変な疑問75「一人称」

 中国語かと思ったら、日本語だった。テレビのニュース番組のインタビューで田舎のおばあさんが話しているのを聞いてそう思ってしまったのだ。音量が低く、おばあさんが早口だったこともあり、内容は分からない。すぐに場面も変わってしまったので、どこの地域の何のインタビューかも分からない。
 音量が低かったため、発音は分からず、イントネーションだけが分かったのだが、とても日本語だとは思われなかった。おばあさんの顔を見て、日本人かもしれないと思ってよく聞いてみると、最後は日本語として聞き取れた。
 この中で、不思議に思われたのが、「わし」という言葉だ。言葉の流れの中で、おばあさんが自分のことを「わし」と言っている部分は、どうにも耳には「我是」なのだ。どの地域のおばあさんなのだろう。
 言うまでもなく、「我是……」といえば、「wo shi……」だ。「wo」は第三声で、「shi」は軽声となる。このイントネーションは中国語のままだ。不思議だ。
 「わし」という一人称は、平仮名で書くと「わし」だが、あのおばあさんの「わし」は、無理矢理に片仮名にすると、「ウオシ」だ。正確に書こうとすると、「ウォシ」になる。
 画面から消えたおばあさんの「ウォシ」を繰り返し頭の中で再現しているうちに、特に第三声を意識して発音すると、「ウワヌシ」というように「ヌ」という発音が幻聴のように聞こえてくる。これは単純化すると、「オヌシ」とか「ワヌシ」とか聞こえる。このようにないはずの発音が、前後の発音やイントネーションの関係で、幻聴のように聞こえるてくるような現象は何と呼ばれているのだろうか。
 ところで、「オヌシ」と言えば、「御主」という漢字を当てがわれている「おぬし」がある。「ワヌシ」と言えば、「和主」という漢字を当てがわれている「わぬし」がある。「和主」は「吾主」とも書く。
 「御主」と「和主」は二人称として使われている。しかし、「和主」のもう一つの表記である「吾主」の「吾」はどうにも一人称の「吾」だ。
 この一人称と二人称の混同は何だろう。時代劇で「おのれ!」と言って斬りかかる侍は、なぜ「おのれ」という自分を指し示す言葉を、相手に投げかけるのであろう。小さな男の子に、「これは僕のかな?」と言うとき「僕」はその男の子のことだ。これはなぜだろう。
 「自分のことは自分でやれ」という言葉を相手に投げかけることにヒントがある。これは相手に対して言っている「自分」だから、「自分」は「相手」のこととなる。従って、単語としての「自分」は一人称だが、この文脈の中での「自分」は「相手」のことだから二人称的に使用されたということになる。この「二人称的自分」が一人歩きをして、二人称としての「自分」が成立していくことになるのだろう。
 これと同様のことが起こった結果、「吾主」「和主」「御主」が二人称になったという可能性はないだろうか。つまり、たいへん乱暴だが、これら二人称の前身は「我(是)」という中国語の一人称だったかもしれないという想像をしてしまったのだ。かろうじて「吾」がその名残を示しているというわけだ。もっとも、今どき「わぬし」などという日本語を操る人はいるはずもない。
 しかし、待て。あのインタビューされていたおばあさんの地区ではわからない。どのような地区にどのような日本語の古い形が残されていて、それが日本語と中国語の関係を解きほぐす材料になるやもしれぬ。
 想像はさておき、日本語のように一人称や二人称にたくさんの言い方がある言語はいったいどのような文化をもっている人々によって紡ぎ出されたというのだろうか。

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