日々雑感267「あやうい人生観」

  確固たる人生観というものをもっているということはうらやましいような、そして悲しいような気がする。
人生観というものは、創り上げていった結果ではなく、自然とやむなく生み出されたものだからだ。だから、人生観をもたねばならぬという言葉には若干の語弊がある。
 何か立派なことを成し遂げる原動力としての人生観というものはない。原動力はやはり魂の力だ。人生観は原動力そのものではなく、人として生きていく生き方の、あるいは自分らしく生きていく生き方の、そして何かを成し遂げるときの判断基準の底にある土台となるものに過ぎない。
 しかし、実際には土台ということばがもつ不動のイメージとは似ても似つかない繊細な杖のようなもの、いわば昆虫の触角のようなものだ。そんな頼りないものでは不安で仕方がないので、その背後に何かどっしりと構えた土台のようなものを仮想するようになるというのが自然な流れだ。もっとも、頼りないとはいっても、それ以外に頼るものはないのだから、最も頼りにできるものといってもよいのかもしれない。
 問題は、その背後にどのようなものを人生観として仮想するかということだ。これが貧弱であるか、未熟であるか、もっともらしいものであるか、その人らしいものであるかなどという誠に勝手な評価をすることがある。この評価をに基づいて、人生観ができているとか、できていないとかいう不毛の話になっていく。
 生きていくための行動やそこから派生する行動は目に見えるものであるから、他人から分析される宿命にある。しかし、案外と人生観という目には見えないものが話題となって云々されることもある。残念ながらそうした話は聞いているだけでむなしくなる。やはり自分には、仮想するという半ばいんちきの作業によって人生観というものが形作られているという身勝手なイメージがあるからそう思ってしまうのであろうか。
 そもそも、人の日常的な通常の行動は、自身の人生観に基づいて論理的に、そして意図的になされるものではない。たとえ最初はそうであったにしろ、すぐに頭を使わないでもよい方向、つまり習慣化してしまうのが現実だ。もし、自分の人生観を意識するときがあるとすれば、次のようなきっかけがあったときだろう。
 傍からその人の行動を見て、その人の人生観をうかがい知ったときだ。そのことによって、では自分の人生観というものは果たしてどのようなものであるかと自問自答させられるのだ。また、自分の生き方や生きてきた足跡をじっくり振り返って客観的に見つめ直すという時間的な余裕が生まれたときだ。これらのときに、初めて自分の人生観を自覚するというのが普通だ。いつも自分の人生観を意識して生きているというのは、生き方自体が不自然か、不自然な状況に置かれているかのどちらかだろうと思う。
 ただ、人には日常的な通常の行動様式では対応できない局面に追いつめられる場合がある。人生の岐路に立たされて重い判断を下さねばならないときだ。こうしたときには、最初から自分の人生観を強く意識したうえで、その人生観を踏まえた判断を論理的に意図的に行い、その判断に基づいた行動をとるということが多いのではないだろうか。
 もちろん、日常的に、自分の人生観はこうだから、こう考えるべきだと言い続けている人もいる。この場合は、そのように大仰にすること自体が、今抱えている不安を単に解消するための工作にすぎないことが多いのではないだろうか。この場合の人生観は、後付けの根拠のようなもので、それ自体がダイナミックなはたらきを中心的に果たしているかと言えば、どうもそのようには言い難いところがある。単なる言い訳だったり予防線であったりして、自分の自信のなさを自分自身でフォローしているようにしか感じられないことが多いのだ。
 周囲の悪意ある妨害や善意の妨害によって、これらの作業がうまくいかなかったり、その作業に十分な時間的な余裕がなかったり、その作業を行う能力が未熟だったり衰えていたりしてうまくいかない場合には、やむをえず非論理的で意図的ではない感情的な判断がなされ、その誤った判断に基づいた行動を取るしかないという悲劇や喜劇も起こり得る。
 このようにあれこれ考えていると、人生観などというものは生きている間にわいてきたおまけのようなものだというイメージを帯びてきてしまう。時代の変化やその周囲の人々の物事に対する価値観の変化などに応じてこれまでとは違ったものがわいてくるというイメージだ。人それぞれ異なる人生観をもっているというのは、そうしたことの証拠のひとつであるように思われる。
 確固たる人生観は、年齢とともに形成されていくだけの単純なものであればわかりやすい。わかりやすければ、支持を多く得られやすいものとなるはずだ。さらに、土俵が狭ければ、たとえ傍から見て了見の狭いものであっても、不動の価値観としての評価を得られるという期待ももてる。そうすれば、たいしたことのないものであっても力をもつ。力をもってことに当たれば、「無理が通れば道理が引っ込む」ということが十分にある。善悪正否ではないところが世の中にはあるから、これが油断のならないところだ。しかし、それは間違った世の中ではない。一見間違っているようなことが実際には大事な役目を果たしていることがあったりする。
 さて、確かに人生観というものは、平時、あるいは急速な変化を見せる時代へと突入する初期の段階では、僕たちのそれぞれの迷いを払拭してくれるそれぞれのお守りのようなものとして有効に機能するものだろうと思う。しかし、激動混迷の現代ではかなり胡散臭くて迷惑なものに成り下がってしまってしまうおそれがある。変化に対応しにくいのだ。最後には諸行無常などという当たり前のことを人生観に据え置かねば格好がつかない状況にならないとも限らない。
 また、あえて人生観を述べれば、それは人それぞれでしょうという身も蓋もない文句によって無力化してしまう時代に、それを披露することはあまり賢いことのようにも思われない。人それぞれのものを普遍的な価値観であるかのような勢いで周囲に表明し、判断の基準にしていこうなどとすることに対する反撃は、たとえそれが広く正しいものであったとしても、自分の存在が危うくなるだけに攻撃の手を緩めるわけにはいかないから、自然と容赦のないものになりやすい。そうでなければ、無益な対人関係の摩擦を「スマート」に避けるという姿勢で完全無視をするかだ。このどちらかの態度を取るのが普通だ。
 仮に、自分の人生観を周囲から請われて述べる機会があったとしても、互いに理解し合うことはできても、だからといってすり合わせが行われるわけでもないから、中途半端の満足感と不満感がないまぜになって漂うだけだろう。価値観の多様化というものが現代人の孤独というものをよりいっそう深めてしまっているような感じがする。
 この時代の人間に必要なのは何だろう。
 しっかりした人生観だろうか。それも大事だろう。しかし、もっと必要なのは、決して折れない柔軟でねばり強い精神力という強靱な魂の力であるような気がしてならない。「○○観」などというすました代物ではないだろう。四百字以内でまとめられそうな、そうした簡単に紙切れに表現されてしまうような、書いた文字のような存在は、邪魔になるようなものではないが、既に無力で頼れるものではないと自分自身が気づいてしまっているのではないだろうか。
 「人生観」ということばにかつて感じられた、重厚さ、そして価値の高さの名残は、ことばの響きの中にはかろうじて漂ってはいるものの、努力によって身につけたものではなく、否応なしに形成されたものだという出自の弱さが暴露されている以上、敢えて話題にするほどのものではなくなってしまっているのかもしれない。
 「人生観」という哲学めいたことばの響きによるありがたみは、それはそれで害はない。しかし、自分の人生観が長大な文章によって綴られる一大叙事詩、あるいは一大叙情詩の如きものではなく、誰もが思いつくような単なる覚悟であったり、諦めであったりすることに気づいたときの衝撃は甚だしいものがある。だから、青少年に対して「人生観」自体について語る場合、神聖なるものとして、金科玉条の如きものとして、勿体ぶってジンセイカンという単語を口にするのは好ましくはないことなのかもしれない。
 青少年には、自らの人生観を語らせることによって、受け売り度や曖昧度や矛盾度に気づいてもらえるようにすべきなのかもしれない。彼らの語る人生観が呼び寄せる運命を、お互いイメージできる形で展開させていく作業が必要だと思うのだ。
 それはそれでおもしろく有益だろうが、人間以外の動物の人生観を見つめるのも有益でおもしろいように思う。人間ではないから、猫生観とか犬生観とか昆虫生観とでもいえばよいのだろうか。しかし、それでも大雑把なので、チワワ生観とか、ミズスマシ生観とか細かく見るのが方がよいかもしれない。さらに、犬の名前がポチなら、ポチのチワワ生観などという見方で観察するのもそれだけで楽しそうだ。
 もちろん、彼らの生き方と人間の生き方は別のものだから、敢えて彼らを人間化して考え、試みに人間として解釈してみるという戯れだ。やはり仮想のものだが、仮想、戯れといっても重要な内容はたくさんあり、仮想、戯れであるからというだけの理由で切り捨ててしまうという愚行は慎まねばならない。
 戯れといえば、動物占いではないが、これを拡張してさまざまな動物に人生観の類型を求めるという作業も楽しそうだ。これはレクリエーションとなるばかりではなく、新しい生き方の発見につながるかもしれないという淡い期待感も得られる作業だ。生物の新種が発見されたときに魅力を感じるように、新しい「人の生き方」というものには非常に魅力を感じるものだ。ただ新しいということだけで、それだけの価値と魅力が生まれるのだ。物事を合理的に流行させるということの意味もそこにある。
 一方、辛気くさく、ありきたりで、しかも時代がかったように感じられてしまう人生観であっても、それはそれでやはり残しておく価値がある。しかし、そうした人生観にとらわれると、悲しい世の中を悲しく見つめるしかない人々にしかなれないように思う。僕たちは僕たちの魂の歌を歌い上げなければならないと思うのだ。それは大袈裟なことでもなければ、大上段に振りかぶっているわけでもない。至極当然のことだ。
 しかし、ことによるとそれは、危険な行為を生み出すことになるかもしれない。なぜなら、僕たちが自分自身の魂の歌を歌い上げるということは、それは生き方を変えるということだからだ。生き方を変えるということは、これまでお互いにバランスを取り合ってきた世の中に力を及ぼすということだ。世の中に力を及ぼすということは、その反作用を自らが受けなくてはならないということだ。
 その反作用は、ことによると自分だけでなく、自分の家族、そして仲間たちにまで及ぶことが多い。生きる場である社会からはじき出される場合だってあることを覚悟しなければならない。はじき出されない位置にいるかどうかを見極めなければ、たった一度の衝撃で簡単にはじかれてしまうこともある。
 たとえ最初は大丈夫な位置にいても、反作用を繰り返し受けているうちに、結局は危険な位置に移動してしまい、最後は何でもないような小さな反作用によってもはじき出されてしまうこともある。
 これが主な危険だ。所詮は生き物だから、自分の一生をよりよく生き、社会にも貢献するという程度の目的しか僕たちはもてない。しかし、その目的が達成できなくなるのだ。すると、僕たちの魂には自己満足の道しかなくなってくる。
 この自己満足という方法で自分をフォローする仕組みというのは、人間においては特に発達しているような気がする。そうした仕組みはなぜあるのだろう。もしかすると、人間というものは危険を冒して行動するということが必要な生き物だからかもしれない。
 自己満足を目的に冒険家が冒険旅行に出かけるのをうらやましく思うのは僕だけではないだろう。彼らの人生観というものは非常に純粋(金が絡まないという意味ではない)で自分に正直でわかりやすい。危うい人生観による危うい行為を続ける冒険家は、僕たち普通の人間が避けていることを、代理で演じてくれているように解釈できる。また、自己満足を行為という目に見えるものとして演じてくれているかのようでもある。もちろん本人は世のため人のために冒険をしているつもりはないだろう。
 少なくとも自己満足というものが不当に低い評価を得ていることに一矢報いてくれてはいる。このことに僕たちは敬意を表し、感謝しなければならない。

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