変な疑問22「のし(熨斗)」

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 「のしつけて返す」とは、ただ返すのではなく、御祝儀をつけて返すということだ。御祝儀を返すというのは、通常はあり得ない。その人からもらった物を返すというのは、贈った人の気持ちを否定することになる。これはその人の心を否定することになり、ひいては、その人の存在を否定することにつながっている。だから、実に失礼極まりないことだ。
 したがって、「のしをつけて返す」というのは、「のしをつけてお祝い物として返上した以上、おまえはもうこちらに差し戻すことはできないのだぞ」という意味になる。つまり、「二度とくれるな」という意味になる。
 しかし、本当にのしをつけて返すことは、失礼なことになるから、大抵は「のしをつけて返してやりたいくらいだ」という程度の意思を表明するときに使う。もらったものが、物であれ、立場であれ、それほどひどいものだったということだ。
 つまるところ、「喜んでお返しする」(広辞苑第五版)という意味にはなるかもしれないが、実生活の中で「喜んでお返しする」ときには、「のしをつけて返上する」という表現を使ったり、本当にのしをつけて返したりすることはない。それは非常識だからだ。広辞苑には、「のしをつけて返上してやりたいくらいだ。二度とくれるなよ。」というような意味合いの用例に差し替えるのがよいだろう。
 さて、「のし」とは何だろう。「伸し」と同源(広辞苑第五版)とある。平らにつぶすことだ。何を平らにするのか。「のしあわび」の略(広辞苑第五版)とある。アワビを平らにしたものが「のしアワビ」だということだ。「方形の色紙を細長く、上が広く下の狭い六角形に折り畳み、その中に熨斗鮑(後には紙で代用)を小さく切って張り、進物に添えるもの。」(広辞苑第五版)とある。
 なぜ、アワビが進物として選ばれたのか。なぜ、アワビを熨すのか。なぜ、紙に包むのか。なぜ、紙は六角形に折るのか。なぜ、上が広く、下が狭い六角形なのか。なぜ、後には紙で代用したのか。なぜ、進物に添えるのか。
 最初は、アワビ自体が進物だったのではないかと仮定してみよう。だとすれば、アワビはなぜ進物として選ばれたのか。そして、なぜ進物の象徴として選ばれていったのだろう。
 紙を六角形に折るのは、万年生きるという縁起物の亀の甲羅の模様に因むものなのか。
 六角形の上が広いのは、漢数字の八の末広がりとは逆だから、現在が華やかであるということを表すのか。それとも単にアワビが下に落ちないように下を狭くしただけなのか。
 後に紙で代用したのは、進物としてのアワビの意味が薄れ、忘れられて、単なる進物の象徴、単なるマークになってしまったからなのか。それは、特定の場合の贈り物でなく、いろいろな場合に贈り物をする風習が広がって、象徴化が進んだのか。象徴化し、矮小化し、最終的には印刷物に成り下がり、ひどい場合は「のし」いう文字が印刷されているだけの状態になってしまっても、なお消えずに残っているのは、他に適当な印がないからか。それとも印がないと、やはり格好が付かないからなのか。
 辞書でこうしたことに言及するのはページの関係で無理だから、普通はそんな細かい疑問に対する説明については、百科事典ではない以上は書かない。辞書というのはそういう意味で、想像力をかき立てる面白い書物だ。
 いっそ意味を書いたあと、「なぜ……だろう?」と疑問を書き添えておく形式の辞書にしたらどうか。出版社によってその疑問の書きぶりや方向性に特色を持たせれば、「社会派の○○辞書」とか、「哲学的な□□辞書」とかいうふれこみで宣伝できるから、新たな需要が生まれる可能性があるのではないだろうか。

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変な疑問22「のし(熨斗)」 への8件のフィードバック

  1. ryo より:

    学習理論・学習心理などなどの文献を片手に、日々、悪戦苦闘中です。 おそろしいほど、わからないこと、知らないことに出会ってばかりいます。
    ときどきブログを拝見し、 知の深さや広さに驚かされています。 ご無理でなければ、専門をお聞かせ願えますでしょうか。  

  2. どこにいるの? より:

    分からないことに出会ってばかりいるということは、それだけ一生懸命に勉強している証拠ですね。文献片手に実践を積むうち、物事が次第に見えてくるものです。もちろん自分の見え方でなんですけど。それを生かすだけでなく、次の世代に研究素材として記録を残していってくださいね。専門はありません。専門家のご努力を幅広く享受しているだけの一般人です。

  3. ryo より:

    考古学などの専門をお持ちなのかな、と思っていました。
    見えるところはまだまだ少ないですが、学んだところを自身に取り込んでいこうと思います。 伝え得るものを蓄えていければと考えています。
    どこにいるの?さんブログからも、学ばせていただきます! 

  4. どこにいるの? より:

    専門かあ。専門的なものでも、必ず別の分野に関係があって、協力すればいいのにって思うことがずいぶんあったなあ。特に哲学と数学を大事にしない分野は先細りになるんだろうな。確かに考古学も面白いね。そういえば、かつて考現学なんて言葉もきいたことがあるけど、それも面白そうだ。

  5. ryo より:

    おもえば哲学に、いちばん初めにふれたのは、学部のときでした。 現象学が中心だったように思います。 そのとき以来、哲学に興味をもっています。 いまは、科学哲学や分析哲学に興味をもっているところです(しかし、学部のときに感じた、かなりの手ごわさの感覚は消えてません…)。
    考現学、、、字面上は見たような気がするくらいです。。。 考古学の研究者と警察の鑑識経験者との協調で成果があったという情報などなど、研究的現場的経験を通じても、他分野と協調できればなちがう何かが見えてくるような気がしてなりません。
    「なにを専門に?」といわれると、私自身、構想しているものをどう名づけるかというむずかしさがあり、他分野協調は必然と思うのですが、実際上はどういうわけか協調にはきびしさが伴うようです。
     

  6. どこにいるの? より:

    用語が同じでも、微妙に意味が違っていたりするのも壁だし、市町村の合併みたいに相手の牙城を奪ってやろうというささやかでちんけな野望や、なぜか本能的にライバル意識を持ったり、要らぬプライドみたいなものが実はあったり、無意識に相手の分野を見下していたりといろいろな壁や溝があるかもしれない。協同できなければ、成せない仕事だってある。本来、分野は分担で最後は協同するために分けられているはずなのに、違う世界だから知らなくてもいいとか、無関係とか思い込んでいる軽薄な輩がいたりするのが情け無いと思う有力者がいればよいが、有力者はいくら人格者であっても「セカイ」の中でこその有力者である場合が多いから、協同は遅々として進まないだろうなあ。コーディネイトする役割をつくり忘れてしまったのかな。それとも哲学者の怠慢なのかな。

  7. ryo より:

    関係分野のコラボレーションを阻止するのも、既存の枠組みやルールの働きのようですね。 ということは、その価値もまたあるのでしょうか。 

  8. どこにいるの? より:

    生物の進化といっしょかな。専門的に人間に進化したやつと専門的に花に進化したやつがいて、それらは同じ生物でありながら同じではなくなった。でも、人間は花を愛し、花に慰められ、花を育てる。そして、花は人間の目を楽しませるように咲き、人間に世話をさせ、種を守り、種を増やす。お互い案外うまい関係になっている。

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