怪しい広辞苑195「浮かす」

 広辞苑第四版212ページ、広辞苑第六版237ページ「浮かす」の4行目。「これから踊り念仏を初めて、きやつを-・いてやらう」とあるが、これはどうなのだろう。
 この「浮かす」の用例の出典は狂言の「宗論」だ。「宗論」といえば、宗派間の論争だが、「宗論」をタイトル名にもつ狂言の内容は、宗論自体を茶化して意味のないことだ結論づけるものとなっている。
 そうした結論に至るまでに浄土宗の僧と法華宗の僧とが奇妙な論争をする。浄土宗の僧がいろいろとちょっかいをかけるところも面白いらしいが、残念なことに僕は「宗論」の舞台を見たことがない。
 各社で刊行されている狂言集を調べるまでもなく、「これから踊り念仏を初めて、きやつを-・いてやらう」の「初めて」という部分は、現代では通常ならば、常用漢字表に基づいて、「これから踊り念仏を始めて、きやつを-・いてやらう」とするか、「これから踊り念仏をはじめて、きやつを-・いてやらう」とするところだ。
 根本的には、原典がどうなっているかとか、刊行物がどうなっているとかが問題にしなくてはならない。原典が「初めて」ならそれはそれで何も問題はない。しかし、問題とすべきは、常用漢字表に基づいて表記することを学習してきた者に対する用例の示し方だ。
 常用漢字表では「初」の漢字に「ショ・はじめ・はじめて・はつ・うい・そめる」という読みを許している。しかし、「はじめる」という読みは許していない。許されている「はじめて」という語も「はじめる」という動詞に助詞の「て」がついて「はじめて」になったものではなく、「ここへははじめて来ました」というときの副詞の「はじめて」だ。
 したがって、広辞苑のように「これから踊り念仏を初めて、きやつを-・いてやらう」という例を挙げてしまうと、通常の利用者はこの「初めて」を副詞として読み取ることになる。そして、そのために意味が通らなくなるという不都合が起こる可能性が生じることになる。
 こうした不都合を承知で挙げた用例なのか、それともこれしか「浮かす」の用例として適切なものが見出させなかったのかはわからないが、少しでも不都合があればそれを例として示すことを避けるべきだろう。特に辞書にあっては、問題のない用例を探して示すことが混乱を招かぬために必要な配慮とされていなければならないはずだ。
 これは辞書の編集作業におけるセンスと姿勢の問題だ。日常生活においても、仕事においても、「はじめて」ということばを漢字で書く場合には、「初」を使用するのがよいか、それとも「始」を使用するのがよいかと悩むことは意外と多い。書き分け辞典なども販売されているが、いざとなると頭をかしげることがあり、平仮名で書いてしまうということをしている人が多いのだ。
 考えにくいことだが、この点について問題提起をするという意味合いで、用例の中に敢えて「初める」という書き方を示したのかもしれない。この「初める」に助詞の「て」をつけた姿が、「これから踊り念仏を初めて、きやつを-・いてやらう」の「初めて」というわけだ。しかし、だとすれば、広辞苑の見出し語としての「はじめて」の説明にそのことを解説すべきだろう。
 残念ながら広辞苑では「はじめて」には、【初めて・始めて・甫めて】とあり、副詞であること、「新たに。最初に。」という意味があること、そして日葡辞書の「ハジメテオ(御)メニカカル」という用例だけしか載っていない。
 同じく「はじめ」には、【始め・初め】とあり、それぞれどのように使い分けるかは八つの用例については明示されていない。どちらでもよいという立場なのだろうか。しかし、「御用-」については、「御用始め」という決まった使われ方をするはずだから、棒線でどちらでもよいような印象を与える提示の仕方をするのではなく、そのように示さねばならないはずだ。
 このように棒線で示しておくというやり方は、示さなくても常識で使い分けられなくてはならないということなのだろうか。しかし、国語の常識を身につけるために学習者は一生懸命に広辞苑のページをめくるのだ。もし、そうした了見ならば、基本的な辞書としてのあり方を放棄していると見られても仕方ない。
 曖昧な使われ方のものはそのように最初から曖昧だと明記すればよいことだ。利用者にお任せします、考えてみてね、などという姿勢を利用者に感じさせるようでは、辞書など利用しなくなる。利用者というものは最初から混乱を抱えているがゆえに、辞書を紐解くのだから、余計な神経を使うようなことをしてはならないのが原則だ。辞書はすべからく明解であるべきだ。
 ただし、次の二例については、「はじめおわり」【始め終り】、「はじめね」【始値】のように、「初」ではないことが明示されている。こうした部分的な明確さが余計に残りのことばの不明確さを際だたせて利用者に強いストレスを与えることになることをどれだけ理解していてくれるのだろうか。
 さて、次の六つの言い古された語句について広辞苑第四版では「はじめ」がどう扱われているかを挙げてみよう。
①「-あらざるなし、克く終りある鮮し」の説明には、「はじめ」という表現がある。
②「-有るものは必ず終りあり」の説明には、「始め」という表現がある。
③「-から長老になれず」の説明には、「はじめ」にという表現自体がない。
④「-の煌き」の説明には、「初め」という表現がある。
⑤「-の囁、後のどよめき」の説明には、「初め」という表現がある。
⑥「-は処女の如く後は脱兎の如し」の説明には、「始め」という表現がある。
 これを見る限り、どう考えても、この棒線の部分は棒にしない方がよい。敢えて棒線にしたのはなぜだろう。棒線にするなら、どちらの漢字を使うのが標準的なのかを説明の中で示すべきだろう。利用者は本当はどう書かれているのかを知りたいということもあるが、取りあえずは、どう書くのが標準的なのかを知りたいものなのだ。
 国民的辞書を標榜するならば、国語に対する理想的な姿勢を利用者にはぐくんでもらうことを目的の一つとしてほしい。広辞苑第六版がどういう編集方針の変更のもとに編まれたものかわからないが、広辞苑第七版では、こうした面をもっと強く出してほしいものだ。そうすれば宣伝文句どおりの立派な辞書として成長していくはずだ。広辞苑が日本国民の宝の一つになるためにはそうしたステップを踏む必要があると思うのだ。
 
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