日々雑感239「因果な天使」


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  理不尽なこと、奇妙な慣わし、不思議な言動はなぜか一様に堂々としている。これはどうしたわけだろう。堂々としているだけに傍から見ると面白いのだが、実際には甚だ迷惑なものだ。
 これら不条理な言動や事柄の数々にも、それ相当の背景があるのは間違いなく、その背景も当の本人にとっては当然のもの、あって当たり前、普段は意識しないが空気のようになくてはならないものであるはずだ。
 だから、たとえ他人にとっては不条理ではあっても、やはり当人やその集団や組織にとっては不条理ではない可能性が高い。それで、堂々としているのだろうが、思っているだけの段階から実際に行動に出てしまったり、内々の社会から異なる社会でそれを出してしまうと、嫌が応にもお互いに都合の悪い結果が出てしまう。
 その結果に本人自身や集団や組織自体が驚くのを待っていたのでは、周囲が迷惑だというものだ。もしかすると、周囲に迷惑をかけながらも、自分たちこそが被害者だと思っているのかもしれない。
 そうした言動や事柄の背景をつかめば、この不条理を不条理として認めさせ、解消することにつながるかもしれない。反社会的、非社会的なものとして表面化しているものだけをターゲットにしているのは、効率を考えれば適切な対応とは言えないだろう。
 適切な対応は、消火の要領と同じだ。派手にのたうち回る炎の動きに目を奪われ、炎に向かって水をかけていては火は消せない。昔から燃えているもの自体に向かって水をかけなければ火は消えないことになっている。僕たちは炎に水をかける愚行を犯してはいないか。炎どころか驚きの余り煙に向かってひたすら水をかけていることはないだろうか。それでは消火も防火も不可能だ。
 ところで、いろいろな原因があって人間はいろいろな結果を出す。よい結果ばかりではない。文字どおり因果な存在だが、その不幸の後ろにある背景というものは、原因とは別のものだ。また、きっかけと原因とを混同してもいけない。恐らくきっかけというのは、罪な背景を背にして因果な天使が肩に舞い降りることだと思う。
 火事の原因はたばこの火の不始末。そのきっかけは遅刻しそうになって慌てていたことだ。背景には、空気の異常乾燥、低血圧で朝が弱いこと等々。
 そもそも背景となるものにはどのようなものがあるのだろうか。よく考えてみれば、いろいろな背景がありそうだ。例えば、①宗教的②思想的③歴史的④政治的⑤経済的⑥軍事的等々のように大ざっぱな分類もできそうだ。

①宗教的背景の事情
 宗教的背景については、その起源が相当に時代をさかのぼることになるが故に、人の心の問題であるとは言っても、現実との乖離が進んでいる部分がどうしても生じる。そうした自己のねじれによって、現実との親和性が保ちにくいことがある。そのため、社会の水面下にそれとなく漂うだけであったり、逆に社会の表舞台で支配力をもってその存在を誇示したりする例も多い。
 前者は、自己内に必然的に生じていくねじれに対する自罰的自覚があり、それを昇華させた、あるいは堕落させた結果だろう。堕落した結果としては、葬式宗教団体としての脱宗教化、文化財管理運営団体としての宗教文化の創造ならぬ切り売り行為、営利団体化としての集金システム化などがあるだろう。
 後者は、自己内に必然的に生じていくねじれに対する他罰的自覚があり、それを対抗システムとしての国家までをも含む団体の形成や組織内に向けての規律厳格化にエネルギーを費やした結果だろう。 
  これらに親子関係、派閥間闘争などが絡んでくるから、生臭くなってくる。つまりは、宗教的背景といっても、純粋に宗教的なものだけではないと心得るべきだ。こうした純粋ではない宗教的背景の裏には、さらに経済的背景がある。この経済的背景というものは、どの背景の裏にも影法師のように存在する基本的な背景だ。

②思想的背景の事情
 思想的背景についても、恐らく基本的な事情は宗教的な背景と同様だろう。○○主義と自覚した途端に、思想が思想のための思想となっていく運命も同時に背負わなければならない。そのために、志ある思想家はその思想体系を修正し続けなくてはならない。そうした自己否定は思想家にとっては不名誉な作業であると思うのだが、完成度を高めると慰めつつ、その思想が廃れてついには形骸化してしまうか、作業者である自分が死ぬまで続けることになる。
 現実が変貌していくのに追いつけないお粗末な思想も、宗教の場合と同じで、二つの道が用意されている。しかし、堕落するにも昇華するにも、宗教と異なり、生活密着型ではないので、身の振りどころを見つけることが難しい。そのため、自己破綻をし始めたとき、自己維持のために蓄積してきたエネルギーが一部の者たちの手によって他者へ向けられることもあろう。他者が強大であれば自己破壊という愚かな道を選択したことになり、他者が弱小であれば蹂躙するという不始末をするということになる。
 また、難解な思想になればなるほど、誤解や曲解が生まれやすく、それを指摘できる者の数が少なくなるので、危うい道を歩む可能性もある。
 しかし、思想が背景にある不条理な言動や事柄は、その思想を学ぶことによって理解することができる。したがって、その不都合に対して対応することができる。
 対象となる者が、どのテキストのどこをどう誤解したか、また師事していた場合には、どの部分を強く感じ取り、どんな人脈を受け継いだかを知ることが大切なことになる。
                                                      
③歴史的背景の事情
 旧家というものがあって、それだけで人々の人望を集めていることがある。恐らく、代々長く続いている家であることが、とりもなおさず次のようなことを意味するという共通理解がなされているからだろう。
 つまり、その地で一時代を築きあげたという尊敬を受けているということ、この地に継続的に繁栄し続けてきた社会的な力や人脈がそれ相当にあるということ、長い年月の間にいろいろな家が恩を受けているということ、他の家とのトラブルやその種を抱えていないということ、仮にトラブルがあったり、その種を抱えていたりしても許されているということ、家系に遺伝的な問題がないということ、問題のある行動をとる者がないということ、等々。
 しかし、本当はマイナス面も同じほどあるのではないだろうか。旧家による理不尽な采配や奇妙な習慣、不必要な周囲の遠慮などはこれにあたるものだろう。
 さて、歴史というものは、勢力争いの記録と思われているふしがある。それは狭義の歴史だが、鮮烈な衝撃を与えてくれるのは歴史の中でも間違いなく勢力争いだ。もう、日々勢力争いをしている。しかし、過去の話なので気楽なのだ。目の前で血が流れるわけでもなく、自分の命が危なくなるわけでもないから、実に面白い。
 しかし、歴史を探り、その闇に想像の翼を広げているうちに、現時点での勢力争いのことを忘れてしまいそうになることがある。これは歴史の面白さに浸ることによって現実を見失うということになるから、歴史を学ぶ目的からすれば本末転倒と言える。
 しかし、そのような歴史マニアを意図的に増やしていけば、善人面しながら世の中をひっくり返そうとしたり、国民の目を盗んでいろいろな勢力が暗躍したりする目論見が暴露される確率はその分だけ低くなる。一種の目隠し効果だ。
 さて、歴史的背景を考える必要があると考えるのは、今の理屈や感覚では理解しがたい現象を目の前にして、それを解決しなければならないという立場に立たされたときだ。その歴史的背景が地域限定のものであれば、関係者には理解されていても、第三者には通常は理解されない。
 逆に、その地域では当然のこととして受けいれられていたものであるがゆえに、地域住民自体がその歴史的背景を自覚していないことがある。その時には第三者として歴史を眺めてきた者によってその不自然さが伝えられることになる。
 日本の気候に合わない珍妙な建築物群や洋装、不可解なレディーファーストの名残、大阪の笑いと東京の笑いの違いなどはこれにあたるものだろう。

 ④から⑥についても、①から③までと同様に、様々な不条理の裏にある背景となっているものだ。しかし、困ったことに、このように了解することによって、「だから、仕方ないじゃないか。そのような背景があるのだから。」と開き直りとも受け取れる捨てぜりふを叩きつける傾向も生まれてしまうことになる。
 これは、犯罪者の生育歴を調べて、「だから、この犯罪が起きたんだ。この人のせいじゃない。」という論理の飛躍を許す道をつけてしまう類の過ちを犯すもとになりかねない。
 「原子爆弾の開発が可能だったのは神が許可してくれたからだ。そもそもこの宇宙にウラン235を用意しておいてくれたのは神ではないか。それを扱えるようになった民族は神の祝福を受けているのだ。逆に、そうしたものを扱えない民族は神から見捨てられた者たちであるのだから、滅んでよいのだ。」「酒が飲める人と飲めない人がいるのは遺伝子のせいだ。私が酒を飲めないのはきっとそのせいだ。だから、私はあなたが注いでくれた酒を飲む必要はないんじゃないか。そもそも酒の席に同席したことだけでも評価してもらいたいものだ。」「麻薬を製造販売するのは、ほかに産業がないからだ。それ以外の産業が根づかないのは先進国のせいであって、この国のせいじゃない。だから、麻薬を作り続けるのは仕方ないじゃないか。」「世の中が悪いので、俺も悪くなった。だから、世の中に代償を払わせるのは当然だ。俺を裁いて罰するなら、世の中も裁いて罰せよ。」等々。
 単なる集団や組織による不条理な動きは不気味だが、こうした個人による不条理な言動は悲惨な感じを受ける。しかし、これらの言葉が実際に口にされたときには、結果はどうあれ、その倫理的でない論理を指摘して過ちを自覚させたり、彼が置かれた状況を変えるべく対策をとることができる。
 ところが、こうしたことも、思ってはいても実際に口に出すことなどほとんどないという場合や、恐らくは内言にさえもなっていない場合もあるから始末が悪い。
 そのようなものが思いとしてあったり、当然のこととして無意識の中にあったりするからこそ、それに基づいた不条理な言動をとるのだが、特に言動のスタートポイントが意識されていない場合には、すぐに反省することができない。
 必要なのは内省して、自分の心の中に言動のスタートポイントがどのように設定されているのかを内観することだ。言い換えれば、自分自身も気づいていない思いや了解に気づくことだ。これによって初めて反省できる条件がそろう。
  ちなみに、倫理というものがあって、人の道を外れてはいけないということになっている。すると今度は人の道とは何かということが問題になってくる。
 ところが、倫理観も世代や時代で変わっていくように思う。それは様々な背景が増え、言動や生き方の選択肢が広がったということと、人の寿命が延びたので、生き方や言動を選択する世代の数が多くなったことによる。いつの世でも変わらぬものと思っていた人の道も、いつかは変わっていくことを自覚する機会が増えたということだ。
 さて、現代の日本人は高学歴の者が多いので、専門的知識を中途半端に身につけている可能性が高い。これは見識の縦割り乱発だ。これがうまく組まれている場合にはその知見を生かすことができるだろうが、実際にはたとえ仕事であっても、最初から都合よく人々が組み上げられているわけではない。相互扶助のように助け合っているから何とかしのげるというのが現状だろう。
 しかし、相互に競争するように仕向けられている場合は悲惨だ。チームワークで得られるべきものを個人でひねり出さねばならない状況に追い込まれる場合もある。
 ほとんどの人間が農民だったころはまだ全人的な能力で対応できるので、心身ともに比較的健康的だ。しかし、複雑な社会になってしまった結果、一人一人が細分化されてしまった。細分化された分だけ自分を生かす道も狭い。
 それだけに、自分の歩むべき道から外れている感じをもっている者の割合が増えている可能性が高い。疎外感が生まれ始める。それどころか、ニートで引きこもりのように最初からお手上げ状態で、歩むべき道自体に立つことさえできない者が増えている。社会から切り離され、常識が常識ではない状態になっていく。さらに、人間として成長する機会を失っていく。人間にもなれず、動物にも戻れない中途半端な存在のまま、世の中への逆恨みを抱き続けるのだろうか。
 働かざる者、働けぬ者、働かせてもらえぬ者、働いているつもりの者、働いてはいるが不満のある者、働いているだけの者、働いて満足感を味わっていると思いこんでいる者……。様々の者が幽霊のように、あるいは悪鬼のように暮らしている。毎日毎日を、悲しみや苦しみが変形した笑顔で一点を見つめて暮らしている。
 街を歩くと、歩く姿に活気を感じてごまかされてしまうが、電車に乗ると手足の動きが取り払われてしまうので、一人一人からにじみ出てくるものが何となく伝わってくるように感じる。不条理の言動の奥に、ばらばらになった一人一人のうめきが呪いのように伝わってくるように思われてならないのだ。
 電車は座席を減らしてはならぬ。あれは座っているから暴れないだけだ。暴れるには一度立たねばならぬ。そこにワンクッションあるから、辛うじて暴れないだけだ。座席指定はよい。それだけ余分にお金を払う余裕がある者は最初から暴れない可能性が高い。
 しかし、一般車両の座席はゆったりさせてはならない。あれは微妙に肩が触れあう距離だから警戒することに優先順位があり、それで辛うじて暴れないだけだ。体格が向上し、肩と肩の距離が狭まると、事態は変わるかもしれない。
 満員電車は満員電車でいい。暴れようにも体が動かない。しかし、そこから解放されてホームに出たときがもっとも危ないタイミングとなる。気をつけよう。誰かがいらついて、手で人を殴るかもしれない。しかし、それは遠い昔、地球のどこかで誰かが直立歩行を始めたからではない。 
 電車に乗るとき、聞こえてくるもの。本人が自覚しているかどうかは別として、次のように聞こえてくる。

俺の時間をかえせ
俺の青春をかえせ
俺の俺という意味をかえせ
……
無理なんだね
では
俺は俺という意味を探す旅に出よう
誰かの青春をいただき
永遠の時間とともに流れよう

 幸福の天使たちが世界中にあふれているはずなのに、どうしたことだろう。残念ながら実は僕もまだ見たことがない。ただ妖精が天使のふりをして僕の肩に座っている。でも、いつもにこっと笑うだけで何をするというわけでもないのだ。こいつは妖精が天使のふりをしていると見せかけている天使なのだろうか。光の羽ばたきが黄金色に時々鋭い。こいつは因果な天使に違いない。またわずかに微笑んで不条理の小さな手紙を僕に少し差し出して見せている。

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どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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