恐怖シリーズ125「片目のダヤン」

 ダヤンはイスラエルの国防相だったが、ずいぶん前に亡くなった。何年前のことだろう。
 片目の人は身近にはいない。しかし、テレビドラマや映画の中では意外と活躍している。伊達政宗、柳生十兵衛、山本勘助、森の石松、最近はゲゲゲの鬼太郎だ。丹下左膳やネルソン提督に至っては、隻眼隻腕だ。
 丹下左膳の映画は幼い頃にテレビ放送され、強烈な印象を持った。しかし、所詮は架空の人物だ。ネルソン提督はあまりに遠い昔の人で、話に聞くばかり。英雄だろうが、結局は歴史の人物、過去の人だ。強烈な印象はあっても、現実感に乏しく、今ひとつ僕の心エネルギーにはなりにくかった。
 これに対して、ダヤン国防相は、もちろん、ブラウン管を通して見たのだけれど、役者が演じる格好のよい隻眼の戦士よりも、数段強烈な何かを感じた。それは、演技、演出によるものではなく、今を生きる本物だけが持つ切迫した緊張感、現実の時の流れが持つ動かしようのない重みだったのだろうと思う。
 片目のダヤンは隻腕ではない。しかし、大抵の報道は顔だけのアップが多かったせいもあってだろうか、なぜか丹下左膳やネルソン提督よりも傷だらけであるように思われたのだ。もちろん、顔面のアップ以外の映像は印象が薄くて、僕が忘れてしまっているだけなのかもしれない。それは、もしかするとダヤンの眼帯のせいかもしれない。そのせいで、顔面のアップでもないのに、顔面のアップという見方をしてしまっている可能性もある。
 ダヤンの眼帯はサングラスのレンズのような形をした黒い眼帯で、細い黒紐で固定されている。あの眼帯に隠された左目はどうなっているのだろう、どういう状況で左目を失ったのだろうなどという疑問がわいてくる。そのせいかもしれないが、随分と魅力的で素敵なものとして僕の目に映ったものだ。
 鼻や耳が欠けているのとは違う。目だ。人間の鼻だけや耳だけをじっと見つめているとなぜか滑稽で楽しくなって笑ってしまうが、目だけは例外だ。見つめれば見つめるほどに引き込まれてしまう。それが片方しかないということは、一つの目に自分の二つの目が集中することになるからだろう、ぐいぐいと引き込まれてしまう強い力を感じるのだ。それは目が円形であることと関係があるかもしれない。
 藤原道長は「この世をばわが世とぞ思う望月のかけたることもなしと思へば」と詠んだ。たとえダヤンでなくとも、その望月のごとき目を見ては、造形の美、完璧なもの、非のうちどころのないもののイメージによって心が支配されてしまう。また、その輝き、奥深い色を見ては、奥深い意味、奥深い心を読み取ってしまって、やはり心が虜になってしまう。満月を見てはならないという言い伝えがあるが、純粋な心を持った者ほど、目を見てもさえ、文字どおりルナティックになってしまうおそれがありそうだ。
 当時、ダヤンの言葉を理解することはできなかったが、片目と眼帯だけで外国人である少年を魅了するということは、このようなことも含めて恐ろしいことであるように思う。眼力というものはそういうものでもあるのだろう。幼くて、言葉を十分に理解できない者にとっては、言葉ほどに語る目だ。もともと目とはそういうものだったのかもしれない。言葉など最初からあったわけではないのだから。
 こうなると、眼力のような、論理を超越した力というものは特別なものではなく、原初的なものだということに気づかされる。この部分がやせ衰えていくことの恐ろしさと、復活してくることの恐ろしさは、どのように伝えていったらよいのだろう。
 さて、彼が見ていた右目の世界はどのようなものだったのだろうか。そして、覆われた左目で何を考え、苦しんでいたのだろうか。こうしてダヤンのことを綴るうちに、颯爽と闊歩するダヤンの姿が漸く記憶の底から少しずつ浮かび上がってきたように感じる。その記憶にまつわる別の記憶もたぐり寄せられてくる。そのたぐり寄せられ方はいつも同じであるとは限らない。
 それは記憶自体の衰退ということもあるかもしれないが、必要とされる記憶がいつも同じとは限らないということなのだろうと思う。記憶をどう解釈して利用するかは、どれだけ勉強をしているかにかかっている。記憶の量だけが多くても、使えなくては意味を持たない。正しく使うには正しく解釈できなければならない。これにはトレーニングが必要だ。
 正しい解釈というのは、その場、その課題に合った解釈のことだから、決まったものではない。たとえ間違った解釈をしていても、状況が変われれば、あとになってから正しい解釈をしたということにもなる。時を経てから漸く評価できるものの方が多いようにも感じられる。全く悠長なものだ。
 こうして、記憶は間違いなく今の自分に必要なヒントを与えるべく何年も何年も控えていてくれる。それにもかかわらず、今、ダヤンの記憶が僕に何を与えてくれるのだろうと考えても分からない。これは面白いと言えば面白いかもしれないが、頼りないと言えば頼りない。
 しかし、どのような記憶であっても、いつかは貴重なものとなるがゆえに、物事はよくよく心して覚えておかなければならない。日常生活の中で意識的に記憶する余裕などあるはずもな
いが、将来の自分にどのようなヒントを与えうるものとなるか、ということを一瞬頭に浮かべることぐらいはできそうだ。
 もちろん、将来のことだからあてにならないのだが、そのように覚醒した意識で物事を見ようとする癖をつけておかないと、いつまでも暗いトンネルの中を一人で歩いていくような人生になってしまいそうだ。つまり、大人になれないというわけだ。あてにならないものを確固たるものにしていく手際のよさというものが、生きていく上では要求されることが多い。それに応えうる能力は、おそらくどれだけ思春期でのたうち回ったかにかかっているだろう。
 のたうち回るには、それなりのレベルに達している必要がある。これを下まわれば、暴走し、これを上まわれば、問題を持ち越すだけだ。精神的にも成長しなくてはならないということだ。体格と違い、人格は大きな格差がつく。誠に人間というものは厄介で不公平なものだ。
 ところで、片足のヒーローはどうしていないのだろう。ぴょんぴょん片足で跳んでいたのではヒーローとしての威厳を示しにくいということもあろう。「ハウルの動く城」にかかしが出てくる。あれは随分とぴょんぴょん跳んだが、ぴょんぴょんかかしに変えられてしまったということは、そこまで、おとしめられたということだろう。
 しかし、片足も義足をつけると一変する。船長で義足の登場人物はヒーローに近い絶大な存在感をもつことになる。脚を失っているのに、逆にそのことがキャラクターの存在感を圧倒的なものにするのだ。
 これが義眼であればどうだろう。義足は働くが、義眼は働かない。明らかに義眼と義足は意味が違う。ところが、眼帯となると話は違ってくる。眼帯の中では架空の目が働き始め、無限の力を持ち始めるようにさえ感じられるときがある。
 ダヤン国防相のあの黒い眼帯に、死んでいった部下たちに対する鎮魂の思い、喪服の黒のようなものを感じている人もいるかもしれない。また、ダヤンの背負った運命、イスラエルの背負った宿命、そうしたものが凝縮されているように感じる人もいるかもしれない。
 しかし、所詮はただの眼帯、ダヤンのアクセサリーに過ぎない。意味というものは、どこまでも、どのようにでも見出せるから有り難く、だから恐ろしい。

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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