変な疑問95「ブランク」

  「行間を読む」という言葉がある。いくら行間を眺めていても、何も読めない。文字に表現されていない部分を読むということなのだが、それなら、「字間を読む」という方が詳細に読み取るという心意気が感じられる。
 どうしても「行間を読む」という表現が好みならば、細やかな心の動きや微妙なニュアンスをつかむという意味では、造語だが「字間を読む」「語間を読む」「文間を読む」などという言葉を使い、どうしても表現できない内容や敢えて表現しない内容を掘り出してつかむという意味では、「行間を読む」という言葉を使い、両者の役割を明確に区別すればよい。
 残すということがある。「行間を読む」という努力をするのは、わざと書き残した部分に読者を誘い込む作戦が功を奏したからだと解釈することができる。文章の結末を読者に預ける場合には、結末を残したということになるが、その場合には「行間」という言葉が不適切になる。
 発端の前を書かないのは普通のことだから、その場合には書き残したとは言わない。書き残したとは言わないが、そのブランクに読者は誘い込まれることになる。ここを如何に書かないかによって登場人物が魅力的な存在になるかどうかが決まるように思う。
 毛筆で字を書く場合には、どうしても墨で塗られていく線の形に目がいくが、残す部分をどうするかという問題を処理しなくてはならない。筆の跡は勢いや筆圧から、書く者の息づかいを感じ取り、そこから心に触れることができる。
 毛筆で字を書くということは文字をデザインするということだ。問題は、そのデザインが何によってなされているかが書き手にどの程度自覚されているか、そしてどの程度自覚されていないかだ。互いに占める割合によって文字の風格の度合い、書き手の人間性の滲み出方、そして作品の神秘性の漂い方が決まる。
 紙が白ければ、白いブランクをどう残すか、紙に色がついていれば、白いブランクの残し方とどのように変えればよいのか、模様があれば、その模様をどう残すか。問題はさまざまにある。
 絵画も同じだろう。何を画面に描き、何を描かないのかの両方を考えなければ、画面を構成できないはずだ。
 また、作品自体も画面が四角であることにも注目しなければならない。飾るのが四角い壁だからだろうか。逆に四角の壁に描いていたものを縮小したからだろうか。それとも、保管しやすいからだろうか。曲がった線の額縁よりも四角い額縁の方が作りやすく安価にできるからだろうか。
 これは画面を四角に切り取り、それ以外の世界をブランクにしたのと同じだ。
 対話する場合、沈黙をどこにどのように組み込むかで話の流れや深まり方が変わっていく。沈黙は「行間」というより、「語間」「文間」に相当する。話し手の沈黙が相手の発言を促す場合も多い。単に聞き手の発言を促すだけでなく、譲歩を促したり、逆につけ込んでくる機会を与えることにもなる。譲歩を促せば御の字だ。うまくつけ込ませれば、それに乗じることもできるから、計算された沈黙は会話の妙となる。表現された言葉を解釈し、沈黙を解釈して、初めて解釈が完了する。
 こうしたブランクの問題は、どこにでもあるように思うが、白紙答案、選挙の棄権(白紙投票)、国会での申し合わせ欠席、自殺などはどうなのだろう。何をそこから読み取り、どんな価値を与えていけばできるだけ多くの人々にとって都合のよいことになるのだろうか。

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
カテゴリー: 変な疑問 パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google フォト

Google アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中