日々雑感211「衣食住」

 衣食住。「怪しい広辞苑」シリーズを書くために広辞苑第四版を読んでいるときに目に入った言葉だ。改めてこの言葉をかみしめてみると、いろいろな思いがわいてくる。たくさんの家族で小さな家に住んでいた時代、比較的極限の生活をしていた下宿時代、かなり古い家で過ごした時代、建て替え時に一時的に過ごした借家時代等。振り返ってみるといろいろな転機があったあったものだと懐かしい。都合8回は引っ越しをしていることになる。荷物の管理が悪かったために大事な物がその度になくなってしまう。実に愚かなことだ。
 引っ越すにあたっていつも思うことがある。荷物を見るにつけ、収入も生活様式もそれぞれに違うせいか、「衣食住」のあり方も少しずつ変化していくのだなということを思うのだ。また、一つ一つの品物を箱詰めしていると、人というものは「人間らしい生活」をしようとして随分と面倒なことをしているなと感じる。
 これについては、周囲の多くの者が「人間らしい生活」という流れに従って生活しているので、その流れの中で生じる面倒なことも、一つのあきらめとして執り行ったり、解決したりしているにすぎないという見方もできる。
 物の見方や考え方、暮らし方などが歴史の移り変わりの中で変化していくのは仕方ないことだ。そして、その傾向としての流れに沿って生きることが、その時代を生きる人々のほとんどの人にとっての目的となる。その目的を果たすための最初の方途として「人間らしい生活」を目指すという共通の目標を掲げることになる。これが幸福感の土台になっているはずだ。それはいつの時代、どの社会にも共通したものであるとは限らないように思われる。
 この「人間らしい生活」を目指すという目標は、あまりにも大勢の者が掲げるので、その中で競争が生まれたり、結果の評価が下されたりする。こうしたことやこうしたことによって生み出された結果に不満な者たち、あるいは競争に怖じ気づいて最初から勝負をしたくない者たちは、目標の解釈を変えたり、別の目標を掲げたりする。こうして「大きな社会」の中の一部の者は、オリジナルの「小さな社会」を創作し、その中で邁進することになる。これはよいことでもなければ、いけないことでもない。ただの必然だ。趣味の世界やアンダーグランドの世界もそうした「小さな社会」に含まれる。
 しかし、そうした社会の中でも結局は規律や競争や評価がうまれるので、それに不満な者たちなどが、さらに「小さな社会」を創作していく。これ自体にもやはり問題はないが、限度を超せば、目に見えぬ意識の迷路が入りくんで奇妙な世の中が構成されていくおそれがある。同じこの世に生きていながら、この世に生きていない人々の群れが漂うことだけはくいとめたいものだ。
 このように考えると気持ち悪いが、昔からそうだったと思えば我慢もできる。また、全ての人が同じ物の見方をしていることの方が気持ち悪いとも言える。しかし、だからといって「小さな社会」のすべてが認められるわけではない。「大きな社会」の多くが怪しいのと同じで、そこから生まれた「小さな社会」もその多くが怪しいと想像する。経済の仕組みにあまりに上手にからんでいるものやいわゆる精神的なリーダーが君臨しているものは、「大きな社会」「小さな社会」を問わずに怪しいと疑うべきで、さまざまな調査をかける必要がある。
 ところで、僕たちは、「大きな社会」であれ「小さな社会」であれ、労力を費やしている対象に価値を認めることができなくなったとき、あるいはそうなりそうなときには、労力を費やすこと自体に価値を認めるという芸当をやってのけることがある。正統であろうとするための努力は健気だが虚しさも感じる。
 しかし、これをもっと推し進め、敢えて無駄なことをしたり、面倒なことをするということに生きがいを見出す場合もある。病的に思われてしまう場合もあるけれど、同じことを目指す者同士が多く集まり、経済活動を行うようになれば、そこにもそれなりの価値が生まれ、「大きな社会」からも認められるほどの存在になることもあるだろう。
 もちろんその中にも他の「小さな社会」と同様に競争や評価が生まれる。それゆえか本人たちはいたって真面目に労力を惜しげもなく費やす。それは本人たちにとっては生きるということ自体だからだ。別の社会を地盤としている者が彼をそこから引き離してしまうと、たちまち彼は無力化して滑稽な存在となってしまう。これはお互い様だ。逆に彼がその者をその社会から引き離して彼の社会に連れ込めば、その者はやはりたちまち無力化して滑稽な存在となってしまう。
 正装している集団の中に一人普段着でいることは滑稽だ。逆に普段着の集団の中に一人正装でいることも滑稽だ。「衣食住」もこうした点から考えると単純で面白そうだ。
 みんながカレーライスを注文しているなかで特上ランチを食べること。貧民街に豪邸を建てること。また、その逆。全部滑稽だ。滑稽な存在でないようにするためには、周囲に合わせるか、自分を特別の存在として認めさせるか、そのどちらかを選ぶ必要がある。
 周囲に合わせるのは無難な方法だ。ほとんどの人は無難な方法をとるので、一団体が自由な服装であるのにもかかわらず、どこかしら似ているということはよく観察される。仕草から歩き方、話し方から驚き方までに多くの共通点を見出すことができる。しかし、リーダー的な存在はやはりどこか服装が似ている中でも少し違うということが観察される。アクセサリーが余分についていたり、服の色遣いが少し多めだったり、派手めだったりする。
 これが動物ならどうだろう。「衣」はイソクズガニやミノムシなどがすぐに思いつくが、どれもカムフラージュで目立たない。もちろん人間の「衣」も特徴的な体形を隠すという働きをもっている。また、会社員の背広姿や制服などは、個人的な側面を隠し、会社の一員として働いているということの象徴となっている。
 しかし、やはりそうした服装で括られた社会のような「薄い社会」のなかでも競争や評価はあり、どこか違うところを演出しなければ認められないということはある。体格にあった服装や着こなし、ポケットから出す小物や目立たぬアクセサリー類のような小さな主張は好ましく受け取られるはずだ。逆に、認める側から見れば同じ背広や制服でもだらしなく着るか、さわやかに着こなすかで、目に見えない心を測定するしかない。仕事の成績だけで人を判断するのは運やタイミングの要素があって不公平になるからだ。
 いろいろなもので括られた「薄い社会」はいろいろな集団をまたがって存在する。特定の歌手を崇拝する「薄い社会」もあれば、1980年生まれという「薄い社会」もある。
 集団の中では管理能力が問われる。管理職は部下たちがそれぞれの管理能力をどう発揮しているかを管理している職だとも言える。管理能力が不足している部下がいれば、その不足によって起きる不都合を他の職員が補わねばならなくなる。これが全体の能力低下につながる。それを防ぐとともに全ての部下の管理能力を高めていくのが管理者の仕事になるはずだ。
 自分の服装が管理できない者に仕事に対する管理能力があるかといえば、ノーだ。しかし、仕事に対する管理能力があるものの全てが自分の服装を管理できるかと言えば、やはりノーだ。
 「衣食住」を維持するには管理能力が必要だ。観察力、知識、常識、センス、経済力、愛情等々、さまざまな力を背景として管理が展開することになる。そうした内的なものの表れとしての「衣食住」を考えるのも面白い。
 「衣」についての管理は、適切な素材とデザインのものを取りそろえ、汚れを取り、敗れたところを繕い、分類保管をしなければならない。「食」についての管理は、適切な素材を取りそろえ、危険部位と不要部位を取り除き、汚れを取り、形を整え、必要な熱と味を加え、腐敗せぬように保管しなければならない。「住」についての管理は、適切な土地に適切な規模とデザインの建築物と周辺施設、内装と家具類を取りそろえ、汚れを取り、必要な換気、照明、空調によって室内の環境を整え、傷んだ部分の修繕と必要な改装を適切に行いながら施設管理をしなければならない。
 大人になるということは身の回りの管理、家族の管理、自分の仕事の管理、仕事仲間の管理ができるということだろう。管理というと締め付けのようなイメージがあるが、それは下等な管理方法によるものだろう。衛生管理、備品管理、人事管理が崩れれば問題が起こり破滅に向かう。それは締め付けだけでは到底実現できないことばかりだ。
 備品管理で言えば、備品を使わずに倉庫に保管しておけばなくなることもなく、書類上の問題は起こらない。しかし、それは管理ではない。活用し、効果を上げ、壊れたら修理し、不足すれば買い足し、売ってなければ開発する。こうした一連のステップが合理的に流れていくように力を加えるのが管理するということだろう。使うな壊すなという締め付けではなく、使う者が思う存分に使えるようにし、効果を生み出すようにしむけることがポイントとなる。
 これは家庭でも同じだ。「衣食住」についての管理とはどうあるべきかということの基本を小中学校の授業でもっと時間を割いて教えるべきだと思う。管理するのは面倒なことだが、軌道に乗れば、無意識のうちに、あるいは抵抗感なく実現できることだ。これを「しつける」という。「人間らしい生き方」をこうして手にしたときに、その社会の中では円滑に生活できるようになる。これが幸福の第一歩を築くことになるはずだ。
 人生斜に構えて「小さな社会」をつくりあげようとしている者は、その幸福を否定することからスタートしている可能性がある。これを常に自分自身で疑い、そうではないことを確認する必要がある。どこかに酸っぱい葡萄にしてしまう心がありはしないかと考えている人はたぶん大丈夫だろう。もしそうでなければ、それが本当の自己満足というものだろう。

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