突然思い出したこと65「クリスマスケーキ」

 クリスマスが近い。キリスト教の行事だが、日本ではクリスマスの日を祝う。それで何を祝うのかと疑問に思った幼い僕は親に尋ねた。僕の親は「そうだね。何も祝うことはない。」と言った。以来、我が家ではクリスマスケーキが食卓を飾ることもなくなり、サンタクロースも来なくなった。少し寂しい気もしたが、クリスマスの意義を感じないのだから、それも道理だと思った。
 誕生ケーキは「一年無事に過ごせました。また一年無事過ごせますように。」と自分の命の健やかなことを祝うので、幼いながらも意義を感じて食べたものだ。しかし、同じケーキだということで、誕生ケーキもなくなったように思う。祝うのにケーキは適切でないということになったのだろうか。それともキリストの誕生ケーキだからということからなのだろうか。
 このあたりは覚えていないが、昔は正月に一つ年をとるのだから、それで正月を餅で祝ったというのだけは聞き覚えがあるから、その理屈を通すことになったのかもしれない。
 なるほど一年に一度家族の全員の誕生日を同時に迎えるのはめでたいことだし、生まれてから何年経つかではなく、何度年を越えたかという考え方なら、合理的だとも思う。同じ年になったり一つ上になったりでは、同学年なのに先輩になったり同輩になったりとおかしいからだ。
 クリスマスプレゼントも意義を感じなかった。もらっていたときは、くれるからただありがたいと思っただけだ。意義のないものをもらい続けると、人間は心を失う。心を物に託すというのがプレゼントなのだから、そのプレゼントにどんな心が託されているのかを解読できなければ、無闇に物をもらったという経験だけを積むことになる。こうして心と物とがはなれていく。与える方も与えられる方も物欲だけが満たされればよいという空疎な関係が芽生える傾向が無意識の領域にうまれるおそれはないだろうか。
 そんなこんなで「クリスマスプレゼントに何がほしい?」「クリスマスプレゼントに○○ちょうだい。」こんな会話がなされること自体が言語道断だという話になった。
 こうして僕はクリスマスプレゼントを失った。そのかわり世間の子どもたちが楽しみにしているクリスマスプレゼントの代替品として手編みのセーターとかマフラーをもらうようになったように思う。これはプレゼントのきっかけとしてその機会をクリスマスからいただき、風邪を引かないようにと親が気持ちを込めて作った物をもらうようになったのだと幼心に思ったものだ。
 だから、友達の家に行くと玩具がたくさんあるのだが、僕の家には何もなかった。紙と粘土とブロックだけはあったので、絵を描いたり、ゲームを作ったり、粘土細工をしたりと、ずいぶん安上がりな家だ。要は家が貧しかったのだ。そのおかげで、友達の家にあった玩具を覚えておいて、家に帰ってからそれを思い出して紙に書いたり、もっと面白い仕掛けを考えてその仕組みを書き添えたり、もっとかっこいいデザインを思いついてアイデアを書いたりと長期間楽しむことができたように思う。
 貧しいと言えば小遣いも少なかったように思う。中学生のときでも、本を一冊買えば、一か月分の小遣いはすべてなくなるのだ。仕方ないので本屋さんで立ち読みすることになる。端から順番に全部読もうというものだったが、一日中がんばっても数冊しか読めない。ついに立ち読みで膝を痛めてしまった。それ以来、物が買えなくても、店が保管してくれているだけだという感覚になってしまった。すると、あらゆる物は自分の代わりに他人がお金を出して保管したり、活用してくれているのだという感覚にも発展し、地球上のあらゆる物は自分の物かもしれないと思い至り、物欲がなくなっていった。立ち読みにも意外な効果があったものだ。
 速読も次第に身についていったように思う。テーマで追っていくから、別の本になっても違和感が少なかったのと、立っているから疲れて、早く読もうとしたのが理由かもしれない。
 このようにある程度の貧しさならプラスのことの方が多いような気もする。お金でカバーした分だけ自分に身につくはずだったものが欠け落ちていくことも案外多い。器用貧乏というが、貧乏だと何でも自分でこなす器用さを身につけるということなのだろう。これは体を使い知恵を使い、人を使い仕組みを使い、そうしたことで日常的に面白さと達成感を味わうことができる。お金を使えば楽だが、楽なだけでたいして本当には面白くはない。楽しかろうとまたお金を使うが期待したほど面白くはない。若いときに貧乏になるほどお金を貯めて、老後は適度に使うというのが、人生の楽しみ方なのかもしれない。
 しかし、貧しさにも限度がある。自転車も買ってもらえなかった時期がある。中学校から高校のはじめまで、友達が自転車で走るのに、僕だけ自分の足で走っていた。これは疲れた。しかし、どういう訳は足は速くならなかった。あまり友達と遠くまで行動できなくなったし、友達が気の毒がって二人乗りをしようと言ったりするので、交通ルールを守らなければ行けないと考えていたぼくは、自然と行動範囲が狭くなってしまったのだ。二人乗りぐらいというかもしれないが、僕の場合は、そこから出発してとめどなく違反を犯していったり、犯罪を犯したりする虞があるのだ。だから、最初の第一歩で踏みとどまらないといけないのだ。そういう性格なのだから自分で気をつけるしかない。
 ともあれ、学生時代の貧乏な時期が異様に楽しく充実していたのはおそらくその貧しさのせいもあるだろう。しかし、ただ貧しいのでは心も貧しくなりそうで怖い。清貧というのが理想だろう。しばらく清貧を心がけようと思う。
 さて、「きよしこのよる~」清らかでありたい。クリスマスはそう諭してくれる日にしよう。「ほしはきたり~」救世主の登場だ。しかし、何から救われるかをきちんと自分で知っていないと救われないのだ。知っていないと救われても救われたという実感が湧かないのだ。さてさて、僕は何から救われればいいのだろう。人類は何から救われればいいのだろう。
 これはさておき、今でもキリスト誕生とクリスマスプレゼントが感覚のうえではどうも結びつかない。幼い頃にクリスマスを失った体験があるからなのだろうか。クリスマスケーキは誕生ケーキとしてキリストがもらうべきもので、自分が食べるなどおこがましいと思っていたころが懐かしい。

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どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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