恐怖シリーズ147「鈍感」

  これと信じたことを曲げずにがんばる。これは大事なことだ。が、自分の主義主張を押し通すことは身の破滅を招くことになりかねない。諸刃の剣だ。
 昔は「信じ合うことが大事」という社会的通念のようなものがあった。ところが、今はどうだ。すべてを疑ってみることが、身を守るということになってしまった。だからこそ、「信じることが大事」なことになるとも言えるのだが、小学生は優しい大人を不審者ではないかと疑わねばならず、中学生は厳しい大人を敵ではないかと疑わねばならず、高校生は立派な大人を偽善者ではないかと疑わねばならず、大学生は温かい世の中をまやかしではないか、厳しい世の中を単なるおどしではないかと疑わねばならない。
 こんな腐った懐疑主義には耐えられない者が出てきて当然だ。その苦しさから逃れるためだけの安易な「信じることが大事」バージョンに脳のレベルが設定されかねない。これはゆゆしきことだ。
 ところで、「人を見たら泥棒と思え」ということばがある。これを格言とは言いづらいので、ことわざの類だということになるのだろうが、有効な助言であるということは確かなので、その点において真実だと扱うのがよいと思う。これは親心であって、決して心貧しき者の言葉ではない。確かにこの現実主義は身を守るのだから。
 しかし、ものの見方や考え方がそれだけのものであれば、やはり心貧しき者ということになる。心貧しきことばを使うことによって心の貧しさが次第に固定されていくということもある。だから、これはどうしても、多くの知恵のうちの一つでなければならない。豊かな知恵の一つとして認められたことばだということにしておかねば不都合が起こるだろう。
 「信じ合うことが大事」「人を見たら泥棒と思え」、両者とも両極端の考え方であるように思う。だから、その前後のことばが不足していると、誤解されやすい。多くの言葉のつながりのなかで使うべきものだ。どちらのことばに軸をおいてもよいので、できたら両者を同時に使ったスピーチなり文章なりを心がけるとよいように思う。
 例えば、「信じ合えない世の中は悲しい。だから、信じるに値する人になれるようにと努力をするのが人間というものだ。しかし、そこにつけ込む人もいるのも事実だ。だから、お互いの幸せのためには疑う気持ちも忘れてはならない。」とか、「お互い他人なのだからその心も考えも分かるはずはない。分からないからお互いの幸せのためにまずは疑うことが大事だ。しかし、疑うことが目的ではない。信じ合うために疑うのだ。だが、どこまでも分かり合うことはできないから疑い続けなくてはならない。それではいつまでたっても信じ合うことができない。だから、ある程度の根拠を持てば、そこから後は信じるということが大事だ。」
 このように、生きていく上で人を信じるということはやはり重要なことなのだが、実に面倒くさい。面倒だということは手続きが多いということだ。恐らくこの手続きの多さは、相手に食い殺される恐怖を拭い去るために払わなければならない代償なのだろうと思う。ときにはお金を使い、この面倒を軽減することもある。興信所というのは、その名の通りの役目を果たすものだ。
 しかし、興信所の使われ方は通常一方的だから不公平感がどうしてもつきまとう。同時にお互いが興信所の調査対象になるのが公平というものだろう。いや、同時というよりも、双方が定期的に利用するというのが相手に対する礼儀だとされる時代が来るかもしれない。
 今の常識ではこのような興信所の使い方をすることには無理がある以上、客観的に信じ合う条件が同時にそろうということはないだろう。普通は、片方または双方の思い込みによって信じるに値するかどうかを勝手に判断しているか、片方または双方が興信所の情報や興信所に相当する友達の情報によって信じるに値するという判断をくだしているだけだ。
 そこには悲劇が生まれる要素がたっぷり含まれている。放置しておくと、「それが人生というものだ」と勘違いする人まで出てくる可能性がある。このように「それが人生だ」と評価することで、不幸を決定づけてしまう風潮は、「じゃあ、どうすればよいのだ」という開き直りの姿勢を用意する傾向の人間がいる限りはなくならないだろう。
 「他人の不幸は蜜の味」という人間の性をどこかで認めざるをえないというレベルから、その蜜の味を味わいたいというはっきりとした欲望のレベルまで、レベルの幅はあるけれど、それを出発点とした開き直りが思考停止の原因になっていくことが多い。
 どのみち思考は停止することになるのだが、薄ぺらな「それが人生だ」か、深みのある「それが人生だ」では、大違いだ。だから、詰まらぬ勘違いをされないためにも、「それが人生だ」という言葉を選ばない方がよいかもしれない。もっとも、短い言葉で表現するずるさを身につけた大人は、なかなかその便利さを捨てることはないだろうから始末が悪い。
 では、自分の考えを信じるということについてはどのようなことが言えるだろう。
 第一に、信じなければ自分の考えとして主張することなどはできないという当然の事情がある。この「考え」というものに「絶対」という言葉ほど似合わない言葉はない。考えなど、物の見方の分だけは最低ある。しかも、勘違いやら論理の飛躍やら情報不足やらで、まともなものなど単体では一つもないと言った方がよさそうだ。だからこそ、議論が生まれ、人々は寂しくなくなる。また、その過程で思わぬ発見が生まれることもある。このように、「まともではない」ものはなかなか魅力的だ。信じすぎると、この恩恵に預かれなくなるのは確かだから、物事いうものは何事も中庸ということが肝要なのだろう。
 しかしながら、初期の段階では「考え」自体を確立しなくてはならず、そのために都合の良い事実や情報を収集して構築することになる。もっとも、これは十分ということはなく、かけた部分については推量し、つじつまさえ合えば、ついにはこれを事実に準ずるものとして扱うようになる。この手続きを「信じる」と名付けることになる。
 第二に、自分の考えだから信じるというお粗末な理屈もある。そもそも、まともな考えなどほとんどないのだから、信じるという手法でしか自信などもてるものではないというお粗末な事情もあるだろう。
 いずれにしても、信じるためには「世の中の常識」といわれているものから「自分の経験」まで、どれも実に頼りないものを根拠にしなければならない。そのため、語気の強さや使用語彙の特殊化(専門化)、はたまた目つき目配り、表情や身振り手振りというスピーチの小技を多用して演出するという手口を用いらざるをえない。
 しかも、相手も同様に強く信じるあまり、臆面もなく主張し、引くことを知らなければ、ジャンケンでお互いにチョキばかりを出し続けるがごとき不毛の時間を築きあげるしかなくなる。相手がそれを嫌って譲歩すれば、何か勝利したような錯覚に陥って、さらに根拠のない自信が生まれ、不当に自分の考えを信じて、さらに強く主張するようになるという愚行を重ねることになりかねない。また、自分の考えのみならず、自分自身にまで自信を持ちはじめるという効果もある。
 しかし、それが救いとなる場合は別として、大方の場合は周囲を辟易とさせることになりがちだ。かかわりたくないために、譲歩する傾向が周囲に生まれるために、議論も生まれず、ついには学ぶことが少なくなり、低レベルのまとまりによる人間性の固定という不幸も招く。これは恐ろしいことだ。自重せねば、単純だが誰もが陥る罠であるように思う。
 第三に、相手を信じているがゆえに自分の考えを信じて主張するということがある。これを主張したら殺されるだろうとか、攻撃されるだろうとか、関係が悪くなるだろうということを心配しなくてよい相手であると信じているのだ。
 一種の見くびり、つまりは甘えだ。しかし、人間そんなに甘くはない。いくら相手を信じていても、それはあくまでもこちらの都合であって、相手の都合ではない。相手の都合によっては殺されることもある。殺人にいたらないまでも、その見くびりに相当する不利益が相手からもたらされないことはまずない。直接でなければ間接的にもたらされるのだから恐ろしい。
 特にネット社会になってからというもの、その社会の特質を理解せず、従来の人間関係の枠組みでものを考えることは自殺行為に等しい。個人の言動が集団に及ぼすさまざまな働きは近年すっかりと変わってしまったからだ。携帯電話の普及やインターネットにアクセスする環境の整備によって、当の本人たちの間では片方の譲歩や双方の譲歩、そうした我慢によって終了しているはずのことが、見ず知らずの他人が動きをとることによって新たな展開を始めるということが十分にあるということだ。
 しかも、これを計算に入れて自ら譲歩し、ネット上で唆しを行い、被害者の顔をしながら、手を汚さぬ加害者になるというぎりぎり合法的な仕返しや攻撃を試みる者も出現するようになるに違いない。臆病者の勝利が目に見えて増えることの愉快さと恐怖。誰がそのようなことを望むだろうか。しかし、空間的、時間的、法律的に制約が多くなった現在、そのために我慢という逃げ場に待避していた人の思いというものが、事情知らずのテクノロジーによって他人という仮面をかぶることになるのは間近いように思う。
 もちろん、仮面の役割を果たす者も、通常ならば世間に埋もれているのだが、これもネットの力でゾンビのように復活することができる。本当に恐ろしい世の中になったものだ。
 はったりや脅しやすかしといったものは過去のパワーとして際限なく無力化し、唐突に起こる何かをひたすらに恐れていなくてはならなくなる。これは法律によって規制されていない部分の日常生活の自由というものが、ネットによる無軌道で不当な自由によって奪われていく一つの例になるだろう。人々は無表情となり、機械的な人間関係をもつしかなくなり、そのためのストレスを解消するために不必要な財力を消耗する傾向が強くなっていくだろう。
 現在でもその傾向はあり、いらぬところに財力をかけなくてはならなくなっている。行かなくてもよいところへ行き、見なくてもよいものを見、食べなくてもよいものを食べる。この贅沢感を味わうことで現代人の孤独と恐怖を癒すというのは間違いではない。しかし、そのために現実の財力をいたずらに消耗することは、個人の価値観の問題であるとはいえ、現実の世界では個人の価値観の問題ではすまされない。投じられるべきところへ財が回らず、先細りの悲しい世界に向けてひた走る方向に向きはじめているように感じられるのは僕だけだろうか。
 個人の価値観を重んじるあまり、現実をひろく眺めて判断することを怠れば、他人の価値観をないがしろにすることになりかねない。これは民主主義に反することだ。
 もちろん、その浪費される財力の恩恵を被る人々の生活もあるので、誰も何も言わないが、現実の問題は人間の沈黙をよそに確実に進行していくことだけは忘れてはならないだろう。
 かつては普通の自立した生活を送っていた人々やその生活が商品化され、客足に依存する体質を身につけてしまったのは、果たして不幸なことであろうか。相互依存による見かけの安定生活をとるか、人間の尊厳を選択し、耐乏生活に近い正常な生活をとるかという問題をつきつけられる経験は、その当時の当事者でしか味わえないはずだ。だから、話題にさえしなければ、そして啓蒙しさえしなければ、市場原理によって双方成り立つ妥協の傑作として見なせばそれで波風は立たない話だ。
 経済効果とか国際化とか行動的とか幸福の追求といった多くの言葉によっていろいろな事柄を飾りたくなるのは、おそらくそうした暗部を覆うための僕たちの貧しい知恵なのかもしれない。
 臭いものには蓋をするというわけではないが、考えたくないものに対してはまぶたを閉じ、頭の中が真っ白くなるように仕向ければよい。そうした自己催眠は自分というものを救うのに役立つはずだ。
 そうした世の中になっても、もちろん基本的なところは変わらない。食べて、生んで、育てての生活だ。しかし、基本的な生活以外の生活のありさまが大きく変わってしまっていることは、既に根本から変わってしまっているのに等しいのではないかと思うときもある。
 もう、かつてのように、物理的に、技術的に、文化的な面が担っていたさまざまな歯止めを期待することはできない世の中になってきた。多くのことが可能になりすぎたのだ。これは社会に対する一種の見くびりを生み出すもとになる。その見くびりのため、そそのかされた関係者までが得体の知れない不利益を被ることになりかねないのが現代社会の恐怖の一つだ。そんなものの犠牲になるのは不幸というものだ。よくしようとして悪くなったことの典型だ。
 これには、相手が分からないから闘う楽しみすら味わえないというつまらなさもある。しかも、この苦境を味わうときにはたった一人で味わうことになるつまらなさもある。どうにも救われないのだ。
 さて、現実社会ではこのように自分を信じたり相手を信じたりして生活しているのだが、これに疑いが生じると不安になる。相手のふと見せた表情からでさえ疑いが生じることもある。人間というものは実に寂しい存在だ。
 この不安を解消するために僕たちはさまざまなことをしている。例えば、相手に挨拶をしてその返事の具合でどの程度信じられる相手かを測定する。もちろん、測定の方法や判定が正しいとは限らないが、毎日繰り返すなかで一つのゆるぎない個人的な指標とはなっていくだろう。
 これがネット社会だとどうなるか。自由に表現できる反面、それが現実社会へ反映される不安もある。また、信じることに疑いをもたないままでいることの不安もある。情報源が限られるために疑う余地が少なくなるのだ。
 「おはよう」という挨拶もそれは無表情な活字による文字情報という非常に限られた情報にすぎないから、読み取れるものがほとんどない。フォントや色を変えてもそれがどのように伝わるかについては、やはり相手任せで不安な気持ちになる。
 これを解消するにはできるだけ相手とネットでつながった状態になければならなくなる。これは膨大な時間の浪費となる。これ自体も不安となる。
 こうした不安が原因でおかしな社会が築きあげられてしまわないだろうかとよく思う。単なる杞憂であればよい。しかし、僕たちはその兆しというものに鈍感になってしまっていると仮定した方がよいのかもしれない。気づかない間にことは加速度的に深刻化する。気づいたときには遅いというわけだ。
 そんなとき、「そうなったらそうなったときの事」という無責任な発言をする者がはならず出現する。たいていは長い議論に飽き飽きしてしまったために、それを強制的に終わらせようとするのだ。同じように退屈し始めた者たちも多少なりともいるはずだから、何人かの賛同者も出現する。少しお調子者で面倒くさがりの要素があれば誰にでも口に出せることだが、ある種の潔さだけは漂わせていることばなので、お得意の決まり文句になりやすい。しかし、残念ながら決まり文句以上の何ものでもなく、効果としても建設的ではないので、議論に休憩を与えるだけのものになってしまう。
 いかにもそれでは芸がない。つまり、面白くないのだ。常に「そうなったらそうなったときの事」というのは、敢えて言わなくてもその通りなのだから何も言っていないに等しい。それどころか問題を先送りにしてややこしい状態にすることになりかねない。しかも、その張本人であるのに、肝心なときには自分は関係ないという顔をするか、もっと別のところに目を向けさせて別の話に持ち込むのがパターンだ。つまり、辟易としているのだ。
 これは危険だ。その隙に、ネット社会やネット社会で培われた不適切な人間性によって生み出された攻撃のチャンスが生まれる。おかしな世界の到来だ。
 表だっては手を出さない臆病者の闇の力の餌食となってじわりじわりと苦境に陥る可能性も年々高まっているように感じる。もちろん、被害妄想ではない。加害妄想としてだ。臆病者の方が圧倒的に多いのが現実だからだ。
 僕たちはこの四文字から妄想という二文字が外れないようにしなければならない。いつの間にか加害者になっていたということは、そう想像するに難くない。どうやら忙しく働いていた方がよさそうだ。
 もともと理不尽な世の中だが、ネット社会という、より理不尽な世界をたんこぶのようにくっつけてしまった状態では、通常の感覚を持った人間としては、やはり鈍感にならざるを得ないのかもしれない。

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どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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