腹が減るから食い物をあさる。食い物をあさるのは時間の不経済だから、あさらなくてもよいように保存を試みる。食い物を保存しておくと味が落ちるから、味付けを試みる。味付けをすると食べ物の差別化が生じるから、交換をして好みを満足させることを試みる。好みが満足させられると偏食が起こるから、さらによりよい食べ方を試みたり、よりよい食べ物をさがしてあさったりする。
寂しいから相手をさがす。相手をさがすのは時間の不経済だから、さがさなくてもよいようにコミュニケーションをとって関係を広げてつながりをつけておく。関係に進展がないまま時が経つと魅力が薄らいでくるから、適度にお金や物や言葉や真心を投げかける。投げかけるとさまざまな反応が返ってくるから、よりよき反応をした相手を選んで一歩踏み込んだ関係を築き上げる。その相手との人間関係にのめり込むと世界が狭くなるから、さらによりよい付き合い方を工夫したり、よりよい相手を探したりする。
不都合があるから都合のよい理解の仕方を考える。その都度一つ一つ考えるのは時間の不経済だから、そうしなくてもよいように情報を記録として積み重ねておき、適当なときに検索できるようにしておく。情報を放置したままにしておくと死蔵することになるから、適度に検索をかけて情報をスタンバイさせる。スタンバイさせている間にさまざまな趣旨に基づいて情報を組み合わせたり、交換したりしながら、よりよい扱い方をし、都合のよい理解の仕方を試みる。その理解の仕方で新しい発想を得られるようになると、他のものが見えなくなったり、合わないものを無視したりする不都合が生まれるから、さらによりよい理解の仕方を考えたり、よりよい情報を求めたりする。
こうしたワンパターンを愚直に守って歩んできた者にも、いつか必ずスランプは訪れる。しかし、どのようなスランプであっても、最後には世代交代という自然の摂理によって強制的に解消されていく。しかし、個人においては解消される問題であっても、ヒトの社会においてはそうはならない。言語を獲得し、記録手段をもったヒトの社会は長い年月生きている生命体に似ているからだ。
ヒトの歩みを眺めてみると、青年期を過ぎ、既に壮年期に入っている感がある。血の気の多い時代から、問題を抱えながらもやや大人になってきたヒトの姿が浮かび上がってくる。
しかし、いつまでも壮年期であり続けることはできない。いずれは段階を踏んで新しいステージに立たされることは間違いない。己の中で滅んでいくものに向き合っていく時期だ。
もちろん、その先には種の滅びという虚無の壁がある。いつかはヒトもこの世の中で用済みになるときがくる。人の一定数以上がこの星から出てしまえば、それは新しい世の中の出現を意味する。この星から脱出したヒトの場合は、用済みどころかその逆になる。
一方、この地球にへばりついて生きていくしかないヒトの場合はどのようなことがいえるのだろうか。用済みになって滅んでしまう前に、新型爆弾で自らを滅ぼすことが可能だ。そうした自殺手段を持っているということは、ヒトが己の運命を自ら決定することができる自立した生命体として成長したという見方もできないわけではない。
しかし、自滅する以外にヒトとして何を為せばよいかを皆が考えるというのが筋だろう。人として為さねばならぬことはたくさんあるはずだ。ありすぎて寿命が足りないほどだ。最初に述べた地道な繰り返し、繰り返すことに意味のある、自己目的化した生命活動しかないのだろうか。
結局のところ、他の動物同様、ヒトは壁に突きあたったときに自己崩壊するしか脳のない生き物なのだろうか。もしかすると、現代人の総体が紆余曲折の千鳥足であるのは、突きあたって自己崩壊することを回避するための最後の手段、牛歩戦術を本能的にとっているということなのだろうか。
絶滅種がどのように滅んだか、絶滅危惧種がどのように滅びから逃れようと抵抗しているのか。ヒトにはそのまま当てはまらないかもしれないが、参考にはなると思う。
仮にヒトが滅んだとしても、また、ついでに地球上の全生物が滅んだとしても、それが神が与えたヒトの本来の役割なのかもしれない。やはり僕たちヒト自身が、この星の生命活動に滅びもたらす仕組みの一つなのだろうかと思うこともないわけではない。
確かに準備は整っている。究極の繁栄が達成されたとき、そのスイッチが入るというわけだ。
しかし、それは新たな出発を意味するだけのことなのかもしれない。たとえ新たな出発が起こらなかったとしても、それは元に戻ったというだけの話で、この星から生命活動が一切なくなったとしても、よく考えてみれば、どうということはない。地球という星と生き物たちにこだわるとしても、宇宙のどこかで、また地球のような星ができあがれば、それでもよいではないか。
このように、最近は滅びというものを心の奥底で受け入れてしまっているような気がする。これはとても恐ろしいことだ。もしかしたら年をとってきたことと関係があるのかもしれない。
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