怪しい広辞苑210「打刀(うちがたな)」

 広辞苑第四版231ページ、広辞苑第六版257ページ「打刀」の説明。「腰に足緒(あしお)で吊る太刀に対して、帯にさして敵を斬るのに便にした長い刀。打太刀。」とあるが、これでよいのだろうか。打刀とは僕たちが普通に言うところの日本刀だ。
 まず、現代の利用者からすれば「斬るのに便にした」という、今どきの日本語としては不自然な表現を改めるべきだろうという細かなことはさておき、「長い刀」という表現の是非を問いたい。
 帯にさせば移動しながら働く支点を得て、効率よく鋭く抜刀できるから、敵を斬るのに都合がよいわけだが、それは抜き打ちにするときだけに有効なものだ。抜いて構えて間合いを詰めてという通常の攻め方をするときには役に立たない。しかし、帯にさせば鞘に納めたままの刀を繰り出しながらの技が可能となったり、刀を抜きはなって空になった鞘を使って後ろの敵を威圧したり、かなり膝を曲げなければならないが、敵の武器の軌道を鞘でそらせながら刀の方で攻める準備を完了させることも可能となり、鞘の動きを生かした攻めや守りのバリエーションが増える。
 つまり、帯にさすことによって、ほぼ腰に固定された太刀の鞘とは異なる使い道の幅が飛躍的に高まることになる。わずかなことが勝負の流れを変えてどちらの命が助かるかが決定するのだから、およそ常に臨戦態勢の戦ではなく、平穏な日常生活から急に臨戦態勢に移る個人の命を守る武器としての日本刀の需要が高まっていく時代には、日常的な服装の帯にさすタイプの打刀のつくりの刀の方が多く作られるようになるのは当然だろう。
 このように広辞苑第四版の説明を読み解いていったとき、打刀の説明において「長い刀」という表現が使われることに違和感を覚えるのだ。なぜなら、帯にさしたときには腕の長さ、肩幅、腰回りの具合、技量によって刀身の長さが決定されるからだ。つまり、「長い刀」ではなく、尋常に扱えるその持ち主にあった長さの刀でなければならないのだ。
 「長さ」という点で見れば、太刀の方こそ打刀の条件に足緒の分の長さが加わり、長い刀身でも個人の力で抜刀可能となるから、どちらかと言えば太刀の方が長い刀になる。加えて、戦で馬上で闘うための刀としての太刀ならば、なおのこと長くなる必要があるはずだ。
 ところが、広辞苑第四版の説明の中の「長い刀」という表現には、「打刀」の方が「太刀」よりも長い刀なのだというイメージをもってしまう利用者が出てくるかもしれないという不都合がある。その主な原因は、この説明の文が太刀と打刀との対比で述べられる形になっていることにある。これは読解力の問題であると片づけられてしまうかもしれないが、その読解力に問題があるからこその心配だ。僕たちは全員が理想的な人格や能力の持ち主でない。理想的な読解力を持っている人も何割かに限られるのが普通だろう。
 特に辞書利用者は読解力を高めていく段階の学生が多いのだから、とりあえずは読解力の問題だとしてはならない。どちらかといえば、辞書の表現力の問題とされるべきものだ。
 もしかすると、打刀の説明の執筆担当者には、帯への大小二本差しという日本刀のイメージが前提としてあり、その二本のうちの長い方が打刀というのだと言いたかったのかもしれない。もしそうならば「長い刀」ではなく、あまりよい例ではないが「長い方の刀」などとすればよいところだろう。
 さて、太刀は馬上で、打刀は徒歩で使用するものとして発達したと言われることが多いようだが、実際に太刀が馬上で使用されるものなら、馬にまたがって太刀使用者の背丈が伸びた分だけ刀身が長くなければ攻撃しにくい。その分だけ地上の相手から遠くなるからだ。
 また、馬上同士で闘う場合でも、徒歩で使用する刀よりも長くなければ攻撃しにくいだろう。馬が四つ足だから、その場で向きを変えるのが二足歩行の人間より劣ることと、利き手の反対からの攻撃に対応するときに、刀を反対の手に持ちかえない限り、相手に対して剣先が届きにくいからだ。そして、そもそも相手との間合いが馬体の分だけ遠くなるからだ。このことだけで考えても、徒歩で使う打刀よりも馬上で使うと言われる太刀の刀身の方が長くなるのはが自然ではないだろうか。
 とはいえ、実際には平均的な体格の推移と体格の個人差の問題がある。太刀の時代から打刀の時代へ移っていくときに日本人の体格がどのように変化していったかという問題だ。体格が大きくなっているか、小さくなっていくかによって、あるいはあまり変化がないかによって、それぞれの刀身の平均的な長さも変わろうというものだ。もちろん、これに加えて体格の個人差の問題もあるから、ただ単に「長い刀」という表現で長さに触れるのは不都合があると思うのだ。
 ただ、体格が小さくても、太刀の場合は腰から吊している足緒の分だけ鞘を後ろに引くことが可能になるので、その分だけ刀身を長くしても鞘から抜くときの不都合は解消されるということはあるだろう。それに対して打刀は、直接に日常の服装としての帯へ直接さし込むものだから、刀を鞘から抜くときに、鞘を引いたり腰を捻ったりするものの、鞘を引く長さに加えてプラスアルファーの長さを太刀のように稼ぎ出すというのは難しいように思う。このことから、同じ体格や技量でも太刀の方が打刀よりも長くつくることができるとは言えないか。
 体格の問題以外にも、攻防の技術的な発達、つまり刀を抜く技量の差ではなく、どう刀を扱うかという操作技術という意味での技量の差という問題もある。それにしたがって反りや幅や重さなども工夫されるから、刀身の形状も変化するするはずだ。例えば、馬上で刀を振るには手綱を持つ関係で、片手で振り回さねばならないときが多いはずなので、片手で自由に振り回すための操作方法の技術改善とともに、刀の先を細くして先端の重量を減らし、振り回すときの負担を軽くするという必要がでてくるだろう。太刀のように打刀よりも剣先の方が次第に細くなっていくのは、このような解釈が自然だと思うがどうだろうか。その方が同じ長さの刀ならば、片手で扱いやすいというわけだ。
 反りの問題もある。太刀が打刀よりも反りが深いのは、もしかすると馬上でのふんばりが地上よりもきかないために打突が弱くなる分を補うものかもしれない。馬上では利き手の腕力や腹筋や背筋の力に大きく頼って刀を操作しなくてはならないことが多いと思うのだ。また、刀の慣性を上手く利用するための手首の返しや目配りと腰の力も必要になる。複数の敵の動きを予測しての剣先の軌道のとり方や攻撃の順番などを瞬時に判断することも大事だ。
 しかし、敵に大きなダメージを与えるには、十分に腕を振り切って剣先の速度が上がったときに相手に刀が当たるというタイミングにすることが最も大事なことになるはずだ。馬上ではそれを片手で行うというのだ。そのためには、拳の高さが腰の高さあたりにまでくるほどに腕を十分に振らねば、刀が手の中で安定しづらい。また、次の動作を行うためにも拳の高さが腰の高さあたりにあった方がよい。何しろ片手だから刀の操作には満たさねばならないこのような条件が多くなる。このとき、反りが深ければ腰の高さまで十分に拳を振り下ろしたときに、相手に当たるタイミングとなりやすい。これは、反りの分だけ敵に当たる時間が遅れる間に腕の力が最大に発揮される条件を整えていることになる。つまり、反りが少しでも深い方が、敵を斬るまでの間に片手で剣先にスピードを載せる時間を稼げるということだ。
 また、反りが深ければ、自分の馬の陰、たとえば正面とか下、斜め後ろなどのエリアに入った相手に対しても反りを利用すれば少しでも剣先を回り込ませていけるので、攻めやすいはずだ。また馬の背の高さにもよるが、馬上から徒歩の相手を刺したり斬ったりする場合でも反りが深い方が有効な角度で当たるように思う。馬を走らせて斬る場合も、反りが深い方が薙ぎ斬るように有効に斬ることができる。
 ただし、反りがあまり深い場合には、大きなモーメントが働きやすいので、手の内を決めて上手に握る必要がある。また、上手に刃筋を立てて斬る必要がある。しかし、そのモーメントを利用して複数の相手に対応するための刀の操り方を工夫した者もいたかもしれない。
 一対一の板の間剣道と異なり、あらゆる物、あらゆる環境、あらゆる偶然を利用しなければ勝てない戦では、どのような工夫がなされていたのだろう。強い者は戦を重ねる中で死んでいき、生き残る者は生き残ることばかりを考えて行動した者か闘わなかった者、あるいは守られる立場の者ばかりだ。仮に強い者が生き残っても、生き残った秘術の全部を他人に明かすことはないだろう。
 さて、長さも、単に長いといっても、刀身自体の湾曲した長さなのか、それとも鍔元から切っ先までの直線的な長さなのかという問題も若干ある。
 このように見ていくと、目的や体格や筋力、技量、さらに好みによって、いろいろなサイズや形状の太刀や打刀が生まれていくことになる。何しろ命がかかっている武器だ。自分に合わないものなど絶対に使いたくはないはずだ。したがって、広辞苑第四版の説明にあるような、打刀は太刀よりも一般的に長いという印象を与える表現はやめたほうがよい。そもそもいったい何と比べて長いというのだろうという素朴な疑問が残る表現だ。
 次に、説明の前半に「腰に足緒で吊る」とあるが、これでよいのだろうか。
 鞘に取り付けられている二本の足緒に太刀緒を通し、その太刀緒を腰に巻いて吊すのが太刀だから、この説明だと不十分であるように思う。このままの表現だと、足緒の役割を勘違いする利用者が出てきてもおかしくはない。腰に巻き付けるような長い緒を「足緒」と勘違いするおそれがあるということだ。
 ここはやはり「腰の帯から足緒で吊る」とした方がよいだろう。足緒が一本では、激しい動きを要求されたときに太刀の石突が下を向いて地面に当たったり、柄頭が上を向いて腕に当たったりするなど不都合なことが起こりやすい。だから、普通は二本の足緒で吊ることになる。そうなると、「腰の帯から二本の足緒で吊る」とした方が好ましいのかもしれない。
 しかし、帯というものを一般的な服飾品の帯と混同するおそれもあるから、「腰に巻いた太刀緒から足緒で吊る」とした方がよいだろう。つまり、説明の前半のここで「帯」という単語を使用すると、この後に続く後半の「帯にさして」の「帯」、即ち一般的な服飾品としての「帯」と混同してしまうからだ。
 やや文字数を費やすことになるが、説明の最終行にまだ十七文字分のブランクがあるから全く問題はないはずだ。
 辞書に許された文字数は限られている。その限られた文字数の中で正確に表現をしていかないと、特に日常生活から遠いものについては誤解を生むことになる。多くの人が誤解をすれば、その誤解が真実と見なされていくことになりかねない。これはゆゆしきことだが、同時に文化の豊かさを支えるものになっていく可能性もある。それはひとえに辞書の編集方針にかかっている。いくつも意味がある単語をどのような順番で意味を書いていくか、そしてどこまで紹介していくか、そしてどのように紹介していくかという問題に対してどのような姿勢をとるかということだ。
 因みに、打刀のイラストには、打刀にはつきものの「下緒(さげお)」が描かれていない。理由はやはりわからないが、おそらく趣味によって取り替えられる存在だからかもしれない。刀とのつながりが鞘ほどにはないということだろう。これが描かれないということは、太刀の場合も足緒とか太刀緒もイラストで描かれないという可能性がある。
 広辞苑第四版1589ページの「太刀」のイラストには、「足緒」のかわりに「帯取」と書かれている部品が二つ鞘に取り付けられている。ここで「帯取」として「足緒」なるものが取り付けられているということがわかる。
 しかし、同じく広辞苑第四版40ページの見出し語「足緒」には、「太刀の足金物につけて帯取を通す革。」とある。すると、足緒に足緒を通すとも受け取れるややこしいことが起こり、不都合のある説明だということになる。
 広辞苑第四版377ページの見出し語「帯取」の中には、「室町の頃から、佩緒のことも誤って帯取の緒と解している。」という説明がある。佩緒(はきお)は太刀緒のことだと思うが、この内容が正しいとすれば、「足緒」の説明で、「帯取を通す革」という表現をするのは不適切だ。
 例が悪いかもしれないが、ここは「帯取(佩緒とも)を通す革」とか「佩緒(帯取とも)を通す革」というような表現にすべきだろう。利用者が関連する見出し語を全部見つけて読むとは限らないからだ。このようにすれば括弧書きの中のことばを調べる意欲づけになるとともに、「帯取」の説明と「足緒」の説明との間の整合性を多少なりとも持たせることができる。
 このようなラフな説明は勘弁してもらいたい。「足緒」の説明にはブランクが二十字近くもあるのだから適切な表現に改訂しなければいけないと思う。そうでなければ思い切って「帯取」の説明の中の「室町の頃から、佩緒のことも誤って帯取の緒と解している。」という豆知識的な説明は載せない方がよいかもしれない。
 広辞苑第七版ではどのように改善されているだろうか。

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