変な疑問35「美的距離」

 打ち上げ花火は文句なくきれいだ。次第に綺麗になるのではなく、文字通り爆発的に綺麗になるのだ。さらに、綺麗でなくなる前に瞬時に消えるからだ。綺麗どころ取りのずるい存在だ。
 だが、爆発時にそばにいれば、確実に死ぬ。人間の華奢な肉体などバラバラにするのは朝飯前だ。花火など朝飯を食うことはないから、永遠に朝飯前だ。
 そんな地獄のようなエネルギーをもってしか美を実現できないのだ。遠くから光と音だけを聞いているから鑑賞できる。三尺玉のような大きなものなら、全身に爆風を感じる。これとて臨場感を高めるという美の補助的な要素になってしまう。
 だが、5㎞、10㎞と遠く離れるに従い、美しいとは感じなくなる。花火が火花に見えてくるのだ。これは美を感じさせていた詳細な部分が見えなくなり、光の点に限りなく近づいていくからだ。これがずっと輝く光の点なら、星のようにまた美しいと感じることができるのだが、何せ感じる前に消えてしまうから、人間の方に余裕がない。
 大きく開いた後の少し火の粉が散り落ちるのが少し見えるほどの距離がちょうどよく花火の美をおもしろく感じとれる距離なのではないかと思う。近ければ地獄の爆発、遠ければ火花。ちょうどよい間合いがとれるのも、打ち上げ位置が固定されていているからこそだ。
 こうした間合いが固定されていない人間関係の場合はどうか。特に初対面の人は突然に現れることが多いけれども、心の準備がないせいもあって、距離の調整をしにくい。
 また、古い仲でも、未だ昔の感覚を持ち続けて不用意に接することもある。通常の「空間・時間・心」の距離感もさることながら、特に電話、さらに携帯電話など最たるものだが、絶妙の心理的距離の伸縮作業を行う必要のある場を、否が応でも提供してくれる技術がゆきわたっているから現代は誠に油断がならない。僕は自転車操業さながら、その日その日を暮らすしかないのが未練だ。
 お互いに美しく見えるように努力をしなければならないのは辛いかもしれないが、お互いに、ましてや一方的に爆風と閃光を与え合う距離では安楽に生きていけないのが道理だ。
 たぶん気を遣うということはそういうことなのだろう。これが未だに上手にできないのは僕の努力不足としかいいようがない。
 街の灯りで薄ぼんやりとした低空を突き破り、孤独の曳光を残して暗黒の宇宙に命を捧げる美しい光の花束を観るにつけ、恨めしく口惜しく嘆かわしく想うのは、そんな思いが心の片隅にあるからであろう。
 不思議なことに、本物の美しい花束をいただいたときにも同じような感覚に襲われる。うれしいよりも先に悲しいのだ。年をとるということはこのように繊細な気持ちを持つようになるということなのだろうか。お年頃の僕は最近そんなふうに思うのだ。
 それはそうと、どんな美人の肉体も大接近すれば、一個の細胞を見ることになる。そこには美も醜もない。極限に接近すれば、観測不能の粒子になってしまう。いったいどこからが肉体なのだろう。これは傷害罪を問える問えないの境目かもしれない。

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