恐怖シリーズ128「もう一つのKY」

 「KY」は、「空気が読めない」を省略した表現ということになっている。しかし、僕としては、「空気が読める」とか「空気を読みなさい」とかを省略した表現としての「KY」の方が了解しやすい。どうにも違和感のある「KY」についてどのようなことが言えるか試みてみることにする。

①「空気が読めない」人を「KY」と表現するということの裏には、その表現を生みだして共有し始めた集団に、空気が読めない人が多いという実態があったのではないかと思う。
 なぜなら、逆に、空気が読める人が多いという実態がその集団にあれば、空気が読めないということは致命的であるので、「空気が読めない」の「ない」に表現の意識が集まり、省略される際にも「ない」が「N」などのように省略されて、「NKY」または「KYN」になると思われるからだ。
②本来、「KY」という二文字では、空気が読める人と読めない人を区別できない。それにもかかわらず、「KY」の二文字だけで「空気が読めない」という意味に限定してはばからない。これはどうしてだろうか。
 もしかすると、空気が読める人と読めない人との区別をする必要がない場面だけで使用される言い方であったのかもしれない。
 たとえば、空気が読めていると自認する人々が、一部の者に対して「KY」という言葉を使うという場面だ。つまり、誰かを「KY」と評価する自分たちにはお互い空気が読めているという共通理解が確立している場面だ。この共通理解をしているという安心感に包まれている集団は、批判、揶揄の対象である者に対して「KY」とだけ言う。明らかにその集団にとっては空気が読めていない状況に置かれている誰かをねらって表現しているのだから、「KY」は「空気が読めない」を意味するに決まっているのだ。
③「KY」は婉曲表現だとも言える。しかも、「なんだ、そのKYというのは!」と問いただされてもいろいろに釈明できる。「空気が読める」の省略ですよと逃れることすらできるずるい表現だ。他にも「漢字も読める」「綺麗な浴衣姿」「敬愛する友人(嫁)」「期待の嫁(横綱)」「完璧なやつら(ユニット)」「気持ちが優しい」「着こなし優雅(ヤング)」「空手(剣道)四段(四級)」「K1予備軍(やってる)」「健全なる山形県人」「かわいい(健全なる)八重歯」「顔だけヤクザ(ヤング)」「警察予備隊(呼びたい)」などと意外と逃れられる。
 「KY」以外にもう一文字付けて「空気が読めない」を表してしまうと、ごまかすのが途端にたいへんなことになる。

 残念ながら「KY」話を三つしかつくれなかった。脳の働きが悪くなったかもしれない。しかし、どうしてももう一つ加えなければと考えているうちに、突然「KY事件」を思い出してしまった。有名な事件だが、二十年近く前の事件なので忘れていた。脳の働きは悪くなったかもしれないが、記憶はどうやら残っているらしい。しかし、昔のことをよく思い出して、最近のことは忘れてしまうというのは、やはり危ない兆候のようのように思われる。
 さて、「KY事件」は、「かなりやばい事件」のことではない。例によって朝日新聞社の捏造記事事件だ。保護すべき珊瑚礁に自ら「KY」という傷を付けて写真に撮り、堂々と非難している記事を載せたのだ。自作自演のオウム真理教と共通するものがある。しかも、謝罪記事で「最初にあった珊瑚礁への落書きを分かりやすくするために工作した」という意味のことを載せたあとに、再び地元ダイバーの抗議があって、最初は何もなかった綺麗なところにわざわざ新しく「KY」と刻み込んだということが分かり、再び捏造記事に対する謝罪記事を載せることになったという仰天の顛末をたどった。
 僕の記憶が正しければ、同社は中学生にたばこを吸わせてそれを写真に撮り、学校の現状を示す写真として報道したということもあったように思う。珊瑚礁のKY事件はきちんと謝罪できたけれど、山のようにある捏造記事に対してはうやむやにしているだけだと思うがどうだろう。
 逐一調べて、公表する立場の新聞監視業が必要かもしれない。公正で公平な報道を実現するためには第三者機関の存在が必要なのは誰もが認めるところだろう。それを自前でやっているのだから、相当の社員教育が必要であるはずだが、そのプログラムの公表から始めることが大事だろう。同社の数々の捏造記事によって多くの人が不幸になっているように思うが、単なる思い過ごしであってほしいものだ。
 珊瑚礁の場合は自然保護関係者の怒りは買ったけれども、その人たちの生活を脅かしたわけではない。処分を受けた人々以外に不幸になった人がいないのだから、これについては謝罪をしたというのだろうか。そんなわけはないだろうが、そう思われても仕方ない対応を続けていると、読者は離れていくように思う。
 離れゆく読者をつなぎ止めるためには、またセンセーショナルな記事を載せなくてはならないという悪循環に陥っているとするならば、朝日新聞社にとっても、その購読者にとっても、あるいは日本にとっても不幸なことが続くのではないかと危惧する。センセーショナル、かつ人の自尊心をくすぐったり、抵抗勢力のようなふりをしたりする記事は、かつて中学生だった僕にも見え見えだった。
 大学時代にも下宿先へ講読を進める勧誘員が来たが、やり口が手が込んでいて高圧的だった。最初は一人だったが、次の日には二人がかりでやってきた。最後には何も答えられなくなった彼らは捨てぜりふを吐いて帰って行ったが、捨てぜりふにはきちんと答えるので、結局捨てぜりふも台無しになってしまった。次に日には三人がかりで来るかもしれないと待っていたのだが、もうそれきり来なくなってしまった。
 今思うと無下に断ったことは申し訳なく思うのだが、お金がないのだから仕方ないというものだ。それにしても、勧誘するには勧誘するなりの礼儀や態度というものがあるはずで、そうしたものは教育されなくとも身についているのが社会人であるはずなのに、社員教育もなされていないのか、どうしても押し売りにしか思われなかったのだ。
 そもそも、太平洋戦争でどれほど国民を煽ったか、そして戦後の北朝鮮に対する捏造記事によってどれだけ多くの人々を不幸にしたかは、膨大な数配られた新聞記事という動かぬ証拠が残っているので、こればかりは逃れようがないだろう。
 しかし、朝日新聞社としてはどれだけ批判されても、口をつぐんでいるのがよい。珊瑚礁のKY事件なら謝罪記事を出しても、自社内の関係者を処分すればよいだけだが、その他のものは、もうどうすることもできないだろうからだ。本当に謝意を表すとすれば倒産させるしかないだろうという人だっているかもしれない。それでも償いきれない罪を重く背負っているのだから、これをまず社員全体に自覚させることが大事だろう。新入社員教育の一環として行うのがよいが、それはそれで恥ずかしいことだから、きっと実施されないだろう。
 朝日新聞社は他社と比べ、あまりにも捏造記事が多いと言うことをよく聞く。恥も外聞もないのはどうしてだろう。これが同社の戦略なのだろうか。ネットで探してみると異様に多く掲載されている。他社と比べてどの程度多いかは確認できていないが、そのように言われること自体に問題があると思う。これはこれで不幸なことだ。同社で働いている人は朝日新聞社に勤めていますと胸をはりながら、後ろめたい気持ちを持たねばならない。
 体質というものは滅多なことでは変わるものではないので、今後も朝日新聞の記事には特に眉に唾つけて読まねばならない。これはこれで僕たち国民を少し賢くしてくれたということで多少評価できる点となる。
 まだ講読している人は捏造記事を探すのを趣味として講読している可能性もある。あの事件以来、別の新聞を購読することにしたが、あまりにも記事の論調が違うので、中学校の時感じたことと同じだなと思ったものだ。
 実は、中学生の一年間、高校生の一年間は、受験で天声人語からの出題があるかもしれないということで、朝日新聞を講読したことがある。それまでの新聞の活字に慣れていたせいもあるのかもしれないが、まず読みにくいというのが第一印象だった。しかし、慣れというものは恐ろしいもので、次第に苦にならなくなっていったのを覚えている。用語や記事の調子も最初のうちは先程述べたように違和感があって慣れなかったのだが、これも若いということはすばらしいことで、次第に慣れていき、苦にならなくなっていった。慣れというのは一種の自虐的な防衛反応なのかもしれない。
 とにかく日本経済新聞と地方紙と学生用の英字新聞を含めて実に四紙読んでいたことになる。今思うと新聞を読む時間が二時間ほどかかっていて、普通の中高生の受検勉強時間よりも確実に二時間は少なかったことになる。学習成績表に親のコメント欄に「新聞を読む時間が長すぎる」とあった。懐かしい話だ。
 さて、講読新聞社別の世論調査をすれば、如何に世の中のとらえ方が新聞社によってどのように偏向させられているかが明確になることだろう。食事といっしょで肉ばかり食べていても駄目だ。もちろん、水ばかり飲んでいても駄目だということだ。少なくとも三紙は講読しなくては、世の中をとらえる参考にはならない。これは辞書でもいっしょだ。一つの辞書で調べて終わりにしてはいけない。少なくとも三社の辞書を引いて比べないと恥をかくことにもなりかねない。
 新聞に載ったからと言って喜ぶのは、どこかに新聞至上主義のような変なものが巣くっているいる可能性がある。危ない危ない。自分も喜ぶ可能性が十分にありそうだ。何か事を起こすときに新聞社に電話するのも心理的に抵抗が大きい。どちらかといえば、載せてやろうという姿勢ではなく、載せてもよろしいでしょうかと伺いをたてに来るべきだろう。
 このあたりを勘違いしている記者はいないだろうか。批判されることのない特権階級にいるような気持ちになって記事を書くとき、新聞は滅びる。新聞が滅びたときには、社会も滅びる。そういう危機感を持って勤めているかどうかが問題だ。新聞社という単なる会社の道連れにこの国を滅ぼしてはならない。国が滅んだ状態というのが、焼け野原しかイメージできないような貧困なる精神ではまさかあるまい。
 せめて全て記事には記者の名前を書いてくれないか。匿名の者によって個人の名前を書き立てられるという不合理をまずなくすことだ。そうすれば、個人を相手にしているという感覚で記事を読むことになるので、疑う気持ちが正常に芽生え、正しく世の中をつかもうとし、自分の頭で考える習慣が身につくかもしれない。
 もっとも、自分で考える暇がないから新聞を読むということもあるのだけれど。だからこそ、信頼のおける新聞を選ばねばならない。では、その信頼はどのようにして作られていくか。捏造記事ができるだけ少ない新聞社の新聞を他紙と比較しながら読んでいき、何を書き、何を書かないかを十分見極め、文章の底を流れる書き手自身も気づいていないものをつかむという気持ちで読み込むことだ。
 とかく食に厳しい日本人が、情報に甘いのはどうかと思う。悪いものは胃袋から逆流して嘔吐される可能性もあるが、情報は頭の中に入ったら嘔吐することができない。いつまでも頭の中にあって思考や行動にかかわってくることになる。こんな恐ろしいことが他にあろうか。
<書名が怖い 画像クリックで説明画面へ>

<新聞も書かれる気持ちを知った方がよい 画像クリックで説明画面へ>

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
カテゴリー: 恐怖シリーズ パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google フォト

Google アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中