日々雑感148「強敵」

 「日本の名言」という小冊子を四百円で買った。「いかに強敵なるとも、ゆめゆめ退くなかれ(日蓮)」とある。
 恐ろしい言葉だ。でも、よく考えてみると、正しい。正しいだけにより恐ろしい。確かに、強い者は相手が退くのを見越し、それにつけ込んで勝利することが多いように思う。
 たとえば、武道では前に出るのが基本だ。相手が出なければ追い込んで勝つ。相手も出れば、その時点で引き分けだが、両者が前に出るのでぶつかるため、その時点で弱い方は当たり負けて体勢が変化する。ここで自分と相手の体勢の変化に応じた技をかけて勝つ。または、自分が前に出ることで相手も前に出させ、その出てくる変化に応じた技をかける。
 このとき相手が体勢を崩さず退かねば、いくらこちらが強くても勝つことは困難だ。しかし、強い者は上手に相手の体勢を崩して自分の技を繰り出すことができるように状況を変化させていく。
 姿勢を崩さずしてたたかうには信念が必要だ。信念がなければ、迷いや恐れなど空白の状態が生じる。集団なら、まとまりがなくなる。攻めの矛先も叩かれ、守りの壁も突き崩されてしまう。結果として相手が強敵になってしまう。
 このように、手強い相手は自分が作り出してしまうものだと了解しておくのは、相手に勝つか、少なくとも負けないためには最低限の心構えに違いない。
 また、強い者は相手に得意技を出させない。チャンスを与えない。出されても有効な攻撃になる前にくじきにいく。相手が調子に乗る前に自分のリズムに変化させ、相手を自分のコントロール下におく。どうしてそんなことができるのだろう。相手と相手の目的と手段を大方知り尽くしているからだ
 人間があらゆる動物に勝てるのは、少なくとも勝負に関する点で相手を知り尽くしているからだ。人間が動物に負けるときは勝負の準備が不足しているときか、相手の動物のデータが不足しているときか、戦う方法を間違ったときかだ。
 だから、猛毒を持つ蛇も蛇捕り職人にかかったら敵ではない。百獣の王のライオンも檻の中だ。もともと人間などが素手で戦って勝てる動物などほとんどいないから、相手を知り、準備をすることで、事故さえなければ他の動物に常勝することができる。
 このとき、人間にとって知識は、身を助けて豊かさを手にする最高の武器となっている。そして、無知は最悪の場合には死を意味する。もちろん知識は諸刃の剣だが、人間はこの剣を手放せない運命にある。それは日夜増大し続け、組み合わさり、ものを動かし、ものを次々と造る。だが、人間自体は、昔からたいして変わっていない。だから、役割を分担することになる。最後には、役割以外については比較的無知でも生活できるようになる。
 ここで互いに信頼関係がなければ成り立たないはずの世の中ができあがる。この関係が崩れないようになされている努力には、どのようなものがあるだろう。
 健気な権威づけが一般的な手法だ。健気なのだから、それに乗らないといけない。そうしないと立場が高められず、差ができない。高められていない立場からの発言は、力を持たないので、周囲への影響力が少なく、役割分担した意味が薄れてしまう。これは両者がつくっている小社会が揺らぐ原因となると思う。
 逆に権威のない立場からの発言は、個々の状態では力を持たないので、寄り集められる必要がある。寄り集まらない発言は価値がないと判断される。価値のない発言は、権威への影響力が少なく、役割分担した意味がやはり薄れてしまう。これもその社会が揺らぐ原因となると思う。
 この場合、両者は信頼関係が築かれていないと互いに正常に機能しない状況に置かれている。これをどこまで自覚しているかによって、その社会がどこまで崩壊しないでいられるかが決まってくると思う。
 健気な権威づけは、小社会でなされることがほとんどだと思うけれど、これが政治的な権力を持っている者や集団を対象とする権威づけのレベルに発展すると、健気とは言い難く、最終的には国家や国家のグループがかかわり、細かい利権や国益というエゴが渦巻くようになる。さらに、状況が悪化すると、権威が権力の装飾品化して体裁を保つための小道具になっていくおそれもある。そこには純粋な信頼関係は築きがたく、計算づくのビジネス上の信頼関係にレベルダウンした関係しか入り込む余地がない。
 こうして、相手を互いに信頼せざるを得ない状況に置かれながらも、なぜか現実は本当には信頼できない世の中になってきている。その程度が甚だしくなってくると、「さまよう個人」が増えてくる。ちっぽけな尺度で貧弱な成長を遂げるようになる。それはそれでよい。特定の場所で増えすぎなければ、その社会が暴走しないための適度なブレーキとなり、社会全体が大きな過ちを犯しにくくなるので、その社会内の平和の実現に貢献しているということができるかもしれない。
 しかし、「さまよう個人」は社会の中にあって自分自身は孤独感と不満感と自己喪失感に悩まされることになる。個人内は平和ではなくなるので、癒される必要がある。一歩脇に外れて自分を傍観するか、社会全体を分析することで、つまり、理解することで癒されるか、破壊活動に身を投じて、他罰的になって癒されるか、世捨て人のようになって自罰的になって癒されるか、三欲を満たして癒されるか、どれかを選択する必要が出てくるだろう。
 さて、取り敢えず癒されるのはよいが、それだけでは現状を打破したことにはならないので、引き続き癒しを必要とする状況が続くことになる。ややもすると、現状を打破しないために、状況はときの経過とともに悪化しており、尋常な癒しでは解決することができなくなっていくおそれも十分ある。この癒しを産業に組み込めば、金のなる木になるだろう。
 このように金儲けを考える人々は、世の中の仕組みとしての人々の意識を必要に応じて変革する努力をしているように思われる。それは誰がどのように行っているか分からない。
 探し出すヒントは、彼らがうまく事を進めていると仮定すれば、最近比較的人々に身近になってきたものをものを探すのがよいと思う。世の中にうまく受け入れられ、結果的に安全で、幅広く人気があって、そこそこに楽しいものが怪しいことになる。
 これを手がかりとして、彼らを発見することができるかもしれない。強敵とは彼らのことだろう。目も手も届かないのだから、情報もなく、攻略は難しい。こちらはされるがままになっているわけだ。
 もしかすると、金儲けだけでなく、他の目的もあるかもしれない。便利で、正しく、心地よいもので、うまくカムフラージュされている場合は特に厄介だ。
 とにかく手に入る限りの情報を集めて、行間を読むように読み解き、彼らが考えている以上のことを知るようにするしかない。「そんな暇はない。」と言われそうだが、もとより暇など生きている以上ないに決まっている。他人を使えばいいだけのことだ。また、「知ってどうする。」とも言われそうだが、うまくいくかどうかは別として、知ればどのようにでも取り組みようがあるものだと実感した経験が不幸にしてこれまでなかったか、知った後にどうするかの答えを自分ではたくさん持っていて、敢えてこちらの手駒を確認するために聞いてくるかのどっちかだろう。でも、この二つのセリフだけは恥ずかしいので使わないようにしている。
 それにしても、つくづく日蓮という人はたいへんな言葉を遺したと思う。修行を積めということだろう。普通の人間は、信念が弱く、情報不足で、人脈不足で、権威も権力もないからだ。そうすると、本当の強敵は弱い自分、強くなれない自分ということかもしれない。ないないづくしのままで退くなというのは、それは酷というものだ。でも、退くなというだけで、闘えとは言っていない。力がつくまであきらめないで踏ん張りなさいということだと、名言集の言葉どおりに理解しておこう。でも、踏ん張っている間にぼろぼろになるだろうなあ。やはり踏ん張るだけでも闘いだ・・・・・・。
 待てよ。ああ、自分の代わりがまた踏ん張り続ければいいのか。なんだ、そういうことだったのか。いつもの事ながら気づくのが遅くて困る。

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どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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