恐怖シリーズ103「変わらないこと」

 「いいスタートだ。」が、「イースター島だ。」に聞こえたり、「かなり熱いの食べた。」が、「カナリアついに食べた。」に聞こえたり、「そういえば、ちょっと臭わない?」が、「総入れ歯、ちょっと臭わない?」と聞こえたり、「だいぶ使った。」が、「大仏買った。」と聞こえたりするのは、どういうときか。
 こうした聞き違いは、ぼんやりしていて頭が働いておらず、状況とは関係なく、聞こえたままに感じてしまう状態のときが多いように思う。あるいは逆に、ある特定ことで頭がいっぱいの状態のときにも多いように感じる。
 前者は、聞こえた印象に合うようにランダムに意味を拾ってくるので、奇妙な文となることもあるが、偶然にまともな文となることもある。後者は、ある特定の分野に関する語彙を選択的に拾ってくるので、聞きたい内容に近い文を頭の中で組み上げることが多い。
 しかし、どちらも聞き取り内容の決定を、そのときの頭の中の状態に依存しているから、自分を取り巻く状況や発言者を取り巻く状況から得る情報に乏しく、現実に対応していない理解をしてしまうため、錯覚という評価を下されることになる。
 発音が明瞭でないときには、こうした錯覚はさらに起こりやすくなるだろう。大型車の警告で「バックします!」というアナウンスがあるが、エンジン音や町の騒音も手伝って「ガッツ石松!」に聞こえる。状況から考えて「ガッツ石松!」という聞き取りは不自然なのだが、ガッツ石松の面白さを期待していたり、逆に必要以上にけぎらいしているという聞き取り側の個人的な状況があれば、ガッツ石松氏の登場を願う気持ちや意識的に拒む気持ちから「バックします!」を「ガッツ石松!」と聞き取る可能性が高くなることが予想できる。
 しかし、「バックします!」のような聞き違えが冗談ですませられるのに対して、重大な聞き違えもある。また、聞き違えているわけではないのに、別の意味で理解している場合もある。この誤解は普通はコミュニケーションを重ねるうちになくなっていくものだ。
 しかし、自分も周囲も長期間気づかずに誤解が相も変わらず生き残っている場合もある。これは恐ろしい。特に日常生活であまり頻繁に使用しない言葉や似た言葉が他にある場合には、その傾向が特に強いように思う。
 さて、頻繁に使用しない言葉にはどのようなものがあるか。第一に、口にするのがはばかられる言葉。例えば、隠語などの非社会的、反社会的な言葉、差別に関係する言葉、性的なものを表す言葉など。第二に、いわゆる難しい言葉。専門用語、中途半端に馴染みのある外来語など。第三に、誤解されやすい言葉。単語や文の構成が似た言葉、意味が似ている言葉、アルファベットの頭文字表現や長い漢字熟語の省略表現などのような省略した言葉などだ。
 この誤解が確認されるのは、言語環境が変わり、コミュニケーションに不都合が起こったときだ。異なる言語環境の中で比較がなされ、錯覚を自覚することが容易となるので、誤解もなくなっていくことが期待される。しかし、小さな世界に閉じこもっていると、言語環境が変わらず、この誤解が誤解のまま終わることになる。まずいことに、こうしたことも含めて大きな世界に出なくては刺激が不足するために進歩しないという自覚を持っていても、お釈迦様の掌の中に留まっている場合がほとんどなのではないだろうか。
 昔はそれであまり支障はなかったのだろうが、今の世の中はそうはいかない。小さな世界の中にいるままでネットでコミュニケーションに近いものが成立したり、経済活動がなされたりする。冗談ですむレベルの錯覚ばかりとは限らない。また、誤解の連鎖もある。恐怖の言語環境が次第に整えられつつあるというのだろうか。
 少なくとも単語の意味で少しでも怪しいと思われるものがあったら、すぐに辞書で確認するのが個人でできる誤解をなくすための基本的な予防法だ。しかし、悲しいことに言葉は時代とともに増加していくから、過去よりも未来の方が誤解も多くなる。誠に始末が悪い。多くの言葉を学習することにも困難がある。
 では、どの辞書を使えば、よりよいのか。広辞苑第五版を改訂して、広辞苑第六版を出版すれば、広辞苑がよいかもしれないが、今のままでは問題が多いので、出版までに何年もかかるだろう。
 もし、第六版を出版する気持ちがないのなら、それは罪なことだ。広辞苑第三版以降なら、まだ多くの家庭に残って使用されているからだ。早く改訂してより正しいものを提供するのが出版社の責任であろう。そのためにこれまで改訂し続けてきたのではなかったのか。
 確かに改訂しなくても、罰はないだろう。そうした罪に罰が与えられたという例はまだ聞いたことがない。調べたわけではないが、法律もないかもしれない。罰があるとすれば広辞苑離れという現象だけで十分だと思う。しかし、そんな仕打ちを岩波書店が受けるのは他社以外に誰も望んではいないのだ。誰より僕がいちばん望んでいない。
 もっとも岩波書店が広辞苑を捨てたというなら話は別だ。別の会社が頑張ればよいだけの話だ。しかし、温水器や暖房器具を自主回収している誠実な企業もあることを忘れてはいけない。命に関わる問題ではないからそんな必要はないと思っているのだろうか。いや、岩波書店がそんなことを思うはずがない。辞書にとって語句の意味の説明は命そのものだ。そして、言葉はこの国の文化、この国の命の部分に近いところにある。これを取り扱う出版社だから決してそのようなことはないはずだ。
 そういえば、広辞苑第三版には人の命に関わる誤記があることを忘れないでほしい。第四版以降を購入していない利用者には正誤表を配ってほしいが、そのためには他の誤記や不適切な説明の訂正も付け加えてほしい。もちろん利用者登録などはないのだから無理な話だ。
 その前に、どこを訂正すればよいかを把握しているかどうかという問題がある。専門家やアルバイトに頼むお金がないのなら、僕が引き続きボランティアで利用者なりの素人手直しをしてもよいと考えている。広辞苑のためだから頑張ろうという人間が最低一人ここにいるというわけだ。もちろん権威など僕には微塵もないので、記述内容を採用したり、指摘事項を参考にしない方が無難だ。ただし、利用者がどう思っているかは理解してもらえると思う。利用者を無視した辞書など何の価値もないのだから、広辞苑第六版には期待している。

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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