恐怖シリーズ143「レコードと筆」

 レコード盤。この二十年全く見かけることがなくなった。マニア向けにどこかでまだ生産されていると聞く。
 それにしても、音を記録して再生するという発想をよく得たものだ。それを受けて、ある程度実用化するまでにこぎ着けたエジソンはやはり恐るべき人物だ。しかし、後続の者たちは、その発想を出発点としてアイデアを積み重ね、夢を実現させる道をたどる努力をしなくてはならないので、ありがた迷惑だとも言える。なにしろわき出てくる発想は増え続ける。もっとも、いずれどこかで見限られるということがあるはずで、払ってきた努力がそのために無になってしまう可能性もある。
 最初に発想した者、その発想を公にした者がいなければ、その発想を実現する者たち、それを造る者たち、売る者たち、買う者たちも出現しない。
 さまざまなものが生み出されていく過程でいろいろな人物がかかわっているということの素晴らしさと恐ろしさが、夢を形にするということの素晴らしさと恐ろしさだ。要は夢の内容だ。その時にはたわいない夢物語でも、時の力で多くの人が関わって実現してしまうということも現実としてある。時代の回転軸付近に位置している社会への影響力の大きい人は、おいそれと与太話に花を咲かすことができないということだ。
 さて、録音再生という発想はどのようにして得られたものなのだろうか。声真似をするという発想でもなければ、耳で聞いて頭に記憶しておくという発想でもない。肉体ではなく、物に託すという発想の飛躍はどうしても尋常なものとは思われない。
 もしかすると、オルゴールのようなものを見ているうちにもやもやと生まれてきたものかもしれない。もやもやとうまれたか、ぴんときたかは分からないが、エジソンの円筒形タイプの録音機器はオルゴールのピンと弾かれる振動部品の関係を逆転したもののようにも思われる。してみると、ことは単純だ。音を発生する機械のオルゴールに対して、録音する機械は部品の働きを逆にすればよいという単純な思いつきになる。
 もちろん、アイデアを形にし、実用化するまでには多くのハードルを乗り越えなくてはならず、大変な苦労が必要だ。途中で気持ちが挫折するかもしれない。途中で開発資金がなくなるかもしれない……。文字どおり命がけでなければできない。開発できたとしても採算が合わねば、その技術は日の目を見ることもなく消えていくしかない。こんなことに命をかける変人は圧倒的に男性が多い。そばで支えてくれる女性がいる場合はなおのこと安心して気合いを入れることができるからかえって始末が悪いこともある。良くも悪くも人の世は、この偉大なる変人たちによって大きく変貌してきたのは間違いない。
 ところで、突然レコード盤を頭に思い浮かべてしまったかのはなぜか。これは書道のトレーニング中に筆がレコード針に見えてしまったからだ。そんな太い針はないのだが、先が尖っているのだから、ぼんやりとしていればそう見えても仕方あるまい。そのうちに、臨書するのはレコード針が音声を再生するようなものなのかもしれないと頬杖ついてあれこれ思いにふけってしまったのだ。
 少し大袈裟な話に聞こえるかもしれないが、手本に似せて頭の中でイメージしたものを筆の運びで再現しようとするのは、書家の息づかい、姿勢を通して、書家の思い、精神、生きた世の中の様子までを再現しようとする試みなのではないかという妄想にとらわれ始めた。この妄想は果たしてただの妄想であろうか。
 そうしたつかみ所のないものは、どこまで再現できるものなのだろう。明確につかめるものだけをつかもうと努力するのもよいけれど、世の中にはつかみ所のないものも合わせて世の中だから仕方ない。つかめるつかめないは別として、つかもうと努力することが人間性を失わない訓練となっているはずだ。
 さて、レコード盤と違って紙には溝はない。その代わりに目に見えない溝を頭に描きつつ筆を運ぶ。同じ字でも書家によって随分と書きぶりが異なる。時代によっては書体までが異なる。同じ書体でもやはり書家によって書きぶりが異なる。
 書家の目に映った世界、書家の肌をふるわせた音、書家のこころを動かした事件……そうしたさまざまなものが寄り集まって書家というものを形成し、書に声ならぬ声を結実させていくのかもしれない。そのように、書家という存在の仕方や声ならぬ声が運筆となって表現されるとしたら、それを再現することを意識しての臨書は、書道のトレーニングではなく、書道の稽古と言わなければならないだろう。
 これは、美しく文字を書くためや、手本となる文字を忠実に再現するための筆の操法を身につけるトレーニングではなく、過去の人物の内面とその内面を形成した環境を深く考えるという作業としての稽古でなければ、取り組む価値は半減するということを意味することになる。筆というレコード針で、大昔の書家と同じような腕や指の働きを再現することにより、書家の生き様や生きてきた世の中の雰囲気を追体験できるとしたらかなり面白いジャンルだといえる。もちろん、面白さの裏には同じだけの恐ろしさもある。そもそも、その面白さに何の意味があるかを分かっているかいないかという問題がクリアできているかという基本的なハードルを越えていなくてはならない。ただ面白いと感じているだけでは趣味の世界の入り口にとどまるレベルにいるに過ぎない。
 また、別の恐ろしさもある。目や息を使い、文字ばかりではなく、文章の内容に込めた思い、願い、心の姿勢までも再現する覚悟で文字を書かねば同じような字を書くことは難しい。しかし、この稽古を極めていけば、書家の亡霊が出現すると思うのだ。
 亡霊は語り出すに違いない。その語りをどの耳で聞けばよいのだろう。どんな顔で聴けばよいのだろう。この恐怖を味わうところまで僕の人間性は高められていないので、かえって助かっているだけであるように思う。しかし、少なくともどんな気分でその文字を書いていたかということだけは、伝わってくるような気がする。
 この「気分」だとか「気がする」というところが大事だ。気のせいだとも言われるだろうが、その「気」のせいで、あるいは「気」のおかげで、僕たちは自分なりの人生を歩いているのは間違いない。
 ただ、その気分は言葉で表しにくい。これは音楽の曲と似たようなところがあるが、曲の方が気分を直接に表現しているように感じる。そこへ歌詞をのせて、表現すべき「気」をさらに明確化していく。書はどうだろう。曲と歌詞の関係は、書と文章の関係と似ているかもしれない。
 しかし、気分よりも深いところにある精神的なものには、いくら掘り下げてもおよそ手が届かない。これは自分の修業不足だ。もっとも、文字の意味や文章の意味が、気分よりも深いところにあるものへ理解を邪魔をしている可能性は高い。
 忠実にそうした精神的なものが再現されたとしたらどうだろう。また、再現し損ねたとしたらどうだろう。やはりどちらも恐ろしいように思う。ここはひとつ無難なところで習字として割り切り、点画を美しく書くためのトレーニングというとらえでたしなんだ方が結局はよいような気もする。
 あるいは、書道として割り切り、自分自身の精神修養と芸術性の追求を目的とするのも無難だろう。そうすれば、亡霊に取り憑かれることもないような気もする。
 もっとも、書家の人生観やその一生を詳しく調べぬいた後に覚悟を決め、墨をすりながら供養する気持ちを高めておくことぐらいは最低必要だろう。臨書をする覚悟というものは意外と厄介なものだ。しかし、何事も予防が第一だから仕方がない。
 つまり、何の構えもなく書と向き合って臨書に及べば、目と手からのわずかな刺激で自分の中にあるどのような魔が目覚めるか分からないということだ。大昔、書に封じ込めらた怨念、情動、精神的な屈折、そうしたものに共鳴しやすい人もいれば、感性が薄くて感じにくい人もいるだろうから、影響力は一様ではないが、用心をするに越したことはない。

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