突然思い出したこと105「切腹」

 切腹は孤独だ。しかし、相棒がいないわけではない。介錯人だ。介錯人は切腹をする者から見て、左手に座る。切腹する者に刃を見せないように抜いて立ち上がり、さとられず大きく振りかぶって右足から大きく踏み出しながら頸を切るのが作法だ。この介錯の仕方を突然思い出した。
 僕はこれを何度も稽古した。稽古しているうちに、果たしてこの一太刀で安楽死させることができるのかと不安になったものだ。また、柄に手をかけたとき、こちらを振り向いたらどうしよう、首を落としたとき、その首がくるんと回ってこちらを向いたらどうしよう、何かの間違いで血を吹き出しながら胴がこちらを向いたらどうしよう、そもそも切腹する現代人などどこにもいないのに、どうして介錯の稽古が必要なのかなどと、さまざまなことについていろいろに思った。
 キーワードは安楽死だ。自分で腹を割くのだから相当の苦痛だ。腹を十字に切り裂き、心臓を突き、頸動脈を斬るという一連の動きを、誰もが何のためらいもなく完遂できるものではない。なまじ途中でくじけたら悲惨な最期を迎えることになる。どうしても介錯が必要になる。切腹する者はこの介錯人には絶対の信頼をおきたい。
 しかし、介錯人にもピンからキリまである。介錯については素人の武士が臨時で介錯を務める場合もあろう。プロならばよいが、武士とはいえ介錯の素人では失敗もありえよう。
 また、意地悪な介錯人が首ならぬ手首を切り落として切腹を途中で中断させ、随分と苦しませるということがあるかもしれない。強い恨みを持った者が、いつか切腹するときに恨みを晴らそうと、ながらく介錯人として待ちかまえているというのは可能性としてゼロではない。その滅多にないケースに当てはまった者には安楽死は訪れない。これが発覚すれば介錯人も死罪になるかもしれないが、それは当然覚悟のうえのことだから問題はない。
  介錯について、このように考えていくにつれ、相手に不安を与えないこと、相手の信頼を裏切らないこと、不測の事態が起こっても沈着冷静に判断し、直ちに目的を遂行すること、相手に感謝されること、真摯な態度で人に接し、無心になって奉仕することなどの大切さが理解されてきた。
 つまり、相手を最大限に尊敬し、尊重する気持ちをもって接することの大切さを深く感じるようになっていった。これが、無防備の人間を殺す練習を繰り返しながら思ったことだ。明日は我が身かもしれないという想像力を土台に持つ謙虚な気持ちもあわせて感じることができる。だから、相手を尊敬し、尊重するといっても、媚びたり、調子のよいことばを並べるわけではない。これこそ民主主義の根底にある感覚ではなかったかと思うのだ。
 さて、命のやりとりという生物の基本的な営みの形から大きくかけ離れた「切腹と介錯」という特殊な状況を想定し、それを直視することで、僕たちは人間についていったいどれだけのことを学ぶことができるのだろう。特殊な状況であればあるほど、さまざまなテーマの典型が分かりやすい形で表面化しているはずだ。

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