日々雑感153「貧困なる話術」

 どんなに正しい考えも、程度を甚だしくすれば、残念ながら大方は誤った結末を導き出すことになっている。
 食事は大事だというのは正しい。しかし、いくら食事が大事だからといって、朝から晩まで食べ続けていては、必ず病気になる。
 命は大切にしようという考えは正しい。しかし、毎日食している生き物の命まで救おうとすれば、たちまちこちらが飢えてしまう。
 夢が叶えられるように努力するというのは正しい。しかし、いくら夢が叶っても、医者やサッカー選手、弁護士やアイドルばかりになってしまっては、経済が成り立たない。
 国民総大金持ちでも困る。1000万円払うからコップ一杯の水を持ってきてくれだの、1億円払うから靴を真っ直ぐにそろえてくれだのと言いかねない。自分で行うことが少なくなり、誰も働こうとせず、好きなボランティア活動しかしないから、ついには何も処理されず、何も手に入らなくなり、最後は金ばかりがあふれて残る。
 自分が主張が正しいはずなのに、なぜか間違っているという指摘を受けたとき、意図的に自分の主張が相手によって意図的に誇張されている場合がある。これによってどんな主張も正しくないものにされてしまうから恐ろしい。
 これは幼稚な手法ではあるけれど、日常会話の中の一つの話術としては許されるかもしれない。しかし、日常会話ではない場合に、無意識のうちにこの手を使うというレベルに話術が停滞している場合には問題がある。いつかどこかで相手をやりこめた快感がまだ残っているのだろうか。
 知らぬ間にこの類の貧困なる話術に頼っていないかどうかを確かめる必要がある。それには書きためたものを読み返せばよい。自分の文章を読み返すと、貧困なる話術に頼らざるを得ない国語力の衰えを感じる。その衰えは、いくつかの貧困なる話術に頼ることによってもたらされたものでもあろう。これをスタイルだといえばそれまでだろうが、変幻自在の豊富なスタイルを持たない限りはただの書きぐせにすぎない。

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どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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