日々雑感29「血のタブー」

 今日は献血をした。十年ぶりだ。四百ccは牛乳瓶二本分だから、大量出血だ。献血直後に怪我をすると、そうは多く血を流すことができない。致死量まで、後献血四回分だ。認知症になったら献血したことをすぐ忘れてしまい、またどこかで献血してしまうおそれがある。献血中に失血死というのは洒落にならない。しかし、異常に気づいてくれれば、すぐにその場で輸血はしてくれるかもしれないという期待は持てる。
 僕の血液型はA型らしい。だが、そもそもどうして異なる血液型があるのだろう。つまり、異なる血液型がどうして必要だったのかという疑問が消えない。
 動物によっても血液型の比率は違うという。同じ人間でも人種によってその比率は違うらしい。人種というものがあればの話だが、たまたまそういう比率になっているだけの話なのかもしれない。血液型の比率が異なる人種や国民同士の混血が進めば比率も変わるはずだ。今のように地球中に人が広がってしまう以前はどうだったのだろう。時代が遡れば遡るほど、血液型の比率は人の集団相互に比較的均一であったに違いない。さらに、人の起源にまで遡っていけばいくほど、一定の比率であるはずだ。動物によっては一種類の血液型しかないものもあるという。これは何を意味しているのだろうか。そもそもどうして血液型の別というものが必要だったのだろうか。
 さて、こうしたこともABO式での血液型の分類でのことで、他の区別ではそれぞれの人集団ごとにどういう比率になっているかは、分かりにくいせいか、なぜかあまり示されることがない。しかし、輸血をするうえでは重要なことなので、血液型性格判断のような曖昧なものはともかくとして、もう少し話題に上るようにしてもよいのではないかと思う。
 宗教によっては輸血がタブーになっていることがある。その昔、血液型の知識なしに実際に輸血したことがあるのだろう。今と違って、刃物で殺すことが多いのだから、大量の血を流すチャンスがたくさんあったはずだ。
 そういう時代だからこそ輸血という考え方が自然に生じるのではないかと思う。血が出れば死ぬことは、医学の知識がない時代でもわかっている。血がたくさん出たら、みんなの血を少しずつ集めて入れてあげよう。そうすれば助かるかもしれない。こう考えるのが人情だ。
 たまたま相性のよい血液型の血液を輸血したときにはいいけれど、凝固してしまうような相性の悪い血液を輸血してしまったら、それこそ命に関わる結果を招くことになる。たまたまうまくいった人は神のご加護があったということにされる。うまくいかなければ手遅れでしたということになっていた時代があったのではないかと想像してしまう。
 いつまでも偶然を神のご加護だとせず、失敗から学んだ教訓を積み上げていったとすると、少し興味がわいてくる。
 同じように輸血しても、救われる人と救われない人とが出てくれば、その違いを考え始めるはずだ。信仰心が薄いとか、家族に悪い人がいるとか、いろいろな理由を考えるようになる。
 その理由を体系化したものが、新興宗教となって次第に広がる可能性もないわけではない。真実かどうかは問うまでもないが、とにかく説明自体に矛盾がなければ受け入れてくれる文化を持った人集団もあるのではないだろうか。そうした人集団を育んでいく時代や地域はこれまでにたくさんあったのではないかと想像するが、果たしてどうだろう。
  各宗教を調べ、血についてどう言及しているかを確認したいものだ。さらに、何をタブーとしているかを調べ、その本当の理由を追究してみたいとも思う。

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