないが、そのように考えるしか理解のしようがない。
 前者であれば、日本の哨戒機に対する「レーダー照射」は、国を滅ぼす行為の発端となり得る(実際にそうなりつつある)ので、愛国心の欠如した行為と言えよう。しかも、公務執行中(とは言え、実際には北朝鮮とのやりとりが疑われている活動)に行った、極めて不適切、かつ危険な行為として認定さざるを得ない。残念ながら、世界史の汚点として残る事件であることは間違いないだろう。つまり、余程の愚か者の指令によるものだったということになってしまう。
 後者であれば、その策略の目的自体が、国際社会で厳しく問われるであろう。勿論、レーダー照射いう危険極まりない手段も、国際社会で厳しく問われるに違いない。かの国は、その問いにどのように答えるのだろうか。例によって、日本のせいにしながら、隠蔽作業と論点ずらしで誤魔化すしかないだろう。つまり、余程の策略家でなければできない話の展開が先に待っていることになる。
 こうした理解しがたい活動の裏側には、個人や諸団体は別として、かの国としては外交上これまで本心を直接表明せずに婉曲的に日本を否定してきたという鬱屈した歴史があると想像する。
 しかし、これもまた想像なのだが、何らかの原因があり、何らかのことがきっかけとなって、その人間的な抑制としての「たが」が外れたという感じがするのだ。
 その結果、これまで「日章旗」を非難する代替行為として「旭日旗」を非難するという婉曲的な方法で日本を否定してきた手法に代表されるような「反日」活動に加え、直接的な軍事的な威嚇行動による「反日」行動もなされるようになったというわけだ。見聞きする情報からすると、どうしてもこのような受け取りになってしまう。
 「反日教育」によるものであるとはいえ、それが本心であることに変わりはない。その本心は、日本など消滅してしまえという気持ちなのだろうと想像される。
 かれこれ四十年以上前、小松左京氏の「日本沈没」が発表されたときには、確か「本当に日本が沈没してくれればよい。」という声が、かの国から多く上がったという報道が日本の報道機関からなされたのを記憶している。また同「日本沈没」が映画化されたときにも、特に十数年前の映画化のときには、そうした声が一層大きく聞こえてきたと日本では報道されたと記憶している。
 その報道が捏造であるかどうか、あるいは例によって極端な少数発言を一般化して国の傾向として扇情的に報道したものであるかどうかは別として、やはり恐らく本心なのだろうと思う。
 なぜならば、共通の幻想は教育によって実現し、人工の本心も簡単に生み出せるからだ。たとえそうした政治的な都合で人工的意図的に生み出されたものであっても、本人個人にとっては、やはりそれが自身の本心であることには変わりない。教育というのは実に恐ろしいものだと思う。
 少なくとも僕の周囲では、かの国に対してほとんどの人々は何でもなく思っていたのに、「日本沈没」の映画に対する、かの国の人々のコメントを見聞きすることがきっかけとなり、かの国に対する見方が「なんて常識のない国なのか」と悪い方向に向かっていった記憶がある。
 対話する環境にあれば、思ったことを口にしても対話によって修正されていくから、歯に衣着せぬもの言いでも、人格が疑われることはあったとしても、大きな社会問題に至ることはないだろう。
 ところが、対話する環境がないのにもかかわらず、言いたいことを放言すれば、必ず悪い方向に向かう種を蒔くことになってしまう。それが今となって芽を吹き続けているように強く感じる。普通なら相手に言わないことを平気で口にしてきたり、文字にしたりするのだから、いつか悶着が起こることになるのは当然だろう。
 近くは阪神淡路大地震、また東日本大震災の時も、やはり同じように日本の被害を喜ぶ声がかの国から聞こえてくる。これはいったいどういうことなのだろうか。
 そうした発言は、通常の精神状態にあるならば、人としてはあり得ないことだ。どの国でも、自らを人としてあり得ないことを行うと宣伝するような言動は、あまりにも恥ずかしいから思っていてもしないものなのだが、どうもかの国ではそのようではないらしい。
 もっとも、無理やりに善意に解釈すれば、個人的には人間のレベルが様々なので、そうした「人としてどうかと思われる発言」をなす人も、世界は広いゆえに、稀にはいる可能性はあるだろうと広い心で構えてみてもよい。しかし、それが国レベルの声となると話は別だ。幻想に基づくものではあっても、その声が国レベルで同じ方向性を持ってきた途端に実体が伴ってくるからだ。
 現在と未来を大事にせず、歪められた過去に基づく「反日」の風潮をつくりあげる行動は、やがて国際社会からのマイナスの評価を浴びることになるのだが、そうしたことは考えずに目先どころか、それすらも見失って、長い年月の間、扇動されるがまま、無批判に行動に移ってしまうようだ。そこに一筋の光明をもたらすことになったのが、「反日種族主義」という韓国の著作だ。
 ただ、朝鮮半島に住む人々が、太平洋戦争を日本兵として戦った記憶を消したいという気持ちからの「反日」ならば、納得はできなくとも理解はできる。嵌められたとは言え、日本は敗戦国だ。だから、かの国に「同じ側にいた自分たちは大損をした」と考えるがいても、必要に迫られて打って出た日本とは異なり、それは自然なことかもしれない。
 しかも、その後の朝鮮戦争で、南北合わせて五百万人以上の死亡者を出した一方で、先の大戦で三百万以上の死亡者を出しているとはいえ、日本は所謂「特需」で得をしたということがあるので、その思いは尚のこと強いだろう。
 だからといって、日本を未来永劫恨み続けるというのでは、持ちつ持たれつの国際社会で生きていくには土台無理がある。しかし、そうした無理なものを精神の柱としなければ、皆で共有して持たねばならない自国のイメージという幻想を、支えきれないのだろう。
 ただ、そのために「敗戦国の日本と同じ扱いを受けたくはない。国際社会で認められたい。だから、反日活動が必要だ。」というおかしな思考回路に自らを封じ込めてしまい、身動きできない地獄のような道を自ら作り上げてしまったかのように見える。
 調べねばわからないが、もしそうだと仮定すれば、その思考回路はどの段階でどのようにして形成されたものなのだろうかという疑問を持たざるを得ない。
 親の手にあって保育されていた頃に、常識としてもたらされたものだろうか。学校教育の中で、組織的に注入されたものだろうか。はたまた地域社会の空気の中でだろうか。それともマスメディアのはたらきでだろうか。それら全部同時にだろうか。はてさて。
 つまるところ、韓国は戦勝国側の国になりたいのだろう。そのためには、「反日」を標榜するしかないということなのだろう。「反日」は、かの国の人々にとっては生きる知恵というわけだ。だが、それは実に悲しい知恵だ。
 ここまでくると、誰か大思想家が現れて、高いレベルの意識を持てる環境をつくっていかない限りは、国家的な国家にはならないだろう。二世代以上にわたってなされた「反日教育」は、絶対的な感覚としてとまではいかなくても、少なくとも伝統文化のようなものとして確実に根付いたはずだからだ。
 したがって、客観的にはいざ知らず、もう「反日病」ではなく、「反日文化」とでも表現すべきものの如くに成り果てたもので、かの国の通常の人にとっての「反日」は、自明の理として認識されていると見て、ほぼ間違いないだろう。だから、人命救助とか、災害時の救援とか、貿易の一部など、極めて限定的なつきあいにとどめておくしかないだろう。
 ただ、そのような大思想家が出現したとしても、その思想が「親日」ではなくても、「親日」という決まり文句によって、早い時期に潰されてしまうことだろう。仮に「親日」であったからといって、そのことによって潰されるということが、国としては不健康極まりない状態にあると言ってよいだろう。
 日本のことを敵だと思いたければ、思ってもらっても構わない。現実的にはそうではないからだ。ただ、国際社会では敵も味方もない。持ちつ持たれつだ。しかし、今のかの国は、持ちつ持たれつの国際的関係を無視しているどころか、壊している。日本のことをどう思うおうが教育次第なのだから仕方がないが、実質的に関係を壊すのは許されないことだ。
 とにもかくにも、文化交流については、過去においては日本文化や情報の流入を拒否してきた歴史を持っている国だ。現在でも日本の文化や情報は限定的な取り扱いに見える。日本の方策や対応や態度は、正しく伝わっていないということが、この一、二年で次第にわかってきた。
 どの国に対しても同じスタンスで向き合うというのは、かえって不自然なことだ。日本に対するかの国の態度の歴史に応じた構えをもって、向き合うことが、これからは特に必要だと思う。
 さて、国際社会でのかの国は、当然のことながら戦勝国とは見做されていない。だから、敗戦国である日本に因縁をつけ続けるということによってしか、戦勝国寄りに立つことができないと認識しているのだろう。それが、「反日」の気分的な出発点の一つとしてあるのだろうとは想像する。ただし、そうした「反日」の努力も、惜しいことに常識ある国際社会からはみっともないことだと思われている。
 それは努力すればするほどに、そのように思われてしまうというパターンだ。国同士の関係も、個人同士の関係にはたらく力学と非常に似ているものがはたらいているように思う。
 そうした中での「旭日旗」デザイン探しとその糾弾は、かの国の人々にとっては、「親日」隠し、あるいは愛国者アピールでのポイントアップ、もしくは議論する能力のなさによる自己肯定感の低下を、天下御免(と思い込んでいる)の「旭日旗」デザイン探しと糾弾という「お決まり行動」をすることによって高めることなのかもしれない。実に悲しくも恐ろしいことではないか。

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恐怖シリーズ341「旭日旗モチーフ?」⑩

 そもそも「旭日旗」のデザインとして特徴的なのは、赤と白の配色と放射状の構図だ。特に、放射状の構図は、軍国主義以前からの相当に古くからある伝統的デザインを踏まえたものか、放射状の直線で構成されたデザインという、あまりにも普遍的なデザインであるために、伝統的デザインとは別な流れとして、偶然にデザインされたものであるか、そのどちらかであることすら判別できないほどのものだ。
 だから、「旭日旗」のデザインや、そのデザインに似ていると決めつけたものを、数十年前に存在した軍国主義と結びつけて批判しようとすると、デザインとしての歴史が古く、普遍的デザインに近いだけに、世界各地の多くのものに採用されていたり、世界各地に遺されている古いものに採用されていたりするため、デザイン探しと批判の活動自体が、見当外れなものになってしまうということに気づかぬほどに愚かな考えの持ち主がいるとも思われない。したがって、このデザイン探しと批判は、敢えて日本という国を貶めようとするなどの、何かの悪意ある意図があっての活動として、自分が知る限りでは世の中では受け止められている。
 「いや、旭日旗デザインを撤去してくれたのだから、諸外国にも我々の思いが理解されたのだ。正しい歴史認識がこれで広まったのだ。」と自画自賛しているようなのだが、実は理解されているのではなく、実際のところは、うるさく騒ぎ立てられることに辟易として仕方なく撤去しているだけで、正しい歴史認識が広まるどころか、異様な活動をする人々だという認識が広まっているだけだ。
 スポーツの世界でもそのような認識が広まって定着しているようだが、芸術の世界でもそのような認識を自ら広め、自らを貶めていることに気づかないということは、ある意味で尊敬できる。一途になると何もわからなくなるほど純粋になれるということだからだ。ただ、それが逆に祖国を貶めることになっているということが残念だというわけだ。
 また、別の見方をすれば、旭日旗探しを止められないのは、発見する楽しみとか、それを人に伝えて、「よく見つけたものだ、偉い」と褒めてもらえる喜びとかに、いつの間にか執着しているという図式が、いつの間にか朝鮮半島に住む人々、および朝鮮半島出身の人々の精神構造として形成されてしまっているからではないだろうかと、他国の人間ながら心配をしてしまう。
 さて、そうした精神構造が形成されやすい条件として考えられるものとしては、次の四つを挙げることができそうだ。

① 都合のよいことに、放射状のデザインは単純なので、その発見には知識も経験も必要ではなく、特別な労力が必要ではないため。

② 放射状デザインの発見活動には特別な才能や、特別な労力が不要であることから、より多くの人々がいつでも参加でき、そこから生まれる連帯感や、連帯することによって生まれる高揚感などを味わえるため。

③ 放射状デザインの発見活動から得られる連帯感や高揚感は、愛国心との相性がよいため、ともすれば負け組意識で低くなった自己肯定感を、自分は愛国心を持った人間であるという認識を形作ることによって再び回復するのと同時に、愛国心の証明というプラス材料を他にアピールすることになるというと感じ、競争社会の中でのポイントアップにつながるという幻想を抱きやすいため。

④ 愛国心は、高い理想を掲げ、文字通り心血を注ぐ活動の中や、困難な状況の中で命がけの行為を必要とする悲壮な出来事の中で発揮されやすい。本来ならば、日常的な何でもない活動の中にも十分な愛国心が見出される。しかし、放射状デザインの発見活動は、そのどちらでもない。理想を掲げた行為でもなく、困難な状況を跳ね返す行為でもなく、国を慈しむ日常的な生活行動でもない。日本も含めて諸外国では、自分は傷つかずに相手だけをひたすら非難して憚ることのない「朝鮮半島に住む人々流の愛国行為」として、放射状デザインの発見活動はとらえているだろう。ところが、それが反日という目的のため、たとえ中身のない行為であろうとも、それどころか自国を貶めてしまう、逆効果の行為であっても、何となく愛国心にかられての活動の並びの中に入れてもらえそうだという錯覚が反日の同情の中では生まれて、その行為の満足してしまうため。

 残念ながら、このようなレベルの低い愛国の活動は、不買運動と肩を並べるものだろう。自国の評判を落とすような活動、揚げ足取りのやり方で他を非難するという見苦しい活動、世界のためにならない活動、そうしたものに陥ってしまうのはなぜだろう。
 その逆の道筋をたどらねば、国際社会の中では、敬遠され続けることになるだろう。なりふり構わぬ白を黒と言いくるめるようなロビー活動や、反則ぎりぎりの行為や反則そのもの、審判の買収などで見せかけの成果を上げようとするスポーツ活動の展開、その他、文字にするにも恥ずかしい事柄が、もはや隠すこともしない姿勢として確立しているかの如くであるのは、感覚が麻痺しているのかと思わせるものがある。
 ほとんどの国は、現実はどうあれ、その逆の道筋をたどって国際社会の中での地位を確立しようということは謳っている。つまり「よい国にするための美しく力強い活動」が愛国の行為としているのではなかったか。その逆を憚ることなく行うというのは、愛国の逆であろう。
 かの国は嘘で固められた国というのが、もっぱらの評判で、自国民も漸く吐露し始めたようだ。嘘という言い方もあるが、反対のことを言う国でもあるように思う。
 「私ほど国民に愛された大統領はいないだろう」という発言は、「大統領はは辞任せよ」という百万人単位の大規模なデモの様子からは、反対のことを言っているとしか思われない。
 「韓国経済は健全だ」という大統領の発言も、瀕死の経済状態に陥っていることを考えれば、反対のことだ。
 「GSOMIAは日本にとって必要なものだ」という発言も、必要ではあるが、かの国にとって最も必要なものなので、反対だ。
 自称徴用工問題はまた聞きだが、慰安婦問題は証言者からの話を聞いた限りでは、状況が逆で、これも反対のことを言っている。
 こうなると、いい顔をして近寄ってくるときは、その反対の心であると思わざるを得ない。
 これら反対のことが寄り集まって支離滅裂な状況になっていくと、国民は恐らく、最もわかりやすいものごとに参加するようになるだろう。
 デモへの参加。支持するかしないかという、二価値論的判断のなれの果てで、そこでは論議が発生しない。その場所へ行き、集団の中に入るという、単純でわかりやすい行動に陥る。話し合うということができないほどに支離滅裂な状況に陥らされているので、言い合うしかない。言い合うために単に主張するだけというわかりやすい行動は、多くの人を参加させることに成功する。多くの人が集まると、それだけで連帯感が生じる。そこから生まれた高揚感は、自分が正義を主張しているという信念につながりやすい。
 これに対して、話し合うということは時間がかかり、情報も知識も話術も必要だから、多くの人が参加することができない。しかし、話し合われることがないと、物事の解決や解決の方法のレベルが低くなる。つまり、解決できなくなるおそれが高まる。その不安だけは察知できるので、ますます自己の行為を信じて貫徹し、主張を押し通さねばならないという思いになっていく。
 日本はこうした段階からどういう段階を経て、いつ脱却できたのだろうか。あるいは脱却しつつあるのだろうか。
 とにもかくにも、そうした状況に陥っている国と無用の関わり合いを持つと、こちらのレベルまで同調して低くなってしまうおそれがあることだけは確かだろう。こうした段階から日本もまだまだ脱却していない部分があるのではないかと何となく思うからだ。
 ところで、そんな旗などよりも、日本の自衛隊を見たら、当時の日本軍を思い出して気にくわなくなるはずだ。それが道理というものではないだろうか。
 旗に対する思いが日本人とは異なるのかもしれないが、旗など旗でしかない。自衛隊の小銃、自衛隊の艦船、自衛隊の制服等々は、旗などよりも、ずっと軍国主義と結びつけやすい材料であり、それらのほうが強烈なイメージであるから、より一層嫌な気持ちになるはずだ。

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恐怖シリーズ340「旭日旗モチーフ?」⑨

 このように国旗等の旗のデザインを一つ一つ見ていくと、「少し考えすぎではないか?」と思うようなものもあるかもしれないが、残念ながら2020年の東京パラリンピックの「扇」のデザインを、「旭日旗を連想させるものだ」と言い切る人々がいる国が一国あることからすると、飛躍した極めて意図的なこじつけの解釈が日常的になされている可能性のある国が他にもあるかもしれないと思っていたほうがよいのかもしれない。
 そうした目で見れば、「少し考えすぎではないか」と思うようなものであっても、十分すぎるほどに、特に朝鮮半島に住んでいる人々の感性にかかれば、「旭日旗」にほぼ間違いなく辿り着くことは、それがたとえ常識とはかけはなれた不自然な感覚や判断であっても、そうしたことはあり得ることだと想定していること自体は、不自然なことではないと見てよいだろう。
 たとえば、①の場合の問題は、この国旗を見た人が何を感じるかということだ。感じる根拠となるものは個々人様々ではあるものの、デザイン上、一様に他の国の国旗と同類の星印なので、星と認識した上で与えられるイメージがどのようなものであるかということが、本来は問題とされねばならないはずだ。
 ところが、朝鮮半島に住む人々が、通常ならば五つ乃至六つある星の角を超える七つ以上の角をもつ星印に反応して、「これは星ではないのではないか、星ならば、角が数個のはずだ。それを敢えて七つ以上に増やしているということは、遠くの恒星である所謂星ではなく、地球に最も近い恒星である太陽を表現しているに違いない。いや、このデザインは日本人が巧妙に隠した太陽の姿に相違ない。それは当然のことながら日章旗を連想させる。連想した日章旗からは、さらに旭日旗を連想させる。全くずる賢いやり方だ。本当に日本人は全て悪質なやつらばかりだ。だから許してはならない。そのために、ずっと恨み続けていく。こんな悪質なデザインの隠蔽は、かつて日本があちこちに手を回してそうさせたに決まっている。こんなところからも世界征服の野望を成し遂げる企みを進めていたのかと思うと腹立たしくて仕方ない。盗っ人猛々しいだけでなく、実にけしからぬ陰謀を巡らしてきたと言わざるを得ない!」などと喚き散らして、鼻息荒く各国に報告するのは、目に見えている。
 そのぐらいの根も葉もない言いがかりをつけて日本を貶めておかねば、とどまることを知らぬ日本の人気はバランスが悪いものになってしまいかねないのだろう。
 しかし、その結果、これまでの全てがそうだが、またもや逆効果を招いて朝鮮半島の孤立化を促進させないとも限らない。それはそれで結果的には日本にとっても経済的にも心情的にも面倒なことになりそうなので、何とか避けてもらいたいところだ。
 では、どうしたものか。「その星印は、太陽を表現しているのです。」と、その国において既に国旗の説明が公になされている場合は、個々人の受け止め方は別として、一般的には公にされている説明に従って、太陽だとして貫き通すべきだろう。当然、朝鮮半島に住む人々からのクレームを覚悟しなくてはならぬが、そのときは仕方ない。国を挙げてのストーキングクレーマーの毒を味わい続けるしかないだろう。
 しかし、朝鮮半島に住む人々が、「この国は親日国なのか?」と問い詰めた日には、かえってその国は日本とのつながりが取り沙汰されて、親日国として喜んでくれるかもしれない。文句ばかりで無責任な国よりも、日本のほうがずっとましだからだ。
 逆に、「その星印は、星を表現しているのです。」と、その国において既に国旗の説明が公になされている場合は、やはり個々人の受け止め方は別として、一般的には公にされている説明に従って、星だとして貫き通すべきだろう。
 朝鮮半島に住む人々からのクレームがついて、「太陽も恒星で、所謂星もほとんど恒星だから、星だといっても結局は旭日旗を連想してしまう。だから、気分が悪い。そんな旗は国旗として認めたくない。もっと貴国にはふさわしいデザインがあるはずだ。その新しいデザインの国旗に早く作り替えなさい。なんなら我が国が最高のデザインを提供しようか。」などと、喚きながらしつこくねじ込んでくることを覚悟しておかねばならないだろう。しかし、そのときは、やはり自国の誇りを持って突っぱねるだけの話ということにしておいてもらいたいものだ。
 どちらにしても、かの国のこれまでの諸分野での動きを見ていると、自己中心の発想が多く、相手の気持ちや立場を考えることは少ない。
 自分の感情を基準にして判断し、相手に問題を解決させようとする。したがって、まだ被害に遭っていない諸外国や諸団体、そして個人も、国旗や商標、建築物、芸術作品、その他に対する、かの国からの来たるべきクレームの対応策と予防策を立てておくべきだろう。いつ何時、何に反応してくるかわからないので、用心しておくに越したことはない。
 ともかく幼い頃より、祖父母や両親から朝鮮半島の出身者から酷い目に遭ったことしか聞いてこなかったので、このように慎重になってしまうのだが、四人とも「とにかく朝鮮の人とは関わってはならない。とんでもない目に遭う。」というのが口癖だった。その意味が最近はよく理解できるようになってきた。
 ちなみに、同じ星印であっても、旗にデザインされた時点で、単なる天体としての意味ではなく、そこに付与されている意味合いがあり、それはは国ごとに違っている。
 それは本当の星であったり、希望であったり、人民であったりといろいろだろう。太陽にしても同様だ。太陽の印は、星印と違い、太陽印という語は日本語にない。しかし、そのデザインは一般的なものとして何種類か使用されている。その太陽の印も、やはり、星印の解釈の数ほどではないが、解釈に幾らかの違いはあるのだろうと思う。
 そうした解釈は、表現者がとなえる意味でなされなくてはならないのだが、本来ならば、それぞれ意味の違うものに対して、自分が感じた印象だけが絶対だとして、批判の対象として何らかの意見を主張してやまないのは、縦から見ても横から見ても理屈に合わない。
 そうした批評やら主張は、人の感情の表し方というレベルだけで見ても間違っている。そして、批判やら主張を繰り返し叫ぶだけでなく、実力行使にまで至るということになると、理由はどうあれ、方法が間違っているということになる。そうしたことが、正当化されるというようなことは問題外だ。
 本来ならば、「なるほど、そういう意味だったのですか。自分はこうだと思っていました。なるほど聞いてみるものですね。勉強になりました。」などと相手意識を持った対話姿勢が国際社会では特に必要だろう。そうした姿勢がなければ、国際社会では尊敬するに値しない存在となってしまう。それはあらゆる分野でマイナスになっていく原因となっていくだろう。隣国の日本としても、そうなっては困る面がある。しっかりしてほしいものだ。
 それにもかかわらず、朝鮮半島に住む人々は、「旭日旗」を軍国主義の象徴として日本人が使っているのではないということを説明したとしても、「当時の日本の軍国主義を思い出すから気にくわない」という理由で批判し続けるだろう。軍国主義から抜け出して先に進んでいるのに、批判し続けるというのは不当なことだ。
 お互い気に入らないこともあれば、気に入ることもある。人間関係と同じだ。それを乗り越えて、手をつないで頑張らないといけない世の中だということを、深く理解してもらうには、どのような歴史的体験を国レベルでしてもらうのがよいのだろうか。それは他国が与えるものではなく、自らが選択して味わうべきものでなくてはならない。

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