日々雑感266「背の高さ」

 目の位置を変えるだけで世界が変わる。上から見るとすべてが見えているような感じになって、わかってしまった気持ちになるけれど、横から見ると見えないものがあるので、移動してみる角度を変えてみたり、探ってみようとしたくなる。紙に書いた迷路と実際の迷路との違いのようだ。子供は好奇心が強いけれど、背が低いから好奇心が強くなるということもありそうだ。
 結局はこういう物理的なことが基礎的な要因となって精神的なものが左右されるということなのではなかろうか。見えるものが変わると、世界が変わり、世界が変わると、感じ方や考え方が変わる。感じ方や考え方が変わると、行動が変わり、行動が変わると、性格が変わる。そして、性格が変わると、人生が変わっていく。
 例えば、第二の性格を形成していく年齢、つまり幼稚園児から中学生にかけてだが、グランドで整列をする場合や床が平面の教室の場合、大抵は背の順に並べられるが、これは前が見やすいようにという配慮だろう。最近は一クラスの生徒数が昔よりも少ないので、あまりあてはまらないかもしれないが、背の低い子供はいつも前の方、背の高い子供はいつも後ろの方ということに相場は決まっている。このように並んで指導を受けるということが、性格形成の上でどのような影響をもたらすのかということを考えてみたい。
 極端な例をみることによって、その中間層も類推することができるはずだ。最初に、中学校を卒業するまで常に先頭に並ばざるを得なかった背の低い子供のことを考えてみよう。次に中学校を卒業するまで常に最後尾につかざるを得なかった背の高い子供のことを考えてみよう。
 まず、何が目にはいるかということが問題だ。先頭の子供は教師、最後尾の子供はその教師に反応する子供たちだ。先頭の子供が一対一の関係の中で生きているのに対し、最後尾の子供はいろいろな一対一の関係を見ながら生きているということになる。つまり、先頭の子供が教師の指示に基づいて行動するのに対し、最後尾の子供はその行動を情報として得つつ、教師の指示に従うということだ。
 ここからどのような心理的傾向が生まれるかということが問題だ。
 先頭の子供は教師の指示に従って行動せざるをえない。上手く行動できない先頭の子供は、恐らくきょろきょろと周囲を見てそれに従って行動することになるだろう。上手く行動できる先頭の子供は自信を持って教師の指示に応えるだろう。
 きょろきょろ周囲を見回す必要のある背の低い子供は、その事によって教師から叱責されたり指導を受けることになる。教師の近くにいることから、自然と教師は手をかけて他と同じような鼓動ができるように支えるようになる。
 周囲の状況を把握しなくても行動できる子供はそれなりの勘の良さを持っていて教師から認められる存在となるが、全体の中では力不足となるので、自然と教師は手をかけて能力なりの行動ができるように支えるようになる。教師の心を読んで何をどうすればよいかに、早く気づいて行動を起こすことが要領のよさだと了解するようになる。
 しかし、他の子供の動きと自分の動きとを比べる機会に乏しいため、独善的になりやすい。純粋ではあるが、他の子供から見れば鬱陶しい存在なので、人柄が悪く、自分たちのためにならない行動が多ければ、いじめの対象となる子供にならないとも限らない。
 一方、最後尾の子供はさまざまな行動を情報として得るから、その根拠となる人の心理を理解しようとする。つまり、いつも全体の様子を見渡しているから、客観的
な立場に立って判断しようとする傾向が生まれる。その結果、それなりの根拠のある批判精神や行動を起こす時点で計算された行動をとるようになる可能性が高い。
 また、後ろにいるため教師の目から遠く、多少は指示通りでなくても叱責されたり指導を受ける機会がまれとなる。すると、通常以上のトレーニングが課せられるという条件のもとでは、まじめにがんばることがばからしくなり、うまく手を抜くことが要領の良さだと了解するようになる。
 自分と同様に手を抜いている子供や、上手くできなかったりする子供、叱責されたり指導されている子供、難なく事をこなしている子供を同時に見ているので、能力によっては自分と比較して絶望感を味わったり、優越感を味わったりと、複雑な心境になりやすい。そうしたストレスの中で、自分自身の考えというものを確立して揺れ動かない魂を手に入れる子供となったり、いつまでも揺れ動いたまま不安定な心のままで非社会的な行動に走ったり、反社会的な行動に走ったりする子供にならないとも限らない。
 そもそも背の高い子供は、肉体的な成長とともに精神的な成長も背の低い子供に対して進んでいると見てよいように思う。同じ学年となる三歳の子供と四歳の子供との間には最大一年間の差があり、この成長の度合いにはかなりの違いがでてくる。四五歳と四六歳との間に際だった差はないが、幼少期の一年間の差というものはかなり大きいのだ。例えば、かけっこでも通常は三歳の子供は四歳の子供には勝てないのだ。背の低い子供の多くはこのように敗北感を味わいながら幼少期を過ごす可能性が高い。
 そうしたことから、奮発する背の低い子供と、周囲の状況判断の甘い背の低い子供と、思い込みの強い背の低い子供と、あきらめがちになる背の低い子供と、何かほかのことで認められようとする背の低い子供と、助けられ上手な背の低い子供に分かれていくように思うのだ。
 また、周囲を見下す背の高い子供と、非社会的・反社会的行動に走る背の高い子供と、幅広い見方をする背の高い子供と、間違いのない行動を選択しようとする背の高い子供と、思いやりをもって面倒を見ようとする背の高い子供に分かれていくように思うのだ。
 バス旅行をするときに最後部の座席に座りたがる人々というのは、やはり同族である可能性が高いように思う。自分が安定する場所というのはそれなりの意味があるのだ。
 大人になれば、人間関係の疎密や力関係がこの背の高さに相当するものになるのだろうが、これに加えて情報量の寡多も大きな要素になってくるように思う。  
 さて、人間以外の動物にこのようなことはあるのだろうか。そういえば動物行動学者の日高先生が先日お亡くなりになった。小さな講義室で聞いた先生のわかりやすく親しみやすいお話が強く印象に残っている。あれは魚の話だったが、捕食する他の動物が下から見たときや上から見たときの保護色機能と異なり、横から見た場合、魚には奇妙な物体に見えるというくだりがあった。  
 魚の視野がどのようなものだろう。おそらく左右の体側に目がついていることから草食動物のように視野が広いと想像できる。しかし、地上の動物と違って水中という立体空間の中で生きているから、ただ広いのではなく、より立体的に広く見えるはずだ。ヒラメやカレイ、アンコウのように海底にいる魚は別として、敵や獲物は自分の周囲のどこから現れるかわからないからだ。文字どおり魚眼レンズだ。もっとも、魚眼レンズで人間が見る景色のように魚が外界を見ているとは限らないが……。
 どろんと鈍く光る奇妙な物体に見えるという言い方をされたが、そこをもう少し詳しくお聞きしたかったということと、人間というものについて質問することがたくさんあったのに、結局は聞かずじまいだったことが悔やまれる。
 深くご冥福をお祈りいたします。

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「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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