日々雑感270「非オリンピック種目」

 オリンピック選手にメダルの獲得を要求するのは当然のことだ。昔からそうした風潮にある。それはメダル獲得が日本にとって戦後復興の証明であるかのように謳われていたころの名残なのであろうか。しかし、僕たちにとって当然のことであったとしても、もはやそれは愚かなことだ。ましてやメダルを獲得できなかったときに選手を批判したり軽く扱ったりするのは、愚の骨頂だ。
 選手や選手関係者はメダル獲得を目ざして努力するだけでよい。他に何も考えることはない。競技に見入る我ら野次馬や応援団、そして個人的なファンは、競技を楽しんだり、感動したり、憧れたりしていればよい。他に何もすることはない。純粋なスポーツのあり方、スポーツ観戦のあり方というものは、こうしたものでなければならないと思う。
 もちろん、誰もが純粋なスポーツのあり方だけを求めているわけではないが、理想を常に掲げておかねば、誰も泥臭いこと、卑劣なことや愚劣なことなどに安心して手を染めていかれぬ。人というものは思うほどにはタフでもなければ繊細でもないように思う。純粋なものを理想として掲げるのは、大きな配慮と見た方がよい。建て前と本音などというような身も蓋もないような割り切りのことばも、実際がそうであるという理由で避けるべき表現だろうと思う。
 これに対して、選手にメダルの獲得を直接要求したり、結果として要求することになる仮面の応援をしたりするのは、あさましき賭博根性だと言われかねない。もし、浅ましき賭博根性によるものであって、そこから脱却することができないというのならば、そこには何か人間として悲しいものがある。
 ところが、恐ろしいことに両者の差は見きわめがたい。自分自身がどちらであるか明らかになっていないのは僕だけかもしれないが、ここは深く自分を振り返ってみなくてはならないところだと思う。
 ところで、国を代表して競技するよう選手に錯覚させたり、選手が国を代表しているかのように国民に錯覚させ、実際に国の代表として位置づけ、国の代表として振る舞わせるに至るのは、いったい誰によるどのような目論見だろう。一スポーツ選手が自分の限界に挑戦して世界に挑むという美しい行為によって、様々な醜いものが覆い隠されていると見た方がよいように思う。
 さて、オリンピックの競技種目に選ばれているスポーツの選手には、オリンピック参加への遠い遠い道のりというものが目の前にある。これは運命的なものだ。入門期からそれには誰もが気づいている。だから錯覚が錯覚としてとではなく、当然の流れとして既に受け入れられている。試合があり、競技会があり、表彰があり、ランキングがあり、選考会があり……。システマティックにことが運ばれていくように仕組まれている。
 毎年毎年、そのレールにそって果たし合いが繰り広げられていく。資金繰りがうまくいっている以上、大事件でも起こらないかぎり、途切れることなく続くのだ。永遠に高みの見物の傍観者は、選手の痛みや苦悩、波乱の人生自体を、スポーツファンという立場や応援する国民という立場、つまり誰も批判する余地がないとされている巨大な安全地帯のなかで、一時の興奮を享受する。
 これを非オリンピック種目のスポーツの選手はどのような目で見つめているのだろうか。うらやましいこととしてとらえるか、煩わしいこととしてとらえるか、自分たちには自分たちの道があると割り切っているのか。もちろん人それぞれと言えば人それぞれであろうが、話題の種として、メダル話に加えて、この種目話もあってもよいように思う。
 さて、世界平和のためにという近代オリンピックの精神に立ち返ったうえで、現状を踏まえた新しいスポーツの祭典のあり方を考えるべきなのだろうが、そのタイミングはどうつくればよいのだろうか。それがオリンピックという名を持つかどうかは別として、本当に世界平和を考えるならば、国以外の団体も含めてはどうかというアイデアが出るかもしれない。しかし、反政府組織などのアングラ団体から派遣された選手をあたたかく迎える腹をもつほどに一般の国々が成長しているかどうかが問題だ。
 もちろん、心の開き方というものはあらゆる可能性を左右するものだから、接するうちに思わぬ物事から反政府組織が解体されていくきっかけがうまれるかもしれない。現実はそんなに甘くはないが、ここ数千年の世界史を改めて眺めてみるかぎりは、とんでもないことが突然起こったように見える変化というものがある。
 だからといってこれからもそうだという保障はないけれど、数千年から一万年ほどあれば何とかなりそうだと思うのだ。そんな先の話をするなと言われそうだが、ここまでくるのにもっと長い期間を人類は歩んできているのだから、人類の行く末を考えるときには、そのぐらい気の長い話で考えた方がよいように思う。
 もっとも、最近の世の中の動きは早いから、これまでとは違う。これは世の中自体が変質したと思ってよい。激変だ。激変は人間がコントロールできない大事件で収束し、また緩やかな変化の時を迎える可能性もある。大事件の性質によっては復活不能となるかもしれないから、人為的な大事件を起こして、それを防ぐということもできるだろうか。
 話をオリンピックに戻すが、他にも問題は多い。仮に誰かがメダリストの年金生活を保障したり、高額の報奨金を出し始めたりすれば、それがあだとなり、選手の中にはそれを目当てに活動する「さもしさ」がうまれる可能性がある。
 この「さもしさ」は周囲の感動を粉々に打ち砕いてしまう。幸いなことにそうした「さもしさ」は目には見えない心の問題だ。どうかそうした「さもしさ」が目に見える形の情報とならないようにマスコミは配慮してほしい。
 見えてほしくない部分を隠すのは悪いことではない。エピソードとして後で流すのは笑い話や涙話になるが、開催中には少なくとも若い人々への精神的影響も考えた配慮が必要となるだろう。マスコミ得意の人心コントロール技術でお願いしたい。
 ただ、電波は容赦なく伝わるという一種の横暴性をもっていることをもう一度頭に思い浮かべてほしい。そのうえ、理想的な判断ができる視聴者だけに届くものではないということもだ。マスコミにもピンからキリまであるように、視聴者にもピンからキリまであることを忘れてはならない。僕たちも数年前の僕たちとはもう違うのだ。
 このようにスポーツの祭典は諸刃の剣を抱いているように見える。しかし、現在は『美しい会場、美しい言葉、美しい演出で、その漂う「さもしさ」を覆い隠そうとするのは理にかなっている。また、多くの美談、苦労話など、人の心を動かすエピソードを情報として流すのも大事なことだ。むしろこれらの美しきことや心に響くことなどのスポーツの副産物のようなものの方が、実はオリンピックというスポーツの祭典におけるメインの業績だと思われてくる。』というような言い方をされるところまでにはまだ至っていない。これが救いだ。
 それどころか、僕たちには選手の努力やすばらしい成績が光り輝いて見える。それが感動をもたらし、生きていく元気や勇気がわいてくることに、ほとんどの人が価値を認めているという動かしようのない事実がある。
 これだけで十分だ。舞台裏を知っている必要はあるが、広く表に出す意味はない。そういう意味でも、大会運営関係者、選手や選手関係者には本当に感謝するばかりだ。北京オリンピックのときには、地上げ問題、今回のバンクーバーオリンピックでは開催中にも反対デモの報道はある。暴徒と化す映像も流れる。
 問題は、その映像に対してどういう評価をしているかということがマスコミには問われる。事実だけを垂れ流すのは社会的に無責任な問題行為だ。対岸の火事のような扱い方にも問題がある。視聴者にどうしたものかと問いかけるのも芸がなさすぎて問題がある。報道の仕方についての議論がなされないということから、どうしても甘えが生じる。
 この甘えからマスコミは逃れることができないことになっている。新聞を叩く新聞、テレビ局を叩くテレビ局。そうしたものがない以上は、報道が健康で合理的なものにはなり得ないのは当然のことだ。
 さて、オリンピック競技として認められない非オリンピック種目のスポーツというものに対する見方はどのようであればよいのだろう。一般的な感覚から判断して当然オリンピック競技として認められてよいはずなのに認められていないスポーツがもしあれば、それに焦点を当ててみればよい。
 そうすれば、近代オリンピックの本質の一面が明らかになるかもしれない。単純にオリンピック種目のスポーツと非オリンピック種目のスポーツとを様々に比較するのも様々な意味がありそうでおもしろそうだ。
 よく言われるのが、国際社会で一般的ではないからオリンピック種目として採用されないという理由が挙げられる。この理屈は至極当然のようではあるが、スポーツ振興というスポーツ界の土台となる目標からよく考えてみると、それがおもしろい理由であることに気づく。マイナーな存在であるからこそ、この一大祭典で紹介する必要があると思うのだ。
 選手も含めて、その組織が懐をあたたかくしない純粋なスポーツであることがマイナーな存在であることの大きな理由である場合が多いように思う。マイナースポーツを振興し、競技者が国際的に分布するように後押しするという努力を惜しむというのなら、オリンピックを開催する意義はただのメダル配り、国の威信を高める場の提供という程度に限られてきてしまう。それでよいのだろうかという問題だ。
 理想は理想ということで動きを出さないというのは活力に乏しいことの表れで、いつかはオリンピックの存在自体が問われることになりかねないだろう。せっかく復興させたオリンピックなのだから、新しい意義をもたせつつ、目的を達成できるように取りはからってほしい。
 選手について言うならば、メダルはなくとも入賞すれば立派だとほめられるべきところを、メダルがないということによって、入賞していない人たちと同格扱いされているような感じにさえ見える。
 どうにも四位以下の入賞者が過小評価されてしまいがちだ。これは入賞者に対するマスコミの取りあげ方に問題がありそうだ。情報を伝達するということは、何かほかの情報を伝達しないということの上に成り立っているはずだ。
 それらの情報が何であるかを知ったうえで、報道効果を考え、何を報道し、何を報道しないのかを決定しているはずだ。スポーツ振興を掲げるならば、これまで報道しなかったものをどのような形や内容で報道するかをまず検討するのがよいと思う。
 報道の自由と報道の責任というものをバランスよく実現するには、「責任」のほうに重点を置いて取り組まなければならない。これまでどのような報道責任を取ってきたかの歴史を見れば一目瞭然だ。
 少なくともそうしたマスコミの姿勢が、これからの選手たちにも悲壮な覚悟でオリンピックに臨まざるをえないような状況を、地域の人々をはじめとする全国民とともに形作ってしまわないようにしなくてはならない。
 今の若者は大舞台に強いなどと勝手に思ってはいけない。笑っていても平気な顔をしていても、それはそのように振る舞っているというのが本当のところかもしれないと疑ってかかるのが大人の思いやりというものだろう。
 もちろん、自分のことだけで精一杯の若者もいて、無我夢中であるために余計な重圧を受けとめてないだけなのかもしれない。「怖いもの知らず」ということはそういう情報不足によってもたらされるものかもしれない。
 何がどうあれ、オリンピック選手などはスポーツにおいて僕たち一般人は足もとにも及ばない存在だ。その優れた選手にプレッシャーをかけるだけかけておき、結果なき場合はあっさりと見捨てる姿勢のインチキマスコミは世界中にどのぐらいあるのだろう。
 見捨てるのは当然のことなのだが、それをストレートに出すのは賢いやり方とは思われない。見捨てるにも見捨て方というものがあり、そこにマスコミのささやかな品格というものが漂わねばならないと思うのだ。そこに優しさというものを演じるという余裕がなければ、小さな子供と同じで、必要ないから捨てたというのとかわりない。
 もちろん、その演じた優しさは偽物ではない。ただ、組織としての優しさとはそういうものだということだ。
 そこで、そうしたインチキマスコミから選手やスポーツを守るため、ここはひとつ今後のオリンピック選手育成のため、まっとうなマスコミには一肌ぬいでほしいと思う。どう一肌脱ぐのかって?それは僕なんかにはわからないなあ。

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