突然思い出したこと43「こころざし」

 「事務の引き継ぎ」ということがある。だから駄目なんだということに気が付かないのはどうしてだろう。
 「事務の引き継ぎ」という言葉が一人歩きしてしまい、本来の「志の引き継ぎ」が疎かになってしまう愚行を犯している自分にまず気づくようにしたい。そのためには「事務の引き継ぎ」という言葉をやめ、「志および事務の引き継ぎ」という呼び名に変えることだ。
 「志」の部分は文章になりにくい面もあるから、つい書類等を通して比較的簡単にできる事務の引き継ぎが中心になってしまう。また「志」は個人的な思い入れも含んでいるから、引き継ぎにくいという面がある。いきおい単純なスローガンや程度の解釈が自由な数行の目的をそのまま書類の最初に付けたままで飾りにしてしまうことになる。
 「志」の引き継ぎはどうしたらいいのだろう。人が生き物である以上は、死ぬのだから、死なないシステムで支える方法もとらねばなるまい。この最たるものが法律だ。法律といってももちろん刑法ではない。当然、手続き上、変更が困難なものにしておく必要がある。ただし、死なないというのはある意味やっかいなことである。
 次が組織だ。組織で「志」を支えるというときは、どちらかというと、「志」を具現化するために人をどう集めて組んだかという点に問題が移りやすい。しかし、それ以外に「志」を支える手段はないのではないか。もしあるとすれば「お経」のレベルだ。
 ピラミッド型の組織でもよいが、短期間の間にできあがるものではないし、短期間に作ろうと思えば強大な力を必要だ。しかも、かなり優秀な人材がトップに要る。それでないと、時代の流れに上手に対応できるかどうか、つまり小回りがどれだけきくかという不安要素を常に抱えることになる。優秀なトップにとって、この不安定要素はもちろんマイナスの要素ではない。組織の活性化のための材料に過ぎないからだ。
 ピラミッド型組織でなければ、グループ組織だ。誰もがトップのようで、アメーバ的でうまく周囲の状況に対応できるように協力体制が自然にとられることになる。「志」を共有せざるを得ない集団だが、人数には限りがあり、少人数となる。おそらく5人から10人程度ではないか。普通の声の大きさで連絡ができる程度の人数なのかもしれない。スピーカーや鳴り物を使ったりするのはグループ組織には似合わない。
 このグループ組織同士がうまく組まれてピラミッド的になっていればよい。ことがあれば、プロジェクトチームを立ち上げ、そこにエネルギーと情報を集中すればよい。
 ところで、家族という集団はどうだろう。家訓のようなものがある家もあるだろう。歴史を持つ家訓とそれに基づく現家族によるルールによって秩序が保たれていく。波風立つことが少なく、余計なエネルギーをその解決のために費やすことがないから、逆説的だけれど自己実現がしやすい環境とも言える。
 しかし、現代の家族は、子どもが少なかったり、核家族であるためにグループ組織としてもピラミッド型組織としても歪んだ存在となっている。
 歪んだ存在に「志」は不似合いだ。自然と各個人が小さくてレベルの低い、従って簡単な自己実現に走る人間の育成につながる。(飽)食、(下手な)ギャンブル、(必要以上の)セックス等に走る分だけ「志」指数が低いと考えてよいが、そうした人間が増えすぎると社会としても不都合があろう。
 逆に「志」指数が高い人間が増えすぎても、社会としては不都合が多いに違いない。もっとも今は「自分」指数が高い人間が増えてきているので、社会としては最終的には困るのだけれど、当面は御しやすいという好ましくない状況を招いている。また、「志」指数が低い集団の中からは、奇妙な「志」が高級なものとして、あるいは魅力あるものとして、人心を惑わすようにもてはやされる虞が出てくる。
 これにマスコミがかかわると、もともと普通でないものを取り扱って、なぜかそれを普通にしていくという創造的な仕事だけに、マスコミの「志」とは裏腹に奇妙な「志」がまっとうな「志」のように伝わっていくことになる。結局、現在の悲しい事態に全員気づかねば、それで頭の中だけは平和なのだから、あまり批判的に報道や番組を見てはいけないということになる。「平安」と「志」はあまりそりの合わない言葉なのかもしれない。

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どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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