日々雑感35「性格(その2)」

 ところで、動物にあっては「性格」はどのような役割を果たしているのか。トラやライオンが小心で優しかったらどうだろう。牛一頭、馬一頭殺せずに飢えて死んでしまうのか。逆にガゼルなどが妙に勇気があったらどうだろう。ライオンに一匹で立ち向かうのか。自分の体格、運動性能に適した性格を持たないと、やはり都合が悪いのだ。では、人間はどういう性格を持つのが分にあっているのだろう。
 人間の性格を云々する場合、こうした動物の性格とは少し違う意味で正確という言葉が使われている。人間の場合は、個人的な性情のパターンを表現する言葉として使う場合が多い。それは自分たちが人間だから、敢えて自分たちに共通する一般的な性格を説明する必要がないからだ。一方、動物に対しては、家族同様のペットを除いて、その種に共通する一般的な性質を述べることが多い。
 たとえば、トラは獰猛で、羊はおとなしく、狐は狡猾だというように、随分と大雑把に、当然のことながら思い込みたっぷりで述べられる。
 しかし、それは人間の性格に当てはめた場合のものの言いようだ。彼らにとっては、それは自然体であり、性格というよりも、行動様式、生きるための方法と言った方がよいのかもしれない。こうした種としての性質は、食物連鎖の中のそれぞれの立場に適したもので、互いに種の維持を図るための仕組みとしてとらえた方がよさそうだ。
 これらを人間が自分たちの個人的な「性格」になぞらえて解釈し、人間にとってわかりやすいように評価を下したのがいわゆる動物の性格だと思う。これは動物との長いつきあいのなかで、どのように動物を把握するかというときの便宜的な方法にすぎない。
 かつてのような動物との関係がなくなってしまった現在は、こうした一般的で便宜的な評価である動物の性格を話題にすることは少なくなったように感じる。逆に、動物をペットとして人間扱いする風潮が強い時代では、動物を人間並みと考え、個体の性格を云々するレベルになるのは仕方ない。
  ただ、十二支のような伝統的な十二分類の性格の紹介がなされている社会では、自分が申年生まれならば、その申年の性格を示した文章を読み、現実の自分の性格と比較して、当てはまるところがあれば、「やはりそうか」と納得し、当てはまらないところがあれば、「未年に近い生まれだから、少し羊的なのかな」とか「酉年生まれの親と亥年生まれの親に育てられた影響かもしれない」というように、自分で納得しやすいように文章の解釈を補正したり、全く当てはまらないところがあれば、「占いだからすべて当たるとは限らない」とか「こうしたマイナス面は自分で克服済みだ」というように平気で無視をする。あるいは、「自分の隠れた性格だ」「本当の自分はこういう性格だ」と積極的に受けいれる。 そうした作業の過程で、申年生まれの人は申年生まれのように振る舞うようになったり、逆に、わざと申年生まれらしからぬ振る舞いをするようになることが多いように見える。また、「あいつは申年生まれだから」とか「あいつは申年生まれなのに」というような周囲の評価もそれに大きな影響を与える。こうした学習や環境によって、類型的な性格の様相が個人の中で次第に際だっていくことになると思うのだ。
  十二支のなかに人間がないのはどうしてだろう、人間年生まれの人がひいきされるからだろうかなどと考えていた子供のころが懐かしいが、果たして人間という種族の性格というものはどのように記述したらよいものなのだろうか。十二支の生まれ年の性格をすべて書き連ねればよいというものでもないだろう。

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