日々雑感204「髪の毛の長さ」

 髪の毛の長さには不思議を感じる。どうして僧侶は髪を剃るのだろう。どうして女性は長い髪を好むのだろう。本来生えてくるものを剃るのだから、僧侶の剃髪は自然の流れに逆らう行いとなる。あるがままではなく、あるべき姿となるために修行しているのだという心がまえを見た目に表したものだろうか。世俗から離れて、つまり迷いに満ちあふれた人間的な生活から離れて、真に人間的な生活を送るための道を探究するということの象徴だろう。しかし、その精進の象徴がどうして髪の毛だったのかということに疑問が残る。
 さて、修行が毎日の僧侶は、その成果を世俗の人々に還元しなくては存在価値がない。読経なら世俗の人でもできる。お経の意味も解説本をや専門書を精読すれば、世俗の人でも知識的には僧侶と同等になる。現代の僧侶たちは世俗の人々との違いをどこで示そうとしているのだろうか。もし、世俗化してしまった自分たちを見直すことからというのなら情けない。いつまでも寺にこもっていては、世の迷える人々を救うことはできまい。
 寺に駆け込むという言葉があるが、自ら足を運ぶ者がどれだけいようか。ひとりとして駆け込む者のいない寺は既に民から見限られているということだ。その方が煩わしくないから、それをいいことに改善を図ることを怠っているのであれば、寺(僧侶)の権威は地に落ちたといってよい。聖書の言葉に叩けよさらば開かれんとあるが。寺の門は果たして開かれるだろうか。
 仮に長髪の僧侶がいたとする。しかもカラフルに染めていたとする。世俗のものはこう思うだろう。髪を失い、僧衣にすることで服も失い、家庭を持つことも捨てた「覚悟ある人」とは思わないだろう。世俗の人々が手に入れたいものを捨てることによって、世俗の人々が持ち得なかった徳をおさめた方と思いたいのだ。長髪で、しかもカラフルに染めていたら、現物を華美に仕立て上げ、物にとらわれていると感じるに違いない。それでは世俗の我々と変わらないではないか。確かに同じように悩んでくれるかもしれないが、それだったら友達でも事足りたはずなのだ。
 こうしてみると、髪の毛は世俗の象徴にも思われてくる。体の中で唯一形を変えられるのは髪型だ。顔つきや姿勢は、心のあり方を変えないと改善しにくいが、髪型なら簡単に変えられる。失恋して髪を短く切る女性もいるかもしれないが、とらわれる心がやはり反映されている。あれば必ず形を整えるのに時間を費やし、白髪になったといっては染め、薄くなったからといって補うというように、手入れに時間がかかる。修行の妨げになるものは少しでも除去しようというのが僧侶の心意気というものだろう。
 「身体髪膚これを父母に受く。敢えて毀傷せざるは、孝の始めなり。」と孝経に孔子の言葉としてある。髪の毛は、「髪」だから、これを捨てるのは不孝ということにはならないか。もちろん仏教と儒教とは違うので、問題ない。また、親も捨て、財産を捨て、仏の道に入ったのなら、親不孝のように見えるかもしれないが、真の親不孝ではあるまい。もちろん「寝台白布これを父母に受く。敢えて起床せざるは、孝の始めなり。」ともじって寝坊を決め込むのは親不孝者に違いない。「もじる」というのは「捩る」と書くらしいが、仮に「文字る」からきたとすれば面白い。
 ところで、女性の髪が長いのはどうしてなのだろう。どの民族でもやはり女性の髪は男性より長い。どういう利点があるのだろうか。カールさせたり、結ったり、編んだり、装飾品をつけたりするのには、やはり長くしておかないと不便だ。
 特殊な例としては、髪型で年齢を表すということがある。母の通った中学校は一年生がおかっぱ頭、二年生が分け髪、三年生が三つ編みと決まっていたそうだ。上下関係が髪型で一目瞭然となり、トラブルは少なかっただろうと善意に予想しておこう。髪型が変わることで心機一転、けじめがつくという利点もあっただろう。また上級生としての自覚を持ち、下級生の面倒を見るという心構えが髪型を契機に形作られたと想像するに難くない。
 髪型ということで性別を無視してみると、いくつか考えないといけないことがある。
 第一に、身分による髪型の差別化だ。殿様の髷と家来の髷とお百姓さんの髷が、やはり同じではおかしいだろうと時の人は思っただろう。すると、僧侶が髪を捨てたのは、身分を捨てたということを意味するのかもしれない。もちろん捨てたというより、僧侶という身分を得たと言ってもよい。結局、僧侶とはいえ、世俗で暮らす以上は、山で修行をしているときとは違い、身分というものにとらわれざるを得ないに違いない。
 次に、地域による髪型の特殊化だ。文化が地域によって大きく異なれば、それが髪型の違いにも現れる。征服された地域が、征服した地域の髪型を強要されるということも弁髪令のように当然あるはずだ。同じ心であることの証明として、髪型を同じにするということは、小グループでもよく見かけることだ。学校間でもそうした傾向は見られる。ある種の職種でもこれによって見分けることが可能な場合がある。
 もしかすると、こうした流れの中で女性の長髪化がなされてきたという事はないだろうか。現代はファッション化によって、かつての伝統文化としての髪型というものは消えたように見える。個人趣味が流行し、芸能人が無言無給の広告塔となる場合もある。
 伝統的な日本髪といっても江戸時代も半ば以降の特定の層の髪型のように思われる。女性の伝統的な日本髪を平安時代の庶民ふうとか、鎌倉・室町時代の武家の娘ふうにするとか。奈良時代の貴婦人ふうといういう手もある。これらをファッションとして復活させるのも面白いかもしれない。
 ただし、手入れの問題がある。髪型が複雑になればなるほど、手入れがたいへんだ。複雑でなくても、長いだけで手入れがたいへんだ。こうした手入れに時間を費やすようにしむけるよい傾向ではあるまい。女性の時間を奪うことになるからだ。手のかからない髪型をしている人はやはり活動的だ。作業の邪魔にもならない。これをもって現代的な女性とするのはどうだろう。もちろん昔とは異なるので、そういう意味からは現代的とは言えるのだが……。
 男性が、所謂女性的というものを髪に求めるのは当然で昔から女性の魅力の一つであった。また、求められた方がそれを受けて、美しく見せるのも自然ななりゆきだ。これがただ長くて黒くて豊かであればよいという時代から、次第に変形が始まる。一度曲がり始めると、非可逆的に進化しはじめる。絶滅をまたねば、新たな始まりはない。
 こうなると、美しく見せるという最初の目的から少しずつ離れて、「そういう髪型だからそうする」という意識の低レベル化が起こったり、髪型のための髪の毛という意識になって、本末転倒になったりしたのではないかと過去のことながら心配する。かろうじて、そういう髪型から少しだけ変形させて冒険してみるということに気持ちが向いていったりするときに、最初の目的に戻りかけるのではないかとも想像する。
 ちなみに、自分で日本髪が結える一般人がどれだけいるだろうかと調べたくなってくる。日本髪といっても簡単なものから複雑なものまであるだろうが、まず結うことはできないだろう。和服も着付け教室に通わないときちんとは着られない。髪を結うのと同じで、着るのにも時間がかかる。この点から和服は合理的でない服だとした経緯がのあるかもしれない。しかし、仮に、「伝統を大切に」と発言するならば、和服の着方ぐらいは義務教育で習うようにした方がよいと訴えていくのが筋だろう。髪型は鬘で間に合うが、服は着るしかないからだ。
 長い髪を洗うのは多量の水とシャンプーが必要だ。これは水資源の節約と下水処理ということから考えると、洗車と同じで再考しなければならないことになる可能性がある。
 このように長い髪は魅力的ではあっても、現代社会では邪魔なものになりつつある。電車の中ではすり切れ、ネクタイピンに絡まり、ろくなことがない。手入れには時間だけでなく、お金もかかる。男性の女性化、女性の男性化が進んでいるから、髪型もこれまでのような性の差別化の機能が衰えていくと思う。しかし、だからといって、その機能がなくなるわけではない。別の形で機能し続ける。つまり、女性内での差別化だ。差別化という言葉では語弊がある。区別というのがよいかもしれない。
 個人個人がさまざまな髪型をすることによって、自分の顔に合わせたり、場に合わせたり、生きる姿勢を表現したりするようになっているのが現代だと思う。流行もあるが、流行したものは何処かで生き残っていき、髪型の多様性を増していくようにも思われる。封建社会の髪型とは違う自己表現の髪型だ。この表現という点で女性は男性よりもすぐれていると思う。
 男性は型にはまって同じように動かないと、その社会を支えることが不可能だったという長い歴史があった。文字どおり殺すか殺されるかという修羅場をくぐり抜けてきた種族だ。それに対して、女性は魅力的であることを強要された長い歴史がある。男性から見て魅力がなければ、苦難の道を歩くことになる時代が長かった。美しく自分を表現するということ、コミュニケーション力によって、殺伐とした環境にある男性を癒すということが必要とされることが時代が長かったのではないかと想像する。
 今や命のやりとりということは、日本の男性社会にあっては極道の世界以外にはない。そうなると、自分を美しく表現するということに専念することができる。男性を癒すのではなく、お尻を叩いていればよい。殺されはしないのだ。しかし、自分で命を絶つことはある。女性の自殺は少ないが、男性の自殺は女性の一言で減る可能性があるのではないかと思っている。
 統計を見ても、女性の自殺者数は毎年ほとんど同じであるのに対して、男性の方は社会状況の変化で年々大きく自殺者数が変わる。大雑把に平均すれば、女性の二倍以上、三倍未満の自殺者数だ。人口は次第に増えていることから考えると、女性の自殺率はどんどん減っているのに対して、男性の自殺率はそれでも次第に増えている。全国統計を眺めれば眺めるほど、文字どおり生き残る力が強くなった女性は、生き残る力が衰えている男性を救う義務があるのではないかと考えてしまう。
 女性は自分を取り巻く環境の変化に対して、うまく適応する力を持っているのではないか。卓越したコミュニケーション力による発散とすり替えと思わぬ有力な情報入手、地域社会への根付き方も男性とは違う。変わり身の速さとか、心変わりなどは得意中の得意かもしれない。これではなかなか自分では死なないだろう。そもそも生命を宿して産み育てるという機能を持った者たちは当然死ににくくつくられているはずだ。
 環境の変化に対する強さは、髪型を変える範囲の広さ、可変度の高さにあるかもしれない。髪型を変えて気分一新する。長い髪を切って遮二無二生きる決心をする。魅力的な髪にして自己満足する。何でもござれだ。
 髪型の可変度が高ければ、生まれ変わりやすいのだろう。髪型を変えて、一度死ぬのだ。気持ちの変化を促し、今日からの自分はこれまでの自分とは違うのだという強い暗示をあたえるには、髪型を変えるのがいちばんだ。鏡の中の自分を見てはっきりそう意識できるだろう。従って、どんな髪型にも対応できるように普段はいくらか長くしておく方が都合がよい。死にたいとき、思い切った髪型の変化をさせるためにだ。
 長髪の男性が増えたが、同じことが言えるのではないか。ファッションに隠れていたが、長髪化の理由はもしかするとここにあるのかもしれない。何とかしぶとく生きなければならない時代だという自覚の一つのあらわれだろうか。ホームレスが長髪なのは、散髪するお金がないというだけの理由ではないかもしれない。
 短髪の男性は命をかける。もう一段階進めて髪を剃れば、命を捨てたということになる。生き仏というぐらいだから、仏となるには死なねばならない。しかし、本当に死んでは修行も布教もできないので、俗世間では死んだということにし、俗名も捨てる。ひたすら仏の道を歩み、民を救わねばならない。特に自殺者が急増している男性については、女性はもちろんのこと、僧侶も救いの手を差し伸べなければならない。男女合わせて毎年三万人を超すこの国の自殺者は、やはり多すぎる。
 それにしても青少年の自殺がここ10年、20年で約半分に減っているのはどういう努力の結果なのかは分からない。地域社会は崩壊しているので最初から該当しないが、命の大切さを強調した学校の努力の結果か、自殺する大人の話を聞いて自殺への嫌悪感を自ら高めた結果か、自殺を禁止する宗教家が人知れず努力した結果か……、どれも考えにくい。まさか髪の毛の長さ?
<自殺を考えている人は読んじゃ駄目 画像クリックで説明画面へ>
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どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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