怪しい広辞苑206「鷽替(うそかえ)」

 広辞苑第四版227ページ、広辞苑第六版253ページ「鷽替」の説明。これは大阪に対する偏見によるものであろうか。それとも単なる記述漏れであろうか。
 「太宰府・大阪・東京亀戸(かめいど)などの天満宮で、参詣人が木製の鷽を互いに交換し、神主から別のを受ける神事。」に続く説明だが、第三文目に「太宰府は正月七日夜の酉(とり)の刻に行う。」とあり、第四文目の「亀戸は正月二五日。」で終わってしまう。
 つまり、大阪の日程が省略されているのだ。これはどうしたことだろう。省略する正当な理由は見あたらない。これでは、広辞苑は大阪を軽く扱っているのではないかと勘ぐる人がでないとも限らない。広辞苑第六版ではどのように説明されているのだろうか。もし、改善されていなければ、大阪に対する広辞苑編集者の態度は決定的なものだと思われても仕方ないだろう。
 辞書は一出版社が発行するものだが、その内容の性質上、公のものだ。公のものは平等さを欠いてはならない。広辞苑がますます最高峰のものとなるためには、このことを忘れてはなるまい。
 さて、鷽替の心とは何だろう。鷽をとりかえる。嘘を誠に取り替える。自分のついてきた嘘を誠に替えよう。自分の希望が実現しますように。こうした現世利益の思想による願いだろうが、天神として恐れられた時期の菅原道真を抜きにしてはいけないだろう。菅原道真を陥れた嘘を誠に取り替え、身の潔白を証明したいという怨念のようなものは、いつの時代にもあり、次第に凝り固まって増殖し続けているのかもしれないのだ。
 まことに嘘の多い世の中だ。この星の人口が増えれば増えるほど、嘘は多くなるのは確かなことだ。政治的に抹殺され、寿命をも縮めることになった道真公の怒りがまたもや今の異常気象や伝染病を引き起こしていると感じている人々がいてもおかしくはない。そのような伝説的な解釈をして、この世を正そうとする動きが生まれるのならば、因果関係は認められないものの、それは大事な人間的な反応だ。
 この重要性を否定すれば、人々はますます不幸を呼び込んでしまうことになるだろう。その結果、強い人は苦虫を潰したような顔をして不満や皮肉を言うばかりの人となり、弱い人は正しくない世間の中で心を疲弊させてしまう。
 もちろん、鷽替神事を単純に面白がっているというレベルの人々が多いだろう。しかし、身に降りかかった火の粉を嘘にしてしまおうと真剣に参加する人もいるかもしれない。どちらにしても菅原道真の怒りに象徴されるところの「怒り」について思いをはせる人々が増えなければ、神事の本当の目的が達成されたとは言えないだろう。
 広辞苑第七版での改善を願う。
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