怪しい広辞苑142「第四版153ページ・一揖」

 広辞苑第四版153ページ「一揖(いちゆう)」の説明。
 「ちょっとおじぎをすること。」とだけあるが、それでよいのだろうか。確かに「揖」も礼には違いないが、礼は礼でもどのような種類の礼であるかが分かるような説明でなくてもよいのだろうか。これを怠ることは、日本の精神文化を風化させていくことになるのではないだろうかという危機感を持つ。広辞苑第六版ではどのようになっているのだろう。
 さて、日常生活で一揖するときは、どのようなときだろうか。
 相手を発見するタイミングが悪く、礼に費やす時間を確保できず、通常の礼がしっかりできないときには、たとえ最敬礼をすべき相手であっても、軽く頭を下げて間に合わせるしかない。それでないと、敬意を表す行動が完結されず、かえって失礼となる感じがするからだ。そうした事態にこちらが追い込まれているということを相手が理解しているということを祈るばかりだが、ことは複雑だ。
 また、遠い位置で相手を発見した場合は、その地点で深々と礼をするのはいかにも間が悪く不自然だ。そこで、発見した時点で一揖し、随分と近づいた後、通常の礼をするのがよいように思う。知らぬ顔をして近づいていき、そこでやっと深々と礼をするのも不自然だ。また、随分遠い地点で深々と礼をした後、一分ほど歩いて接近し、そしらぬ顔で通り過ぎるのはおかしい。一度遠い地点で深々と礼をした後、接近し、再度深々と礼をするも、はなはだ不自然に思われる。
 最もよいのは、相手がこちらに気づかず、こちらは遠くから発見している状態で、接近すべきか、回避するかを判断する時間があり、接近中も相手が気づかず、10mぐらいの地点で相手がこちらに気づいたときに、お会いしてうれしいという歩調で数歩歩いて止まり、深く礼をするというタイミングだ。しかし、現実はそう都合よくはいかない。
 発見するタイミングが悪く、礼に費やす時間が確保できない場合は、どうだろう。言葉をかけ、頭を深く下げている間に、礼を尽くすべき相手がそれにつきあわされる形になり、例えばそのために電車に飛び乗ることになったのでは、当人は礼を尽くして満足できたかもしれないが、相手に対しては失礼極まりないこととなる。飛び乗れたのならばまだよいが、乗り遅れた相手が目の前にたたずんでいるという結果となれば、目も当てられないこととなる。
 ここは略式の礼であるという意味づけをされた「揖」を行うことで礼を尽くすのがよいだろうということになる。また、あまりないことではあるが、自分が礼をしたら相手が迷惑に思うと感じられるときには、人知れずやや離れた位置から一揖するのがよいかもしれない。
 広辞苑第六版ではどのような説明になっているかまだ知らないが、「ちょっとおじきをすること。」と第四版には平仮名で書かれている。これを漢字で書けば、「ちょっとお辞儀をすること。」となる。「お辞儀」というのは、頭を下げることだが、「辞」とは言葉の意味だから、本来は言葉によって相手に敬意を示すという、丁寧な挨拶のことを言うのだろうと思う。
 だから、言葉の本義を大切にする広辞苑にあっては「おじぎ」という言葉を使用せずに、「礼」という言葉を選ぶのがよいと思う。また、礼儀作法の一つなのだから、「ちょっと」という俗語で表現するのではなく、「すこし」とか「軽く」とかいう言葉にするのがよいように思う。すると、「軽く一礼をすること。」という説明がよさそうだということになる。そもそも、「お辞儀」を「おじぎ」と平仮名で書くことが怪しい。まるで、挨拶ではなく、頭を下げるという狭い意味でのお辞儀であることを強調しているかのようだ。もっとも、これは怪しいのではなく、配慮と言うべきなのかもしれない。
 次に、非日常生活で一揖するときは、どのようなときだろうか。
 武道の稽古に臨むとき、まず道場に入るが、このとき揖をする。これは普通に礼をしたり、深々と礼をするのが個人に敬意を表すときであるのに対し、道場全体という広い範囲に対して行うものと考えれば、深く頭を下げれば下げるほど対象がピンポイントとなる感じがしてしまうので、道場全体を視野に入れつつ軽く一礼をするのが道理にかなっているように思われる。一礼と言いつつも、形としては頭を下げて礼の形式なのだが、意識の面では、いわゆるお辞儀とは異なるように思う。
 これから非日常のエリアに入る、あるいは、入らせていただくという「臨む」心が中心にあるように感じる。これまでの日常に区切りをつけ、別世界にはいるための所作として位置づけだ。やや前に体重をかけて少し前傾するのだから、不用意に一歩前進することを抑制した状態だ。これは、自分自身の緊張感をよい意味で高めるための所作であると同時に、モードをチェンジしているということを周囲に示すためのものだ。それはそのまま、それなりの対応をしてよいという合図にもなる。
 また、相手に臨むときにも揖をする。揖も礼のうちだから、お互いに礼をするという言い方や、礼に始まって礼に終わるという言い方が生じるのだろうと思うが、これは誤解を招いていないだろうか。礼は礼でも、相手から目を離さない礼だ。
 深々と礼をするのは、目も伏せ、頭も相手に差し出して、全くの無防備の状態を意識的につくることだ。目を伏せるということは、情報を絶つということで、相手に主導権を譲る形だ。また、目を伏せると同時に、頭という急所、しかも脳天や後頭部を見せるということは、命を相手に委ねる形だ。試合の前にそんな態度を示すのは合理的ではないように思う。
 これに対して「揖」は、頭を軽く下げるとはいえ、相手を見たままだ。主導権を譲るわけではない。命も委ねてはいない。今から命のやりとりの稽古をするのだから、よい意味での緊張感を高めなくてはならない。従って、頭を下げたように見えて、実は頭を下げたのではなく、頭を相手に接近させる所作としての「揖」だと考えた方がよいと思う。
 試合というまた一段階別の世界に突入するのだから、「臨む」心をまたワンランクアップさせる必要があると理解する方が自然ではなかろうか。
 つまり、日常生活から道場へ、道場の日常から試合へと新たな局面に臨むたびに気持ちを引き締めることを目的として「揖」をするのではないかと思うのだ。
 ところで、試合が終わっても礼をする。この礼も、礼は礼でも揖なのではないかと思う。試合から道場の日常へと戻るのだ。それが証拠に手の届かぬ範囲で「礼」をしている。もし、「揖」ではなく、いわゆる礼であるのなら、手の届く範囲の中で目を伏せ、頭を差し出して急所を見せるべきであろう。
 こうしたこともふまえ、「一揖」についてただ単に軽く頭を下げることだと、見た目の部分だけを説明して終わるのではなく、どんな場合にどんな心構えでするものかということも専門家にまとめてもらい、短い言葉で説明すべきであろう。なぜなら、何といっても礼は心の問題だからだ。

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