恐怖シリーズ141「揺れる心」

 手の大きさを錯覚することがある。
 最も正確な比べ方に近いのは、物差しなどの基準になるものをあてがってお互いの手の大きさを測定することだ。しかし、手のどこからどこまでを測るのかを決め、測り始めと測り終わりの場所を同じにしないと、正しくは比べられない。測る場所のずれから生じる誤差と、物差しなどを読み取るときの誤差の分だけはずれることになるが、これは仕方がないことなのだろう。
 次に正しく比べられそうなのは、お互いに手の平を合わせて側面から見て大小を判定することだ。これは基準となる合わせはじめの場所がずれていたり、どちらかの手の平が少し反っているなど、お互いに真っ直ぐになって合わさっていなかったりすると、合わせ面が曲がっていることによって誤差が生じ、それが手の微妙な大きさの違いよりも上まわると大小の判定を誤る場合がある。
 また、合わせ面が少し曲がることによって目の錯覚が生じ、長さが違って見えることもある。同じ大きさのバナナも並べ方で長さが違って見えるのもこの目の錯覚による。
 あるいは、自分の右手と相手の左手、自分の左手と相手の右手を比べることになるという不都合もある。これは左右の手のどちらかが年齢を重ねるにしたがって生活経験の違いを反映し、幾分大きくなったり萎縮したりしている可能性もわずかながらあるということによる不都合だ。肉体的に同じ経験を積んでいるのなら、左利きの人と右利きの人の組み合わせがよい。利き手同士、利き手でない同士を比べることになるからだ。 
 ただ、これは物差しなどの器具を使うよりもスキンシップが生まれるので、そちらの方を目的にした方がよさそうだ。
 次に正しく比べられそうなのは、お互いに体の向きを同じ方向に向けて横に並び、指先の方向と手の平の方向を同じ方向にし、左に位置するものの左手と右に位置するものの左手を左右に平行に並べた状態で目視による大小の判定をすることだ。
 左右に並んでいるので比べやすいが、目で見た印象で判定することになるため、手の甲の色の違いや肉付きによって手自体の大きさを錯覚する場合がある。
 最も比べにくいのは、お互いに体を向かい合わせにして比べることだ。この場合は、目の錯覚というよりも、手の構造上の問題で自分の手の方が小さく見えてしまうことになる。自分の左右の手はおよそ大きさが同じはずなので、片方は自分から外に指先を向け、もう片方は手首の関節に少し無理があるが、自分の方に指先を向けて横に並べてみると、前者の方が小さく見える事に気づく。左右逆にして比べても、やはり自分に指先を向けた手の方が大きく見える。
 よく手のつくりを観察すれば、その理由が分かる。手の甲側の指の付け根の関節から手の平の指の股にかけて約45度の傾斜があるからだ。自分の手の甲を見たときに目の位置と手の位置とで作る角度も約45度なので、視線とこの傾斜が一致してほとんど目に入らなくなる。これに対して自分の方に指先が向いている相手の手の甲を見たときには、この傾斜部分がほぼ視線と直角になって目に入るため、その実寸が目にはいり、その分だけ手が大きく見えるというわけだ。
 このことから同じような手の大きさの相手と向かい合うときには、互いに相手の手の方が大きく見えるため、体が向かい合うことによる以上に、いっそう防衛本能や攻撃本能が働きやすくなると予想する。腕や手がこちらに向かって突き出された格好になり、攻撃や防御の姿ともなるものだから、その手が自分の手よりも大きく感じられるという錯覚が自然と心に大きな影響を与えてしまう可能性がある。
 逆に、横に同じ向きで寄り添う場合は、横にいるという親近感、そして横にいることを互いに許したという暗黙の了解、視線の回避などに加え、手の大きさが同じ程度であるということによる安堵感が生まれやすくなると予想する。
 この中間にある互いの体の向きが直角に交わる並び方からは、適度の緊張感と適度の安堵感が交錯したバランスのとれた心理状態になると予想する。要らぬ敵対心や根拠のない親近感という極端な状態から解放される並び方であろうと思う。
 ただし、これらのいろいろな効果は、互いに手が見えていることが必要だ。立って手の向きが下を向いてしまったり、ポケットに手を突っ込んでいたり、腕組みをしたりして手を隠していてはいけない。
 しかし、たとえ手が見えていなくてもこれまでの感覚がよみがえって、似たような心理状態が生まれるということはあるだろう。ある人の前に立つと緊張するとか油断するというのも、現実の感覚によるものではなく、過去の強烈な印象の記憶によるものである場合がある。自分を相手に意識的に印象づけようと思ったら、手や指が相手によく見えるようにし、比較的大きなジェスチャーでころあいよく、身体表現をするのがよいだろう。
 本当のところはどうか分からないが、案外こんなつまらないことで心というものは揺れ動いてしまっているのかもしれない。そうと考えると、非常に恐ろしい。確固たる自分というものの存在が危ういものであるように思われてしまうからだ。突き詰めて考えていくと、周りのさまざまな刺激に必要以上に神経質になってしまいそうで仕方ない。これもやはり恐ろしいことだ。
 ただ、さまざまな刺激があるので平均化してしまっているということもあろうかと思う。その証拠といえそうなのは、ある特定のものが気になり出すとほかのものが目に入らなくなり、特定の気分がわき起こってくるということがある。これは誰もが経験していることだろう。それならば、気を散らせばよいという話になるだけだから、ことは単純だ。ただし、いくら単純でも、それが簡単であるとは限らない。

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