突然思い出したこと127「肩書き」

 一個の人間に父、母、男、女、社長などといろいろの名前を付けることの副産物は、おそらくそれぞれの名前のイメージでその人間を見てあげるという救済、つまり評価されたり、自己評価したりする物差しをいくつも持っている状態にしてあげるという救済なのではないだろうか。
  肩書きも含め、名付けられた数量だけの豊かな存在になっていく可能性を手にするということは、それだけで幸福なことのように思われる。我々動物なんて実際にはただの肉や骨なのだから、多くの名で呼ばれ、それにふさわしい行動をとろうとすることによって人間的に輝く機会を与えられた分だけ、幸福だと思うのだ。何となく肩書きがたくさんほしいのは、たぶんそのせいもあるのだろう。肩書きがある分だけ行動しやすくなるのだ。つまり、社会の中にあってはその分だけ自由な存在になるということだから、人生の幅が広がり、したがって人生の深まりも深いものになってくる。穴掘りと一緒で深くするためには幅を広げなくてはならないはずなのだ。
 もちろん、たくさんある肩書きが空疎な人もいれば、たくさんある肩書きが負担になる人もいる。そうした人は今度は肩書きから自由になろうとする。こうなると、分相応の肩書きと分相応の肩書き数に恵まれるということが最も幸せなことだということになる。
 もし、さまざまに名付けられることを負担に感じている人がいたとしたら、むき出しの生命体として生きていくことの恐ろしさを体験したことがないか、よほど己の価値に自信を持っている人に違いない。僕はこれまでそのような人に出会ったことがない。つまり、それだけ人生の幅が狭いということなのだろう。

★ホームページに戻る

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
カテゴリー: 突然思い出したこと パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google フォト

Google アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中