日々雑感154「耳を傾ける」

 後で分かるということ。「下衆の後知恵」に通ずるものがあるが、そうではなく、体で覚えていたことについて、そのときには知り得なかった理屈や心構えが後で分かってくることがある。
 分かってくると、体で覚えていたことがより確かなものとして身についたり、不足している部分に気づいたり、誤解していたことが修正できたりする。さらに、進化させることも可能だ。稽古というのはそのために繰り返されるのだろう。
 しかし、そのレベルに達するには、それ相当の年月がかかる。続けることの重要性はこんなところにもある。ところが、「まだそんなことをしているのか。よくあきないなあ。」と言われることもある。その言葉に心が揺らぐようでは修行が浅いということなのだろう。聡い人々はよい意味での見切りを見つけ、必要でなくなれば離れる。だから、愚直に続ける人を見てこのように言うのだ。しかし、凡人には続けないと分からないレベルというのがある。どこまでも扉があるのだ。それを一つ一つ開いていくのは何と刺激的であることか。この楽しみを知ってしまうと、分からないことがありがたく思われてくる。
 そうとも知らず、十代の頃はいつも「何か面白いことないかなあ。」などとつぶやいていたものだ。身の回りには実に刺激的なもので満ちあふれているということに気づかなかったのだ。物事を見る物差しを持たず、ただ面白いことを見つけようとしていたということだ。何とも悲しい受け身の生き方をしていたものだ。
 ところで、すべてが刺激的であるからこその疲れや麻痺もある。何に麻痺しているのかなどということも、きっと後で分かるのだろう。全く凡人というのは困ったものだ。これには、先に目を覚ました人の言葉や自分にないものを持っている人の話に耳を傾けることぐらいしか対策がないのかもしれない。いろいろの年代や職業の方とつきあってお話を聞くのは実際の生活では難しいが、ネットならある程度は可能だろう。
 もちろんネットなので、ネット用に制限されたり、編集されたりしたお話になるのだが、それでもたいへんありがたいものだ。

広告

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
カテゴリー: 日々雑感 パーマリンク