突然思い出したこと68「歪み」

 歪むということ。問題は、どう歪められたのか、あるいはどう歪めたのかということ。さらに、その結果、実際にはどう歪んでしまったのかということ。
 すべてが同じだと互いに区別がつかない。しかし、何らかの拍子に歪んだり、敢えて歪めたりすると形を意識する。その歪み方や歪め方の違いで自分と他との区別ができるようになる。形が変わりにくいものなら、あり方が変わったり、あり方を変えたりする。また、性質が変わったり、性質を変えたりしてみる。いずれにしても歪んだことには変わりない。
 他との区別によって役割分担が容易になる。役割に不都合が生じるときは、再び歪め方を変化させるだけだ。
 役割分担があるからこそ、任すことと任されることが可能となる。役に立たない歪み方は受け入れられないだけだ。
 ただし、いつも自分と比べている近くの存在が同じように少しずつ歪んでいくと、歪んでいくこと自体が分からない。すると、歪んでいても歪んでいないように感じられ、自分の存在意義が希薄だと思うようになることもある。役割分担もしにくいから、チームとしての働きも悪くなる。
 そこで、さらにその共通した歪みを基本として自分なりに少し歪め、他との比較において自分自身の存在を確認できるようにし、取り敢えずは安心しようとする。さらに、よりよく命を全うしようとすれば、無理なく合理的に機能しなければならないから、水平方向の役割分担や垂直方向の役割分担をし、他と協力し合える体制を組み立てていく方向に変化させる必要がある。自分という箱を上手に収めるさらに大きな箱を作り上げるためにだ。
 このたゆまぬ変化が同じく変化を続ける周囲の状況に適合し、合理的な歩みを続けることができる。
 個性というのはこのような特化ともいうべき苦し紛れの成果だ。苦し紛れではあるけれども、努力と譲歩との成果であるという点で尊いものだ。
 しかし、歪みには性格の歪みというものがある。これも何かに都合がいいように目的的に表面だけ歪んだはずが、何を間違ったか不幸なことに人格の中枢まで歪んでしまったのだ。そのために不都合が起きていることに本人が気づいていないのか、変化するエネルギーがないのか、とにかく変化することを忘れてしまったかのようだ。歪みを生かした生き方ができる環境があれば探せばよい。なければみずから作り上げればよい。作れなければ我慢すればよい。我慢できなければ歪みも少しは変化するだろう。変化できなければ破滅すればよい。破滅しなければ周囲が破滅に導くことになる。このように性格の歪みは恐ろしい。ピンからキリまでの体験を豊かに積んで歪まないように予防するしかないだろう。
 歪みといえば、日本女性の髪型は江戸時代の間に随分と歪んだものだ。手間暇かかるだろうにそれが複雑化したのは、ステイタスと関連性でもあったのだろうか。結い方を誰が考案し、流行させたか分からないが、今となっては民族衣装を纏うときに鬘が要るというのだから、誠に奇妙な事をしてくれたものだ。それでも、江戸時代の日本髪を他国で流行させるという可能性を遺産として残してくれているのだからありがたいと考えよう。

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どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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