日々雑感36「性格(その3)」

 人間の場合は、複雑な社会を持ち、それぞれに特有の関わり方をしていくため、一人一人の生き様が多様化している。あまりにも多様化しているので、種の生きる仕組みとしての性質のうえに、固有の生き方を成就するのに適した一人一人の性格が加わっていくと考えた方がわかりやすい。
 種としての性質に、地域社会の精神風土の傾向、そして、家系の血筋としての傾向が加わり、最後には、個人の生き方の個性としての性格が深く深く刻印されていく。
 複雑な社会というのは、きわめて専門的に役割分担された社会だということだ。一人一人はこれに適応しようと努力しなければ生きていけない運命にある。これもまた、年を経るにつれ、一人一人の傾向の差が顕著になっていくことの原因となっている。
 また、人間はさまざまなことを言葉として表現する結果、それが判断材料となって周囲から特定の性格として評価されることになる。次に、その特定の性格を表す言葉によって性格の再生産が行われたり、新たな性格判断材料となる情報を発見することで再構築が行われたりすることになり、年を経るにつれ、特定の傾向がより顕著になっていくことも多く見受けられる。
 このようにして、自分の可変部分を変形(成長)させたり、変形(成長)させられたりして、結果として生きる力を獲得し、適応していくことになる。可変部分は、一般的な動物と違って、ほとんどが内面的なものであるから、適応範囲はかなり広くなる。このことによって、外面的な部分との不適合が極端になる結果、道具を生み出したり、システムを構築したりして、内面の変形(成長)に合わせるようにしなければならなくなる。人間の外見は既にかなり奇妙だが、これとても、また極限に向かって変化(進化)する可能性を秘めている。その変形(進化)は遠い将来であろうが、機械との融合に適したものになっていくのではないかと思う。
 ところで、適応は大きく分けて二種類ある。まず、自分の立場への適応だ。次に、自分を取り巻くものへの適応だ。適応する方法は、自分を無にするか、性格を基盤にもつ個性を磨くか、その両方かだ。突き詰めれば、自分を無にするということも個性を磨くということも、互いに通ずるところがある。その結果、一般的には、非常に魅力的な人間となっていくように思う。もちろん、そうした人物をなぜ魅力的だと感じるかという問題は残る。
 また、その適応の方法は大きく分けて三種類ある。「鳴かぬなら殺してしまえ方式」と「鳴かぬなら鳴かせてみよう方式」と「鳴かぬなら鳴くまで待とう方式」の三つだ。これを必要に応じて使い分けることのできる人物が大人物になるのだと思う。
 さて、こうして個性を伸ばし、個性の幅を広げ、どんなに人物をレベルアップしても、新たに与えられた特定の社会に適応できぬ者は残念ながら敗残者となる。そうなれば、敗残者を売り物にして生きるか、敗残者のまま心の病にかかって自ら命を絶つか、破れかぶれになって事件を起こすか、あるいは別の社会に所属して仕切り直すか、いずれかの道をたどるしかなかろう。それはそれでよいのだが、非常にむなしい。
 精神科医や心理学者、宗教家が彼らを扱い、一般人は遠ざかり、法律が彼らを裁く。いろいろな事情があってのことだが、適応異常は不幸なことだ。
 性格を基盤にもつ個性は、生きる上での必要アイテムであって、決して飾りやクセのようなものではない。ところが、そのように扱わないと話題性がない。そこで、話し合いにとりあげられる場合には、えてして飾りや「クセ」のような個性、あるいは、個性の一側面しか語られないようになる。これがテレビや雑誌を教師や教科書としている人々の認識を歪めていく原因となっているのは間違いなかろう。これも不幸なことだ。
 ところで、必要に迫られて後で身につけた性格やその性格を基盤にもつ個性は、生まれつきの種としての性質や地域や家系に基づく精神的傾向をどこまでコントロールすることができるのであろうか。また、その反動はどういう形で現れるのであろうか。

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