突然思い出したこと135「動物愛護団体」

 動物愛護団体というものを突然思い出した。彼らはその活動の中で様々な糾弾をする。活動あっての団体だから当然だ。
 そこで、ふと思う。定職に就いている活動家と、活動自体を仕事としている人がいるが、後者はどこまで信用してよいのだろうか。何しろ愛護を仕事としているというのだから。今でこそ、それは不思議には思われないことなのだが、本来はかなり胡散臭いことであった可能性がある。
 仕事であれば、専門的であるという意味では純粋なのだが、経済の仕組みに組み込まれているという関係で、何かを利用していたり依存していたり何かの手段にしているというような、下世話な色彩が強くなることは避けられない。このために様々な意味合いが愛護の活動に宿る。
 しかし、これを不純だとし、善し悪しを云々するのは間違っている。最初から批判される性格のものではない。仕事としての愛護であれば、大規模に活動を展開できるはずだから当然だ。しかし、仕事であれば必ず金銭問題が絡んでくる。表向きはともかくとして、純粋であり続けるということは難しいが、純粋でなければならないという法はない。ただ、そうした点に見られるプロの限界というものは悲しいものだ。
 もちろん、仕事であれば組織化された人々の営みとなる。その組織の末端に位置する人々は純粋さを保てる可能性が高い。このあたりは宗教団体に限らずほとんどの組織で共通に言えることかもしれない。末端といっても二種類ある。文字通りの末端とその対極にあるトップ層だ。トップ層もある意味では末端と同じだ。正しく判断するための情報が不足しているということにおいて、しかも情報が吹きだまるということにおいてだ。それは純粋であり続けるための悲しい条件なのかもしれない。
 ところで、肉食動物は動物を食らう。動物愛護団体は、これに対して肉食動物を人間同様に糾弾し、動物を食うなと言うのだろうか。言いはしない。そのように言われたら、肉食動物は飢え死にするしか道はなく、己の歯や内臓をはじめとする身体全部が動物を殺して肉を食うように仕立てられたことを呪わねばならなくなるだろう。彼ら人間には、その飢え死にしていく彼らの呪いの咆吼も、単なる断末魔の咆吼にしか聞こえないだろう。
 だが、安心してよい。数ある動物愛護団体のなかにも肉食動物を糾弾するほどの愚かな団体はまだない。糾弾しても食肉行為は変わらず、だからといって肉食動物を絶滅させることは、動物愛護団体を名のる以上は不可能だからだ。従って、ターゲットはあくまでも人間だけとなる。
 確かに人間は動物を食わなくても生きていける。だから、ある動物愛護団体はその一点に着目し、一切動物を食うなと極端な主張をするかもしれない。また、ある団体は必要以上に動物を食うのはやめろと常識的な主張をするだろう。ほかにも動物をいじめるなと主張する団体、毛皮目的、医療目的など人間のために命を奪うことをやめろと主張する団体など、さまざまな団体が様々なレベルの主張をしていることだろう。
 この主張のレベル差については、差のある団体同士で話し合わせると、とてもおもしろい議論がなされると思う。その結果、彼らは人間というものが想像以上に勝手な生き物だということを描き出してくれることになるだろう。しかし、その勝手なところが、なぜか僕には人間の魅力だと感じてしまうところがある。
 さて、仮に最初に挙げたような過激な団体が植物愛護団体だったとしたらどうだろう。草食動物は己の歯や内臓をはじめとする己の身体が植物を殺して食うように仕立てられたことを呪うだろう。
 極端な考え方をする団体の主張を通せば、肉食動物も草食動物も神を呪うしかなくなる。本来の食物を食べるなという主張は、結果として神と対立することになってしまう。必然という神だ。もし、そうした団体が組織されたら、神と対立することについて追及していくのがよいだろう。
 「いやいやそうではない。必要なものを食べるのは仕方がない。必要に迫られて食べるのではなく、己の快楽のために弱い立場にある動物を殺したり虐待したり必要以上に食べることを糾弾したいのだ。」弱気になることはないだろうが、主張のレベルに差のある団体同士の話し合いを経験してしまえば、知性がある以上、おそらくワンランク主張を下げ、このように主張するようになるだろう。確かにこれならば、あまり違和感は感じない。正論として公に受け入れられるように感じる。
 しかし、違和感がなく、正論であればよいというものでもない。必要なものを食べるといっても、僕たちは本当にそれが必要なのだろうかと改めて問いただしたことがこれまで一度でもあっただろうか。伝統的な食文化の中では、その必要性について考えることをやめてしまっていることはたくさんあるに違いない。
 文化はものの見方や考え方の大前提になっているものだから、考え直すタイミングはどういうときに訪れるかといったら、実体験や書物を通して異文化に接したとき、あるいは極めて大きな失敗をしたり災害を受けたりしたときに限られるように思う。
 主食はどうして主食となったか。そもそもなぜ食い物を食うのか。生き物によってなぜ食い物が違うのか。なぜ味を感じるように体ができているのか。そうしたところから見つめ直した方がよいのかもしれない。特に雑食動物の頂点に立つ僕たち人間は。
 唐突なようだが、動物虐待という見方で食文化を見つめ直してみよう。動物虐待は確かにいけないことだが、動物を殺して食うことは虐待にあたるだろうか。
 人間は動物を食うなと主張する団体があれば、「それは究極の虐待だ。」と言うだろう。そこに矛盾はない。
 人間は必要以上に動物を食うなと主張する団体があれば、「己の快楽のためなどに動物を痛めつけたり命を奪うのはもちろん虐待だ。ただ、食べる分の動物を殺すときは苦しませずに殺さなくてはいけない。」と言うだろう。ここには苦し紛れの言い訳をしなくてはならない矛盾がある。
 考えるまでもなく、その主張は、食べるためだけに殖やすということ自体が虐待ではないかという指摘を受けることになる。食べてもよい動物とそうではない動物をどのように線引きしたのかという指摘をまず受けることになる。食べてもよい動物の中でも、実際に食べてしまうグループと、そうではないグループの線引きをどのようにしたのかという指摘を受けることになるだろう。また、いかにやさしく安楽に殺そうとも、結局は食欲を満たすために殺しているのではないかという指摘、そして生きるために生まれたのではなく、死ぬためだけに生まれさせられた動物に対して、それが虐待でないとしたならば、何なのかという指摘も受けることになるだろう。
 おそらく、食文化という一定の状況のなかで無意識に行っているのだから、それは虐待ではないと説明するしかないように思う。
 しかし、食わなくてもすむものをうまいからといって日常的に食うということはどのように評価されるべきことなのだろう。それが日常だから、文化だからといって果たして許されるものなのだろうか。
 そのようにつかれたら、動物は皆そうやって生きているではないか、人間も動物の端くれなのだから、そこを論議するのは意味のないことだと突っぱねるしかないように思う。
 もっとも、虐待趣味からではなく、屠殺も仕事として行っている以上は虐待ではないという理屈が人権の立場から通るかもしれない。確かに仕事を奪うのは人権侵害だ迫るのは単純な方法だが現時点では最も効果的であるように思う。
 しかし、人権を持ち出されたらこう切り返せばよいだろう。「仕事を奪うのではない。罪のない仕事を紹介するから考えてほしいということだ。さて、あえて君はどちらを選ぶか聞かせてくれないか?」
 食肉文化に対しても、同様に「文化を奪うのではない。罪のない文化を紹介するから考えてほしいということだ。さて、あえて君はどちらを選ぶか聞かせてくれないか?」と切り返すのがよいだろう。問題をすり替えるなと言う決まり文句を相手から引き出すことができたら勝ちだ。「僕たちはどんな問題にも答えなくてはならないだろう。僕は君が問題としていること、君は僕が問題としていることにだ。」と言って彼が問題としていることを改めて問いただし、じっくりと説明した後、「さあ、今度は君の番だ。」と続ければよい。
 ことのときにじっくりと説明できなくてもよい。「僕にはうまく説明できない。もしかすると僕は間違っているかもしれない。」と弱音を吐いてもよい。「では、君は僕のことばにどう答える?」と続けるだけだ。「その問いに答える必要はない。」と言われるかもしれないが、答える必要のないわけを問えばよい。そちらに答える必要はなくても、こちらには答えてもらう必要がある理由を訴えていけばよいだろう。たとえ答えてくれなくても、第三者の理解は得られることになるはずだ。
 ところで、食文化としての肉食が生活のなかにある場合、その文化のなかで育った人間は動物を殺して食べることを虐待とは感じない。当然のことだからだ。もちろん、それがなぜ当然なのかを考えてもらうことは必要だ。しかし、文化は批判されはしても否定されるものではない。だから、考えた末、動物を殺して食べるのはいけないという結論が出たとしても糾弾活動を行ってはいけないように思う。個人的にそういう結論に達した場合は、他の食文化圏に移住するか、自分の食生活をかえるという努力をするというのが道理というものだろう。
 もし、そのように考えるようになったら、肉を食わずに野菜や穀物ばかりを食べていればよいのだろうが、今度は植物愛護団体に糾弾されるかもしれない。「雑食動物なのだからバランスよく食え、必要以上に植物を殺して食うな。」という感じで主張するかもしれない。もちろん、植物愛護団体というものがあればの話だが。
 ともかく、食うべきか食わざるべきかという二者択一レベルの話は、最後には虐待か虐待でないかという論議になって収拾がつかなくなるように思う。しかし、毛皮を得るためとか、趣味のハンティングということになれば、議論していくなかで、およそは虐待であろうということに話が落ち着いていくことが予想される。
 もちろん、結論が出るだけであって、実際に行動を阻止しようという活動に移ることはないのが普通だ。日常生活のなかでは、忙しさや自分自身の問題に突き当たっているうちに、そのように考えたこと自体を忘れてしまうのが常だ。結局は何食わぬ顔をして日々を暮らし、一生を終えていくのが僕たち一般人だ。何食わぬ顔というのは文字通り何食わぬ顔というわけだ。
 活動家というものは、したがって特異な存在であるように思う。使命感のようなものを抱いているのだ。「おれがやらなきゃ誰がやる。今やらなきゃいつやる。」という気構えで清濁あわせのみ、広い世間の中で大きくはばたいて生きていくべきところを、それがかなわないと見たか、隙間問題を目ざとく見つけ、そこに取り組む自分に大きな価値を見いだしたかのようだ。その小さな世界の中で「おれがやらなきゃ誰がやる。今やらなきゃいつやる。」という気概を発揮するのは、それはそれで気持ちのよいことだ。何か一つでも変化を起こしたり、変化にかかわったりすることで、ますます生き甲斐のようにして熱中していくことができる。
 このような活動は、なりふり構わないところが尊敬できるのだが、視野が狭くなってしまっていることに気づけぬほどに活動を広げてしまうところには痛々しさを感じてしまうことがある。
 彼らにしても判断が難しいと思うのだが、薬の原料を得るためとか、医学の実験のためとかいうような、人間の医療や福祉にかかわる理由をもっている場合だ。僕たちにしても命を粗末にしているわけではないのだからよいではないかと、果たして言い切れるだろうか。どうしても情というものがはたらいてしまう。情がはたらいて主張がぶれてしまう人間という生き物。ぼくは人間のそういうところが好きだ。

★ホームページに戻る

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
カテゴリー: 突然思い出したこと パーマリンク

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google フォト

Google アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中