日々雑感144「楽しい楽しさ」

 遠出をすることになった。ついでにあちこちできないスケジュールなので、とてももったいない。遠出をするといってもいつもセットにしてあるから準備は要らない。だから、準備をするという楽しみを自分で奪っている。しかし、別に楽しまねばならないというものでもない。準備に限らず、いつでもそうだ。
 楽しみたいときに楽しめばよい。いつでもどこでも楽しむことはできるからだ。お膳立てをしてもらって楽しむのは本当の楽しさではない。ゲームとか、ショーとか、アトラクションとか、非常に人工的な楽しさだ。楽しいけれど、よく考えてみると楽しくない。だったら、あまり考えなければよいという話になる。
 しかし、ただでさえ頭を使わないので、働きが悪くなっているのだ。あまり考えないで楽しむというのは、確かに楽しいけれど、さらに頭の働きが悪くなるようで恐ろしい。
 ゲームはルールに従って目標を遂げようとするから、多少頭のトレーニングにはなる。しかし、総合的な働きを維持するには作業や効果が刺激的で部分的で単純にすぎ、偏りが大きい。ショーやアトラクションは、見る要素が大きく、人工的である上に現実的ではない。そして、「傍観者」または「結局よく考えると傍観者」の立場に立たされ続ける。これは考えようによっては恐ろしく楽しくない。知恵や感動を得ることができるかもしれないが、所詮与えられたものだからだ。
 お膳立てには金がかかる。金のかからない楽しさは、お膳立てをされていない楽しさである可能性が高い。どうやって楽しい時間を過ごすか。これはいかに金をかけないかによる。金をかけない楽しさを味わうために金をかけるということは矛盾しているようだが、あり得る。
 いちばん困るのは楽しさをコントロールされている場合だ。カムフラージュとして楽しさを勝負事の形式で提供してくる。勝てば楽しい。負ければ楽しくない。しかし、勝負事だから仕方ないという諦念が土台に築かれる。一見ランダムだが、ある程度の努力で勝負の確率の偏りを生み出すことができるということに、仕掛けはある。その努力は自分ではしないのだ。だから、反省しなくてよい。しかも、非難が公然と行われる。これに同調することで仮初めにではあるが、周囲との一体感を得ることもできる。また、スポーツで言えば、優勝すれば、ともに喜び合うことができる。どんなチームをかき集めても、とにかく試合さえ行えば、必ず優勝チームが一チームできるという仕組みも味わいがある。
 この場合、どこかのチームのファンになるのが普通の楽しみ方の条件だ。①プレーの疑似体験による楽しさ。②解説者になる楽しさ。③勝利を疑似体験する楽しさ。④公然と騒ぐ楽しさ。⑤応援する団体への所属感を味わう楽しさ。⑥他のことを忘れる楽しさ。⑦試合を見に行くという行動を起こす楽しさ。⑧共通の話題をもてる楽しさ。⑨喜びや悔しさをともに味わうという楽しさ。⑩勝利の予想をするという楽しさ。⑪チームやプレーヤーなどに関する豆知識を仲間に伝える楽しさ。こうしてみると、ファンになるということがいかに重要なことかが分かる。
 だが、結局はお膳立てされ、レールの上に載せられているだけであることに気づく。それはそれなりに楽しさが充分に味わえるので、それはそれでよしとして、後は仕事にでも励めばよい。
 しかし、それだけでは満たされない。何も残らないし、残せない。つまり、空虚なのだ。これを満たすために同じ方法で際限なくファンであることに熱狂的に取り組むことになる。
 こうしたものと同時に、お膳立てされていない別の楽しみを持てないか。いろいろな楽しみをたくさん持っているのがいいのだ。お金をほとんど使わない楽しみをたくさん持つのだ。経済的な余裕はないのだ。
 着眼点と行動力と発表力があれば手にすることができるものであるとよい。たとえば、自分でゲームをつくるのもよい。誰もやらない仕事に取り組むのも面白い。

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どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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