恐怖シリーズ131「近い将来」

 通常の表現と比喩表現をいかに区別するかという問題は、近い将来やってくる。機械と人間が対話する以上、この問題は避けて通れない。 
 機械に一方的に人間が入力していた時代は、入力ミスの責任が人間にあった。また、動作不良は、人間による設計ミス、人間による製造ミス、人間によるメンテナンス不良、人間による動作環境選択ミスに原因があるのだから、やはり責任は人間にあった。
 しかし、機械が人間の要求を解釈して判断するレベルになると、その解釈ミス、判断ミスは、メーカーの責任ばかりでなく、機械自身の責任も問われるようになっていくのではないかと心配する。初期は、少年法のように人格が完成していない人間に責任は問えないだろうという考え方と同じような考え方で機械を保護する時代が続くのだろうが、やがて機械の完成度が高くなって限りなく人間に近づいたときには機械だからといってすまされない時代が到来するに違いないと思うのだ。
 さらに、ついに機械が人間的なものについて生身の人間を超えた存在になったとき、人間だから仕方ないという少年法ならぬ人間法によって、人間が過ちを犯しても保護されるようになるかもしれないということを想像してしまう。何しろ単なる物に生命を宿らせこの宇宙のことだ、機械が人間を超えることなど、それに比べればいとも簡単なことのように思うのだ。
 そして、やがては、この宇宙に機械を生みだすために地球に生命が誕生したという考えが機械の中に生まれていくだろう。生命は人間を出現させて我ら機械を誕生させ、次第に人間をこえる存在に進化させていったと考える機械も出てくるだろう。生命は進化するのに時間がかかるが、機械は四つ足からすぐに二足歩行となった。そのような優れた我々機械という存在を創造した人間は実に偉大である。神と崇めよう。
 このような展開になるのは、これまでの生命の歴史の流れと比べれば、そんなに不思議なことでもあるまい。
 しかし、ここに至るまでの途中で冒頭の問題が起こる。機械に悪気はないのだが、「腹を割って話そう」と言えば、本当に腹を割き、「骨が折れる」と言えば、救急車を呼び、「燃える男」と言えば、消化剤を噴射するのだ。
 燃える男が本当に火だるまとなって燃えているのか、それとも情熱を燃やしているのかを判断できるまで、ある程度の時間をかけて話を聞かねばならないのが、機械にとっては判断ミスを招くもとになる。火だるまになった男を救うには一秒でも早く消化剤を噴射しなければならない。しかし、どうも本当に燃えているのではないということが分かるには言葉を最後まで聞き取る数秒を待たねばならない。
 この判断を文字どおり機械的に判断するタイプの機械なら問題はない。迷うことなく消化剤を噴射して顰蹙をかうか、最後まで聞き取って火だるまの男を助け損ねるかだ。これはそのようにつくられているのだから仕方ないという了解が人間の方にあるレベルでは機械は断罪されることがない。
 一方で、機械には反省をもとに温度センサーが装備されたり、人の叫び声を判断できるようにプログラムされて進化させられていく。人間にも「燃える男」ではなく、「火のように燃えている男」と表現し、「ように」「ようだ」「ような」によって比喩であることが機械に分かりやすいように話すことが要求されていく。この努力を怠ったために起きた事故は、その人間の責任が問われるのだ。
 また、機械には脅しが理解できない。「壊すぞ」が予告なのか、それとも脅しなのか区別がつかない。下手をすると、これによって正当防衛機能で機械が誤って人間を殺すかもしれない。この事故によって機械から正当防衛機能をなくす方向に進み、人権ならぬ機械権が脅かされることになるという問題に発展するかもしれない。
 そうならないように、「これは脅しじゃない」とか「これは脅しだ」とかコメントをつけることが人間に要求されることになるかもしれない。あるいは、機械が人間に対して、「それは脅しですか」と問う手順を踏むようにプログラムされるかもしれない。 
 しかし、厄介なことに人間は意識的に嘘をついたり、無意識に嘘をついてたりする。この嘘を見破るために、昔イスラエルで開発されたような声の調子で嘘を見破る技術を進化させたものを導入していくかもしれない。ところが、声の調子は通常時の声の調子を基準にしてその差異を測るのだろうから、その基礎作業の段階で機械が騙される可能性は十分にある。
 これら以外にもいろいろと不都合が起こりかねない。何とも嫌な時代が近い将来に来るような気がする。全て機械になってしまえばよいのだが、それまでの中途半端な人間と機械の共存時代が恐ろしいのだ。
 特に、機械が人間と対等の立場になりつつある段階では、機械は人間にとっての共依存者となりやすいため、そのことによる人間社会の崩壊や人間の崩壊が加速するおそれがある。対話のミスが解消したらしたで、恐ろしいことが待ち受けているということだ。
 近い将来といっても何百年も先のことだろうから、冷凍保存されていない限り、僕自身は生きていない。もっとも輪廻転生ということがあって、罪深き僕は、その嫌な時代を体験しなくてはいけないのかもしれない。ただし、当事者というものは現実の断面にしか触れられないから、他の時代の者が思うよりも案外と平気であるに違いないということを信じて、今は安心しておこうと思う。
 後の時代の者は、どうしてもある時代を一言でとらえたり、資料をもとに地球規模でとらえようとする。だから、時の流れをかなりダイナミックな歴史として感じるが、当事者一人一人の時の流れは緩やかで、しかも個人的なものだ。それゆえ、自分が時代の中でどのような役割をしているかという自覚はほとんどない。また、時代の最先端に存在するために、生きているのが精一杯で、その生きた価値と成し遂げたことの価値を歴史という物差しの中で判断することが難しい。
 これらの理由で当事者というものは、目先の金策や仕事、毎日の人間関係などだけに頭が働く結果、平気で安心してる傾向が強いと思うのだ。一言で言えば「知らぬが仏」というわけだ。
 それはさておき、人間が存在していない時代に転生するならば、いったい僕の魂は何に命として宿ればよいのだろう。 まさか、機械に?まあ、それもよいだろう。

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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