恐怖シリーズ142「主旋律」

 主旋律を歌えないことによって生じるフラストレーション。
 男性であれば誰でも学生時代の音楽の授業で経験することだ。中学高校時代で味わうことになるのだが、これは誰の何にどんな影響を与えているだろうか。多感な時期だけに恐ろしい。
 ところで、多感である理由は何か。そもそも多感とは何か。多感にも二とおりの意味があるように思う。いろいろなことに対して感じやすいという多感と、少しのことに対しても感じやすいという多感だ。多感といっても、感性が豊かであるとは限らない。どちらかといえば、多感な時期を経ることによって感性が豊かになっていくように見える。鋭い感性が磨かれていく過程はその先だ。
 一見、子供の感性が鋭いように感じられるのは、語彙不足であるがゆえに特異な表現となってしまったものを、大人が大人流の解釈をしてしまうことによって「この子の感性はなんて鋭いのだ!」と思ってしまうことに原因があるように思う。
 また、子供の感性が豊かであるように感じられるのは、大人であれば既に日常生活の中で解決している事柄に関する物事に対しても子供にとってはそれがまだ新鮮な刺激であるため、他意もなく自然と目を向けただけであるのに大人の方で自分が忘れていたことやあきらめていたこと、あるいは自分に必要でないと判断していたことを敢えて指摘されたような気持ちになって「この子の感性はなんて豊かなのだ!」と思ってしまうことに原因があるよう思う。
 だから、子供の感性を大事にするということを間違って解釈してしまうと、大変なことになる。せっかくの素晴らしい子供の感性の開花を事前に摘み取っておきながら、この感性が大人になるにしたがって失われるのが実に惜しいと平気で放言するようになる。
 大人というものは子供を育てるときに立派な双葉になることを目標にして育てているのではないはずだ。子供の感性が失われていくのは、生活の必要に応じて大人の感性が育っていくからだろう。大人としての感性が育たないようにしていくには、大人の世話を常に受けている子供の状況に人々を押し込めておくことが必要だ。あらゆるサポートやサービスを充実させていくことによってそれは実現可能だろう。
 当然、子供のままの感性がとめどなく育っていっては大人社会を生きていくには不都合が多い。それゆえ、子供の未熟な感性から大人の感性に進展させていくための訓練が国家や地域社会や家庭で行われたり、自己の行き詰まりや自分を取り巻く環境の中で起こった事件を契機として自己研修に励んだりしなくてはならない。特に、通過儀礼のシステムがほころびてきた現代日本社会では、自己責任による自己研鑽が必要とされているが、世の中の古い仕組みはそれを支える力を持たず、新しい仕組みの基本的発想にはありながらも有効な実現手段があまりとられていないように見えるのが残念だ。
 しかし一日中、大人の感性だけで生きてけば、大人は大人であることに疲れてしまう。そこで、心のどこかに子供の感性を残しておき、タイミングよくそれを発動することによってリフレッシュを図る。そうした原初的な感性に戻るということは、疲れを癒すだけでなく、活力を得たり、新しいアイデアを得たりすることにつながる。疲弊した現代文学が万葉集に回帰することによってエネルギーを得るのと似ているかもしれない。
 このような子供と大人の感性のボーダーにいる時期にあっては多感にならざるを得ないだろう。成長とともに次第に生き方の勝手が違ってくるから、何にどう対処してよいか分からないのだ。だから、アンテナを高く張り、感度を高めずにはいられないに違いない。自分を取り巻く世界が広がるのに合わせたそうした対策が、物事に過剰に反応したり、そのことによって逆に無関心な分野ができてしまったりする。
 一度かかわると視野が狭くなってしまうのは、こうしたことが原因となっている可能性がある。恋に陥りやすいのも同一の原因だろう。「もうあなたしか目に入らない」という視野狭窄で過剰反応の世界だ。これは同時に情報の遮断効果をもたらし、恋が成就することを助けているように見える。ところが、恋愛結婚後はさまざまな社会との関わりを持たざるを得ない時期を通ることによって幅広い視野を持ち始める。
 このときにまでに、いかに大人として成長しているかが問題となる。その成果如何によっては、婚姻関係を継続させるなかで互いに成長を続ける二人となるか、離婚によるリセット効果を期待して振り出しに戻り、自分を見つめ直すという段階に立ちもどるかという二つの道の間のどの辺りを歩むことになるが左右されることになる。
 特に青少年の時期、なかでも中高生の時期にさまざまな体験を積んで、大人としての感性へと脱皮していくための契機としたり、脱皮のためのエネルギーとしたりすることはとても大事なことだ。視野の狭さによる関心事や無関心事のアンバランスが、社会生活の中で半強制的にさまざまな体験を積む中で次第に順当なバランスを取り始めるからだ。その種の体験を体当たりで積もうとしないパワーのない若者が、味のある実力者としての個性的な老人になれるはずがない。
 一見、個性的な若者も化けの皮をはがせば実は個性的なのではなく、幼虫のまま成虫化したモンスターである可能性もある。個性的であることは、節度を持っていることが最低条件であるはずだが、これが欠落している者に対しても個性的という評価を下して珍しがる風潮が案外とある。その事自体には面白みがあってよいのだけれど、結局は珍重されて利用されたり面白がられたりするだけで使い捨てにされるおそれがあるからかわいそうだ。しかし、珍しがられることが案外と本人にとって心地よい場合があり、それはそれで小さな幸福だといってよいのかもしれない。
 では、一つ一つの体験が大きな意味を持つはずの学生時代のなかで、音楽の授業の主旋律を歌えないという体験がもたらす効果にはどのような恐ろしさが秘められているのだろうか。そして、誰の何にどんな影響を与えているのだろうか。例によって十項目掲げてみたい。

①メインから外れていても、外れた者同士の気が合っていれば大丈夫だという感覚が育っていくおそれがある。
②メインから外れていることに居心地よさを感じてしまうおそれがある。
③音程を上げるのが生理的、音楽的に自然であるのに、反対に下げたり同じ音程を維持したりしなければならないという違和感をうまく処理できないことがある。このときのストレスが積み重なったことによって起こるフラストレーションや、他のストレスの非社会的、反社会的発散の契機となったりするおそれがある。
④主旋律に引きずられる男性に対して、女性が自分たちの能力の方が高いと思いこみ、必要な努力を怠る心の隙を持ってしまうおそれがある。
⑤主旋律を歌う開放感を味わえない男性は、得体の知れぬ不満感を内に秘めていくようになるだけでなく、女性が男性よりも優遇されているような感覚をもってしまうおそれがある。
⑥主旋律を歌う開放感を味わえない男性は、得体の知れぬ不満感を内に秘めていくようになるだけでなく、女性であれば開放的に歌えるのにという願望から、女性化する道を模索するようになるおそれがある。
⑦主旋律を歌う開放感を味わえない男性は、得体の知れぬ不満感を内に秘めていくようになるだけでなく、女性に対して軽い恨みを持つようになるおそれがある。
⑧男女の区別なく主旋律しか歌わなかった児童の時代に戻りたいという気持ちが知らず知らずのうちに育ってきて、男性の幼稚化が始まるおそれがある。
⑨男性の方が女性の主旋律に合わせてくれるだろうという甘えの気持ちや依頼心が知らず知らずのうちに育ってきて、女性の幼稚化が始まるおそれがある。
⑩広汎性発達障害は男性に多いということらしいが、聞こえる音程と自分が出すべき音程との整理がつかず、どうしてよいか分からなくなってパニックを起こすおそれがある。

 何しろ多感な時期なのだから、ここに挙げたような大袈裟なことは無視してよいなどと口が裂けても言えないことを肝に銘じておく必要がある。
 これをどのように解消すればよいのだろうか。⑩は別として、解消のための手だては一つしかないように思う。自分たちが歌った歌を美しい歌として客観的に聴くことだ。録音して男性と女性のパートが絶妙に絡んでハーモニーを創り出す音の美を体験することだ。これは歌っている間には体験できないものだ。この男性と女性の協同作業が美しければ美しいほどマイナス効果も美しいプラスの効果となっていくだろう。
 意外と簡単な方法で恐怖が解決することもあるものだ。ただし、不幸なことは全てが歌唱指導担当者の腕にかかっているということだ。

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どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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