恐怖シリーズ149「こじつけの心太」

 「心太」を「ところてん」と読むのはなぜだろう。まず頭に浮かぶのは、心太を平仮名ふうに書いてみる事だ。看板に「ところてん」と書く場合、真っ直ぐに書くだろうか。真っ直ぐではお札のようで面白くない。また、五文字だからその看板も細長くなってしまう。比較的看板らしい縦横比の幅のある板に目立つように乱れ書きすると面白く目立つ。このようにこじつけていくとどうなるか。そのまま「心太」とよめる漢字に似た文字の並びになってしまうではないか。偶然そうなるだけのことかもしれないが、少し驚いた。これがもし、その通りだったとしたら、遊び心でやったことかもしれないが、その心がいつの間にか忘れられて、形だけが残ったということだ。
 もしかすると、こうしたことは大変多いのではないだろうか。語源などもそうして忘れられ、単純に言葉としてだけ残るに違いない。それがこのように、ふとしたことで思い出されたり、研究者によって解明されたりしていくということなのだろう。心を知るということは意味を知るということで、実に重要なのだが、使っているうちに心は失われ、使うことに重きが置かれていってしまう。これは当然の省力化で、合理的なものだから、それを悪いことだと思ってはいけない。使っているうちに頭の中が意味だらけになるのを防ぎ、必要な「今」の意味だけを伝えるための必然だからだ。
 話を心太に戻そう。篆書で書く「心」は、最初の二画が平仮名の「と」に似ている。その横に少し小さめに平仮名の「こ」を書く。つまり、「心」の最後の点々が、この小さめの平仮名の「こ」だ。これで「心」となる。その下に大きめの「ろ」を書いて、その下に「、」をうてば、「太」というわけだ。この「、」は「貸します」の「ます」を□に斜線を入れて「ます」の形を作り、「ます」と読ませるのと同じやり方だと考えればよい。時代劇の看板でも、この「枡」の形を「ます」と読ませるものが、よく使われている。これは文字数を少なくする意味もある。これで漢字と見ても「ところてん」で、平仮名と見ても「ところてん」となる。洒落ているではないか。
 「かまわぬ」というのを「鎌」の絵、「輪」の絵、そして「ぬ」と表現するようなものだ。五文字が三文字に省略できる。字の読めない人にも絵文字だから読めるという利点もある。もっとも、この「かまわぬ」は「ぬ」が平仮名だから中途半端だとも言えるが、そこがご愛敬というものだろう。
 いや、もしかすると、「ぬ」は「奴」という漢字の平仮名版だから、「鎌」のように鋭く、「輪」のように丸く収める「奴」というという洒落なのかもしれない。ただ、文字の読めない人にはそんなことは通用しないから、この部分は本人用の隠し言葉ともいうべきものとしてとらえた方がよさそうにも見える。
 「かまわぬ」と言いながら、圧力をかける者には「鎌」のように「鋭く」応じ、弱い者や忌み嫌われる者には「輪」の中に入れて慈しむ、そういう「奴」という心意気を示したものかもしれないと考えれば面白い。そもそも、「かまわぬ」とは「自由な存在」という意味にとれる。「かまうこたねえ、やっちまえ!」「何してもかまわぬ」となれば、随分とひとりよがりの自由だ。
 「身なりなどかまわぬ。」という言い方もある。「かまわぬ」の動詞だけの形は「かまう」で、この仲間に「かまえる」という他動詞があるとすれば、やはり「かまわぬ」には自由な感じが漂っている。他人にかかわらないという姿勢も漂う。おまえにもかかわらないから俺にもかかわるなという生きる姿勢かもしれない。よほど世間のしがらみに苦慮していた時代なのかもしれない。鎌はそんなしがらみを切ってしまう鎌で、輪は切ったしがらみを束ねて縛って捨ててしまうという意味を込めたのかもしれない。
 このロゴとは言い難いがロゴのようなものが染められた衣服や手拭いを身につける者たちは、今で言えばTシャツのロゴのようなものだから、そうした心意気のようなものを有事における態度で示すだけではなく、平時にもアピールしていたのだろうと思う。
 しかし、そうしたひとりよがりのところがなければ、世間の中で敢えて強き者に「鋭く」牙をむいたり、落ちこぼれたり、はみ出したりした者を輪に入れて丸く収めるなどというような酔狂なことはしないだろう。もっとも、これが裏目に出ると本人自身が支持されぬ存在になっていく恐れはある。自分を売り出すのに役だったものによって最後は自分の首を絞めていくという法則はここにもあらわれそうだ。
 さて、「ところてん」の看板が真っ直ぐに細長く書かれなかったために、「心太」と読める平仮名の配置となったのではないかと仮定した。しかし、これにはなぜ看板という前提だったかということを述べなくてはならないだろう。結論から言えば、「幟旗」ではいけないということだ。なぜなら、縦長の幟旗に平仮名で「ところてん」と書くと、くねくねした文字の連続になってしまうからだ。古書の原典を一度でも見ればわかるように一文字一文字が現代の活字のようにばらばらに独立しているのは珍しいように思う。もっとも、実際に昔の看板は見た事がないから本当のところは分からない。
 とにかく、細い長い布に書かれた平仮名文字は、布の重みで端が垂れたり、風に揺れたりして読みにくい事この上ない。この問題を避ける方向で改善がなされたはずだ。「だんご」なら三文字なので、それほど細長くはならず、だんごの匂いもするだろうから分かる。しかし、残念ながら心太はにおわないから、視覚に訴えるしかない。だから、できるだけ文字数を減らして、しかもよれないように木の看板に書くという方向に向かうのではないかと想像したのだ。
 しかし、「心太」のように漢字二文字のように表現できれば、木の看板でなくてもよい。幟旗で充分だ。心太は夏の季節ものだ。木の看板よりも、臨時で使う幟旗の方が風に揺らめいて、かえって目を引くことになるので好ましいとも言える。
 ただし、うどんより心持ち太いということで、「心」持ち「太」いの「心太」なのかもしれない。心太はやわらかいからある程度の太さを確保して多少の歯ごたえをつくる必要があるからだろうが、本当のところは分からない。
 心太一つをとってもこのありさまだ。今当たり前の事にもいろいろ説明をつけておくのが後々の人にとってはありがたいということだ。いらぬ説明だと思われることを積極的に行い、厳重に保存しておくことは、現時点では全く無意味なことなので、そんなところに大事な労力をかける人はいないだろう。しかし、こうして真実は闇に包まれていくことになる。
 これが謎解きの面白さを後世の人に与えることになるのだが、同時にまことしやかな「こじつけ」を大発生させることになる。この「こじつけ」が迷惑になるか、コミュニケーションに役立つか、脳のトレーニングにつながるかは誠に面白いところだ。しかし、このこじつけは何に影響してどんな結果をもたらすかということが予測しにくいという恐ろしさが常につきまとう。裁判であれば人の命にかかわり、日常生活では間違った認識が大手を振ってまかり通ることによって常識の常識としての権威が失墜するというおそれもある。まことしやかなものであればあるほど疑ってかかった方がよいように思う。これを忘れてはならないと肝に銘じたい。

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