突然思い出したこと47「3S」

 ブログを振り返る。これまで何回投稿しただろうか。通し番号を各カテゴリーにつけているから足し算をすればよい。352回だ。
 2日に一個のペースで雑念を捨ててきたことになる。押し入れ代わりのスペースというわけだ。かなり頭の中がさわやかになってきたといってもよいはずなのだが、実際にはどうもそうはいかない。
 ごみ箱(デスクトップにあるやつ)に入れてさようならすればよかったのかもしれないが、未練なので、捨てずにとっておいた。これが間違いのもとだ。
 雑念を払い、捨てない限り、気づかぬことがある。この気づくということが難しい。一瞬の気づきの到来は長年の取り組みにより、一寸先まで近づいているのだが、これを雑念という要らぬこだわりが邪魔をしてしまうからだ。
 雑念は元来増殖するものだ。その勢いは仕事が苦しくなると穏やかになる。仕事に専念するから、強制的に雑念が払われていくのだ。しかし、仕事が苦しくなりすぎると再び増殖を始めるらしい。そうなると、増殖したものを文章化して押し入れに整理して入れていくことが時間的に苦しくなる。
 にもかかわらず、なぜ書き続けるのだろうか。それは、文章というものが完結性を持っているからだ。始めがあって終わりがある。きりがつけられているのだ。この「きり」というのが大事だ。「きり」は快感をもたらす。
 僕たちが直面している現実はどうだろう。ドラマのようには終わらない。いつ始まるかいつ終わるか分からない。これは大きなストレスだ。これと対極にあるものを持たねば心のバランスが崩れてしまう。酒など飲んで架空のきりをつけるのはごまかしだから、たいていの人は避ける。
 とにかく、時間と空間が制限されているものを用意しなければいけない。
 たとえば、歌。歌は自分でスイッチを入れたオーディオ機器という限られた空間から流れ出しす。また、自分でチケットを買って入場したコンサートホールという限られた空間に流れる。だいたい何分で曲が終わるかも了解済みだ。
 たとえば、スポーツ。スポーツはおよそコートという限りある空間で、限りある時間の中でプレイされる。ルールという目に見えない限定も大事だ。
 例えば、映画。スクリーンという限られた空間に、およそ2時間という限られた時間で鑑賞するものと決まっている。この決まっているということが大事なのだ。どんな事件も結果はどうあれ必ず終焉を迎える。必ず「きり」があるのだ。
 サウンド、スポーツ、スクリーンというわけだが、3S政策に似ているから、セックスも加わえて4Sとしておこう。少なくとも3Sは占領政策として日本人骨抜きのために時間とお金をかけて用意されてきたのだから、根が深い。バランスを崩さぬように用意しているというより、歴史的に意図的に用意させられているのだから、深刻だ。
 意図的に形成されていった思考パターンは3世代を経て、完成され、ますます自己チェックしにくいものとなってしまっている。
 スクリーンはテレビとなり、さらにスポーツと合体してゲームになり、その浸透力にはすさまじいものがある。初期の目的は充分に達成されたと言ってよいだろう。

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どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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