日々雑感272「時代遅れの僕」

 人生の卒業式は葬式だ。やはりお言葉と花束をいただく。だが、そこに本人はいない。あるのは遺体ばかりだ。子供はだから育てられ、新しい生活でこの世を仕切り直そうと毎日を送る。遺志は誰の子に継がれてもよく、何万年も繰り返し練られて形となっていく。その副産物としての文化や習慣、そして法律という力がその生き方を規定して、ほとばしる精神のエネルギーが暴走しないようにコントロールしているかのようだ。
 その束縛と自由の幻影に心を揺すぶられて過ごす一日一日は、わけもなくむなしく感じられたり、わけもなくすばらしく感じられたりする。しかし、素直なこころと真摯に向かい合う姿勢をもっていれば、日々新鮮な驚きと淡い期待と少しばかりの充実感で幸せな気持ちになることができる。
 三月末は、人が動く。去る者は日々に疎く、来る者は新しい風をおこす。同じ風景が趣を変え、いつの間にか新しい気持ちが生まれ、新しい顔が作られる。新しい顔に合った言葉が選ばれ、選ばれた言葉に新しい世界の光を見ることもできる。そこへ足を踏み入れるささやかな勇気があればよい。これまで集めなかったものを集め、これまで考えなかったことを考え、誰も考えなかったことをいともさりげなくなし遂げていくことができる。その背中を押してくれるものは、ここで繰り返し生活してきた人々の思いだ。既にいない人々のそれをどこから感じ取るか。
 残された書類、組織、習慣等々いろいろあるだろうが、それが見えるかどうか、聞こえてくるかどうかは心意気次第だろう。この心意気はどこから来るものだろうか。社会的に認められていなくても、身近な人に褒められることがなくても、心意気というものは生まれるものだ。収入に結びつかなくても、それどころか損をする場合でも、心意気というものは生まれるものだ。いったい心意気というものは何なのだろう。
 欲にそまることもなく、人を恨むこともなく、開拓の汗はどこまでもさわやかだが、自己満足だけで終わっていては未来はない。もちろん、本来は自己満足でよいのだろうが、どうやらそのおこぼれをほしがる周囲の人々がいたり、迷惑に感じる周囲の人々がいたりするのだからしかたない。名もいらず、金もいらず、命もいらない者の自己満足は、確かに迷惑千万だろう。傍若無人の生き方だと批判する者もいるだろうが、ではその者は何を成し遂げようとし、何を犠牲にしているのだろうか。
 心意気というのはそういうものだろう。一々無になる必要はないだろうが、夢中になれば無我となれる。夢中になれるものを見つけたり、見つからなければ、つくり出せばよい。生きるということはそういうことなのだろうと、こんな年になって漸く考えるようになってきた。せめて成人式までには思い至るべきだった。どこまでも時代遅れで自分ながら困ったものだと思う。

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「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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