突然思い出したこと59「ゴジラの終わり」

 ゴジラ映画は時代ごとにいろいろな役割を果たし、葬り去られた。また新たな役割が与えられたら復活するのだろうと思う。これまでどのような役割を結果として果たしてきたのかはよくわからない。
 太平洋から台風のように現れ、日本を襲撃し、破壊の限りを尽くす。彼の通ったあとは瓦礫の山だ。始末が悪いことに、口から放射能を含む熱線(原爆+焼夷弾+火炎放射器?)を放射する。さらに巨大な体躯を支える頑丈な足は無差別(平等?)に何でも踏みにじる。
 大八車に家財道具を積んで逃げまどう姿は空襲の惨劇にそのまま重なる。放射能は原爆に、上空からの無差別の空爆は今も昔も同じアメリカの得意芸で、そのやり口と重なる。制作者の意図は計り知れないが、結果として、ゴジラ映画は日本人を過去(約10年前)の大変な時代(太平洋戦争)に引きずり戻す映画となっていたはずだ。
 この最初のゴジラ映画の封切りは昭和29年。昭和20年から続くアメリカの占領が解けたはずの昭和26年の少し後だ。今も占領下にあるような日本だが、当時の、形式的には独立したのに実質的に独立国とは言えない日本の国民の複雑な思いが、ゴジラ映画に結晶化していると仮定して、その解釈は成り立つのだろうか。
 初代ゴジラは日本人科学者が開発した禁断の兵器オキシジェントデストロイヤーによって東京湾で消滅。蹂躙するものに対しては、やはりそれ以上の力で対抗するしかないのかと作品は問いかける。
 素直に鑑賞するなら、アメリカの殺戮行為、理不尽な暴力の権化としてゴジラとみるのが、当時の日本人の国民感情を考えると、いちばん適当でわかりやすい。通常兵器や浅知恵尽くした作戦では全く歯が立たないゴジラ。それをたった一人の日本人科学者が、小さな禁断の兵器によって、しかも身を挺して駆逐するというのは象徴的だ。
 物量で圧倒的に有利だったアメリカに対して貧弱な装備で肉弾戦を強いられ、ことごとく斃れていった日本兵たちの無念をみごとに晴らすようにも見える。観客動員数9610000人というただならぬ記録は、単に優れた恐怖映画だったというよりも、当時の日本人が処理しきれないで抱えていた尋常ではない気持ちに働きかけるものであったと考えるのが自然だと思う。
 ただし、ゴジラはその後の作品でいろいろな怪獣と戦う運命にある。子ども向け娯楽映画になっていき、付き添いの親の入場料もついでに獲得するという図式。ゴジラがゴジラでなくなっていく。ゴジラは初回でやはり終わっていたのだと思う。昭和30年代半ばからの高度経済成長期、過去に引き戻されることなく、明るい未来を夢見て、前を向いて突っ走りたかった日本の状況もある。ゴジラでないゴジラはピエロを演じるしかない。初回で役割を果たし、続編以降は次第に子どもたちのヒーローたちと同列におとしめられていく。
 再びゴジラがゴジラになるのは、昭和59年を待たねばならない。しかし、平成10年ハリウッド版ゴジラの登場で、ゴジラ映画はただの怪獣映画におとしめられることになる。二重におとしめられた日本のゴジラはついに息の根を止められ、ただの見せ物ゴジラになってしまった。
 「ゴジラ映画」を必要としない鑑賞者が増えたということだ。つまり、年中行事的な「娯楽ゴジラ映画」の路線に乗るた国民が増えたということだ。こうなっては、さすがのゴジラも、今のところ本来のお役についてはご免ということだ。
 現在は、彼を懐かしむ年代とそれに類する異世代の趣味人がつくる人形マニアの世界に封印され、雌伏(至福かな?)のときを過ごしている。雄飛(これはそろそろ夕日?)しているのは人間のゴジラだけだ。とはいっても、野球界(実はマスコミ界の一翼?)という世界に封印されていることには変わりない。所詮、ゴジラは初回の昭和29年のゴジラで終わっているのだから、あれこれ言ってもほとんど意味はなかろう。
 さて、この映画シリーズの副産物、メカゴジラの存在は侮れない。実は大きな役割を果たしたのではないかと感じている。多くの青少年は、メカゴジラとの出会いによって、少なくとも鉄腕アトムよりも現実的なロボットの存在を感じたはずだ。遠隔操縦タイプ、人が搭乗して操縦するタイプ、脳波で操るタイプ等々いろいろなパターンを見せられて、夢をふくらませたはずだ。現在いい年齢になったロボット開発者の頭の中枢部分にはこのメカゴジラが案外どっしり座っているのではないかと想像する。これから日本を救うのはロボット産業なのだろうから、メカゴジラ神社でも建てて祈るといい。
 そのメカゴジラがゴジラに勝てないのは、スーパーウェポンで何でもやっつけて解決してしまう無茶な映画のストーリーより味わいがあって面白い。人間は悪魔的な存在にまだ勝利してはいけないのかもしれない。それにしても、なぜか巨大ロボットはしゃべらない。しゃべったらよほど大きな音になるからか。確かに光景としても、同じ背の高さのロボット同士がおしゃべりするというのは滑稽だ。装甲を通して聞こえるような大声は結局住民の迷惑になるに違いない。うるさいから、お互い無線で話してよねということになるのだろう。だから、巨大ロボットはしゃべらなくてよい。もっとも人間用に足のどこか踝のあたりへスピーカーを取り付けることはあるかもしれないが。
 なぜか年に一回はゴジラのことを突然思い出す。もしかしてサブリミナル効果?

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