日々雑感250「己の崩壊と顔の構築」

  現代は、とある目的でむやみに情報化を進めているため、過ちを学習したころには既に状況が変わり、学習して身につけたことの多くが役に立たなくなる傾向が出てきた。その徒労感たるや語るに忍びない。学習してもそれが役に立たないということを学習し続けると、経験から学ぼうという気持ちなど次第になくなってくる。それが人情というものだろう。
 こうした「ちぐはぐ」の末にたどり着くのは、せいぜい「自分しか信じられない」という理由にもならない情けない理由をつけて貧困な自分だけの感覚に頼るという不始末だ。このとき、「将来のことなんか誰もわかりゃしないさ」とか「将来は必ずこうなるに決まっている」とかいう思考停止の宣言を敢えて臆面もなく披露することによって、その言葉自体に価値があるか如きの演出をすることがある。
 このとき最もありがちなのは、己が解決すべき課題を、その場その場の空気の流れに流されるか単純に反発するかの二者択一というシンプルな作業にすりかえてしまうということだ。これを声高らかに行う者は決断力に優れているという誤った評価を得てしまうおそれがある。この評価を自他共に信じ込むようになると、また厄介な問題が後々生まれることになるので、余程勘違いしないように気をつけなければならない。
 そうした二者択一の次元をこえるアイデア(折衷案をこれに含めるかどうかは微妙なところだ)を捻出する努力を怠ることこそが罪なことだと認識しなければならないと思うが、どうだろう。この怠慢が、己の考えを誰かの考えで代用したり、流用したりすることへの慣れを進行させてしまうのは火を見るよりも明らかだからだ。
 このような人間的に衰弱した姿勢をとることに一世代目は後ろめたさや不安感などを背負うが、二世代目はそれを横目に見るだけとなる。三世代目ともなれば尻目に見て、最後にはそれが当然のこととなる。悪い意味で時間が解決するということの典型だ。
 しかし、そうなってくると、「己」という「経験の累積」がかすんでくる。「己」を失うという本当に恐ろしいことが恐ろしいことではなくなる過程を三世代かけて踏んでいくということだ。その間に感じる漠然とした「わりきれなさ」や「やりきれなさ」、そしてそこから生まれる「憂い」などは、ただの過渡期の症状だ。だから、通り抜けさえすれば、何のことはない。
 憂いなどというものの理由など探しても大局的には大きな意味はない。一秒一秒の時の流れが、「解釈による解決」や「忘却による解決」や「状況変化による解決」に向かっているのだから、場合によっては理由を探すことが徒労に終わることになってしまう。
 納得というものはいつでもどこでも簡単にできるものだ。だから、納得できない状況やその原因にいつまでも強いこだわりをもって抵抗したり追究したりしても、それは無駄なことだということを早く了解するのがよいように思う。もちろん、全くの無駄ではないようにすることはできるが、一瞬のうちに世界観を転換することなど朝飯前という暗黙の了解や保証があるということに甘えていればそれでよいのではないだろうか。
 しかし、結局それは「己」の崩壊が進行することを意味する。「己」というものが、ただ漂うだけの、存在と言い切れないものに限りなく近づいていくのだ。そこで無理に「己」を示そうとか生かそうとか思えば、今度はまた別の問題が起きることになる。無理をすることによって、イレギュラーの動きをするか消滅するしかないという短絡的な判断が生まれやすくなるのだ。易きに流れるのも、これもまた道理だ。「己」が確立して、しかも認められるには長い年月がかかるものだ。ここに問題を解く鍵がある。短期間に己を確立し、認められるものや場を選ぶという発想をもつことだ。短期間といっても自分が我慢できる期間であればよい。
 例えば、面白いだじゃれを考えて日常会話の中でタイミングよく発表すれば、場の雰囲気を和ませるだけでなく、新しい発想に至ることも計算次第ではできるかもしれない。また、みんなが不便を我慢していることを洗い出し、その不都合を解消することに短期集中して改善するということができるかもしれない。また、世間が気づかないことに全勢力を傾け、短期間に成果を上げるということができるかもしれない。
 こうした断片的だが継続可能な生きる姿勢を示すことが、とりもなおさず生きざまを示すということになるはずだ。その生きざまを「己」そのものといってもよいと思うのだ。
 ところで、「己」の崩壊だけが問題ではない。また別の問題もある。それは、一人一人のつながりが薄い社会となっているということだ。その社会には短絡的にイレギュラーの動きをしたり自己消滅をしたりする動きをとめようとする力が弱い。無責任に傍観者の立場を取るのが楽なのだ。個人的なことにはかかわらないという上手い逃げ口上も用意されているからなおさらだ。
 一人一人のつながりが薄いから、つながろうとするあがきをする個人の営みは絶えない。例えば、不特定多数のネットでのつながりや、少数限定の携帯電話でのつながりだ。そのつながりを保つための努力は見ていて涙ぐましい。しかし、結局つながれないのは「苦楽」を共にしていないからだろう。合理的な「苦」を駆逐してしまったため、真の苦を味わわねばならないという愚を犯していることが多いように思う。また、利益追求の過程で、「楽」も個人的なものに細分化されてしまったため、一人一人が立つ場所がばらばらとなってしまった。気軽にはなったけれど、その代わりに不安を抱え込むことになったのは、誰のせいでもない。大人ならば他ならぬ自分自身のせいだ。
 このように永遠につながれることのない「つながりたい人たちの群」はカラオケルームでもよく観察される。一つの歌をみんなで歌うのではなく、個々人が得意な歌を披露している集団だ。狭い空間と同じ時間帯に歌という限定された作業を行うという点でだけつながっているので、「一緒感」はあっても「連帯感」などは残念ながら育まれない。仕方ないので、共通の敵を決定していくという作業を歌の間に織り込んで、親和感を高めるという愚劣な方法に依存することになりがちだ。
 それに対して労働歌というものは現在どのように機能しているのだろうか。歌だけが労働と遊離してしまっていることはないだろうか。辛い労働をともにするときには自然に口について出て、勇気づけてくれるのが労働歌だと思うが、どのような労働歌があるのかさえも既にわからなくなっているのが実状ではないだろうか。
 労働歌は肉体労働に特有のものだ。しかし、その肉体労働が機械の導入と外国人労働者の導入でますます労働歌が発生する余地はなくなってきていると思う。さて、本来は労働歌が必要な職場はどのような手段で「連帯感」を練り上げているのだろうか。一人一人が別々の曲を一人一人の小型音楽再生機で聴いているとしたら、おそらくそうした手段はとられていないということなのだろうと思う。
 こうしたつながりの薄い集団の中を個々人が漂っている状態がさまざまな場面で目撃される。それはとてもつまらないことなので、いつも何か面白いことはないかと渇望することになる。この渇望はいたるところで見られるいじめの構造を強化するものだ。
 哀れなのは、漂うことが生きているという実感にすりかわることだ。しかし、これがこの過渡期のスケジュールだ。すり替わればそれが一つの価値になって大手を振ることになる。それまで待たねば、心の病は減らないだろう。
 それはそれで別段かまわない。ただし、そこから先は何もないように思う。人の心の最終段階だ。しかし、それではつまらないではないか。その最終段階がこのようなものだとは貧しい話だが、人の心にそもそも人々は何を求めていたのだろう。あたたかさとか理性とか、そうしたものだったとすれば、何ともお粗末な最終段階だ。
 そうした段階では不都合なものに向かっては、ことごとく無視するという手口でしか「己」を保てないという情けない精神状態の人々が多く出現するように思う。そうなるとますます人間というものがつまらなくなってくる。ただ、こうしたことも繰り返していれば、鈍感にはなれるかもしれない。それは救いだ。救いだが、逃れているだけの「己」の負け犬の後ろ姿だ。
 どこまで「己」を崩すと、「己」であり得なくなるかはわからないが、ふと自分の生きてきた道をふりかえってぞっとする。いったいそのどこに「己」の軌跡があったのか、おそれていたように実に不明確なのだ。
 現状がどうあれ、「己」が崩壊する以前の治療はどうしても必要だ。それはヒューマニズムからだけではなく、まずは単純に不経済だからだ。自覚した者は、仮の「己」を自分の中に注入するか、仮の「己」を自分の肉体に纏うかする。これは最初のうちは交換が容易なので、そのこと自体が心地よい場合がある。小さい子供のごっこ遊びと一見似ているかもしれないが、それは幼子が這うのと老人が這うのが同じではないということと一緒だ。
 ここで奇妙な思い込みが頭をもたげる。逃げの姿勢は顔つきに実体化するということだ。恐ろしげな顔つきの人は何から逃げているのだろう。にこやかな顔つきの人は何から逃げているのだろう。深刻な顔つきの人は何から逃げているのだろう。無表情の人は何から逃げているのだろう。
 リンカーン大統領のことばだといわれている「四十歳をこえたら自分の顔に責任を持て」ということばがある。このことばはこうしたことをふまえて言われているものかもしれない。逆に、己の崩壊をふせぐために逆に顔の構築をするという手法はあるだろうか。鏡を見て、顔の造作を観察し、どういう気持ちを保てばどういう表情になるかを検討する価値はありそうだ。

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「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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