自己分析シリーズ16「やさしいトンネル」

 これは二十二歳の僕。ロケットダッシュのツーサイクルマシンが僕の愛車だったころ。人とのつながりと整理のつかぬ心の断片が組み立てられることもなく、ただ声にならない声で叫んでいた時代。
 長時間高速で走っていると、自分が風か、風が自分か区別がつかなくなってくる。俗に言う風になるっていう現象だ。でも、それがもっと続き、容赦なく侵入する冷気で体力が消耗して限界が近づくと、思考が一つの点になる。
 死も生もなく、欲も希望もなく、もちろん善も悪もない。これは一つの到達点というよりも、原初的な状態。太極拳ならぬ太極点だ。
 ランナーズハイというものがあるそうだが、ライダーズハイは無に近い。ときおり正気に返るとき、すべての景色は急によそよそしくなり、こわばった体がきしみ出す。
 もし、ライダーズハイというものがあるのならば、ランナーズハイと異なり、視覚が大きな役目を果たすのではないかと思う。世界が一点からどんどん周囲に広がり、自分の視界の外へ消えていく。中心はゆっくりと、しかし、視点の中心から離れる景色ほど、加速度的に変化が大きくなり、景色が流れていく。あらゆるものが生み出されて変化し、あらゆるものが開けていくように感じる。
 この視覚的に展開するイメージが、行き詰まった現実が変化して解決していくとか、何もないところから何かが生まれて変化してさわやかに終結していくとかいう感覚となっていわゆる「充実感」のそばまで心を連れていくのだと思う。
 しかし、現実は何も変わっていないので、現実的な解決は遅れ、修復できなくなる可能性が高まる。そのやるせない思いから、走ること自体に無理やり意味を見出していったり、別のところにはけ口を求めたりするようになる。こうなると、走りを楽しむという本来のあり方から外れてしまうことになる。これは不幸なことだ。
 生きることが下手で、媚びることもできず、かといってすべての者よ我に続けと言うにふさわしい自分も持たず、方向性を失った若者は、尋常でない速度で空間を引き裂きながら疾駆する鉄の塊にまたがるしかなかったのかもしれない。だとしたら哀れなだけではすまない。
 今となっては、時間の無駄遣い、命の安売り、無軌道な若者と、何とでも評価できよう。問題は、可能性を探りながら自分を高める子供の社会から、方向を定めて自分の本分を発揮する大人社会に組み入れられるとき、周囲の者がどうかかわるかだ。大抵は皆手をこまねくか、気づきもしない。それはそれでよい。気づいてもらえなければ、彼は自分で自分を造形すればよいだけのことだ。
 おそらく、詩的表現というものは、もともと通常の言語表現では言い尽くせぬところを、敢えて言語表現したものと思われる。だとすれば、通常の文法、通常の言葉で通常のものが表現されているとすると、もともと言語表現できるものを言語表現しただけと受け取られてしまい、詩的な内容を含んでいないと評価されてしまう可能性が高い。それを避けるために敢えて奇をてらった表現をひねり出すというのは愚かしいことのように思う。

「やさしいトンネル」

>シールドが風を切る
悲しい背骨が恐竜のように黒くこわばり
もうどうでもよくなって
左目ばかりが鋭く切れ込み
下半身は既に重量鉄骨

意味のない叫びと
貧しい満足感と
やけっぱちの惨めさ
左革手袋と頼りないレバー

こいつの魂はおんおんとうなってはいるが
この闇のトンネルは
どうやら湿った先細り

 熟練した物書きであれば、通常の表現で詩的内容を表現できるのだろうが、一般人である僕たちは修飾語の使用を控えることによって固定されたイメージから自由になるという手法を試みたり、逆に修飾語の組み合わせによるイメージの創造を心がけることによって通常の言葉で表現できないものを通常の言葉を使いながら表現したりと、いろいろ方法を工夫しなくてはならない。陳腐な言葉の大量生産となるが、それはそれで面白いではないか。
 難しそうだが、新しい修飾語を造語するという離れ業を試みるのもいいかもしれない。もちろん修飾語以外にも言うべきことはありそうだけれど、長くなりそうなので、今日はこれでおしまい。

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