日々雑感279「ニュース番組の役割」

 ニュース番組はその役割を果たしているか。
 事実だけを伝えるという姿勢のニュース番組。事実をよりわかりやすく伝えるという姿勢のニュース番組。事実をよりわかりやすく伝え、さらに意見を添えようとする姿勢のニュース番組。事実をよりわかりやすく伝え、さらにより多くの意見を紹介しようという姿勢のニュース番組。もしかすると、勇み足で視聴者の意見や判断までも示そうとするものが今後は現れるかもしれない。
 しかし、現在の日本のニュース番組は、どんなに装いを新たにしても、また、ニュースキャスターをどれだけ取り替えても、そして、どんなに報道姿勢を改めても、視聴者が成長しない限り、進歩することはないかもしれない。
 その視聴者としての成長も、ニュースしか流さない放送局を作るぐらいのことをしなくては、変わらないかもしれない。一日中ニュースしか流さないほどニュースがあるかという問題もあるが、継続して報道すべき過去の事件、事故、さまざまな情勢変化などをニュースとして系統的に放送しようとすれば可能だと思う。
 これを国営放送と民間放送の両方で行う。ニュースの質の競争をしてもらうためだ。ニュースの内容が同じでも、どのように報道するかを視聴者は比べたいのだ。より深く知りたいのか、よりおもしろく伝えてほしいのか、考えるヒントまで伝えてほしいのか、資料の紹介や資料の提供までしてほしいのかは、ニュースの内容によって、そして視聴者によって異なる。単なる情報消費者としての存在に甘んじている視聴者もかなりいるように思う。下手をするとBGMとして消費している視聴者もいるかもしれない。
 さて、事実だけ伝えるといっても、入手し得たものの中から選び出した事実のうち、報道するにふさわしいものをさらに選び出し、しかも伝える時間枠内に入れられるものしか伝えない。選び出し方によっては、たとえ事実であっても、実態とは相当に異なるイメージが生まれる。
 それぞれの放送局の見識の異なったり、見識の高さが異なる編集者によるニュースは、結局は放送局ごとの異なるイメージのニュースとなり、発信されることになる。それを視聴者は選択して視聴し、それぞれに解釈する。
 しかし、それは互いに比べられない。同時に視聴するのは困難だからだ。視聴者が比べることができるように放送時間帯が異なればよいが、今度は視聴者にそれを視聴する時間の余裕の問題がある。しかし、世の中にはそうした時間的な余裕のある種族がいていろいろに比べる人がいないわけではないのだ。番組制作者としては当然競争意識を持っていて、比較されてもよいように意識的に制作する。何かの具合でこちらの番組を見た時に、それをきっかけとして視聴率のアップにつなげたいからだ。
 さて、意識的に比較して視聴した場合、そのイメージが異なると、ことがニュースであるだけに伝達内容に対する信頼性をお互いに失うことになる。
 そこで、ニュースの質の競争をするといっても、報道商売が軌道に乗っているうちは、情報源を共通のものにし、伝え方、添えられるコメント、説明のわかりやすさや説明の仰々しさで多少の違いを出すという比較的安全な路線を選ぶことになるだろう。
 通常は、広い年齢層の視聴に耐えられる程度のわかりやすさが求められる。せっかくの説明のことば自体が難しくては駄目だ。難しいことばは、イメージしやすく印象的でわかりやすいことばにして、噛み砕かれた表現にしなくてはならないはずだ。いかに事実を伝えても理解されなかったり誤解されるような表現では失格だ。
 新聞は紙に証拠が残るので、細かい配慮がなされていることが多いように思う。テレビのニュースではどうだろう。紙と違って読み返して確認したり分析したりすることが難しい。だから、一度聞いたらイメージが明確化しるような、余程細かい配慮がなされて原稿が書かれているはずだ。
 このようなわかりやすさ以前の問題として、事実と報道事実とはもちろん異なるという当たり前の問題が理解されているかどうかという問題もある。社会人でなければ事実と報道事実との区別はつきにくいのが実情だろう。さまざまな成長段階にある子供もニュースを視聴するのだから、それだけの覚悟をもって報道しているかどうかということが問われねばならないが、実際にはどうなのだろう。どのような配慮をしているかということを説明する用意はあるのだろうか。まさか無配慮ということはないはずだ。
 誤報という問題もある。誤報も数秒で簡単に謝罪してもらっても、それは形ばかりで、実際にはその訂正が視聴されていない可能性が高い。「訂正の放送を見ていない方が悪い。訂正した。謝った。それ以上のことはできない。報道人としての誠意は尽くした。」と自分に言い聞かせているのだろうが、「尽くす」ということは、あらゆる誠意の示し方をしたということであるはずだ。数秒の訂正と謝罪では、新聞の片隅に小さく載せるというのとあまり変わらないか、それ以下だ。新聞の場合は印刷物なので、音や光とともに消えさらず、購読者に時間差で伝わる可能性もテレビよりもかなり高いからだ。
 百歩譲って誤報ならば、訂正と謝罪をすれば形式的な責任については果たせる。しかし、報道しなかったニュースやでっち上げのニュースということになると、当然のことながら、形式的な訂正や謝罪すらない。情報の受け手は信じ込むしかない。
 例えば、劣化ウラン弾は無害だと言い切った政治家の談話をそのまま載せた新聞もあるが、それを読んで不信感を抱いた購読者は多いのではなかろうか。
 また、古くには人間蒸発の問題がある。これをどこまで追究して世論を高めたかということが問われることはない。これが実は拉致問題だったのだが、人間蒸発という大問題はいつの間にかニュースの世界では取り扱わなくなってしまった。この責任は大きい。おそらく追究している暇などないというのが理由だろう。では、誰がやればよかったというのだろうか。日本のジャーナリズムというのはその程度のものなのだろうか。
 ダイオキシンの問題も、アスベストの問題も同様だ。ある時期を境にどこも報道しなくなった。それから何十年も経ってから再び大問題になったのは、そのときの報道姿勢が甘く、さらに被害が深刻化したからだと思う。
 事件の当事者にはとても都合が悪いだろうが、ニュースは継続的に系統的に行うようにしなくては、もはやニュース番組とは言えないと思うがどうだろう。どのような理由であれ、報道しなけば、結果的にそうした手法で情報操作を行うという、ある意味で低俗番組になってしまうおそれがある。もう十分な世論となっていると判断したとか、「プライバシー」の侵害の問題が起きかねないのでとか、裁判への影響を配慮してとか、本人の将来を考えてとか、いろいろな理屈は無限につけられるから、うまくすりぬけられる。報道機関が卑怯者になりやすいのはそのためだ。
 もっとも、語弊を恐れずに言えば、ニュース番組の大きな役割は情報操作にあるといってよい。情報操作と言って人聞きが悪ければ、情報整理と言えばよい。その編集上の取捨選択は、第二の取捨選択だ。第一の取捨選択は、取材の有無だ。第三の取捨選択は講読の有無。第四の取捨選択は読むか読まないかだ。第五の選択はそれを心に留めておくかおかないかだ。
 ずいぶんと関門があるものだ。伝わるべき事実が意味のある事実として伝わるかどうかはずいぶんと運が絡んでいる。さらに、誤報だけでなく、視聴者の誤解もある。こうなると、きりがない。始末の悪いことに、某有名全国紙の記事はやらせが多いと聞く。その系列のテレビ局も天下り先のようなものになっているようだから、やはりやらせが多いかもしれない。このように思われてしまっているので、攻撃的な記事がどうしても多くなるのだろうか。攻撃は最大の防御だから、各紙、各番組の攻撃性と攻撃の矛先を分析すれば、その報道機関の罪の系譜が浮かび上がってくるかもしれない。これは報道機関に限ったことではない、個々の人間性もその攻撃性と攻撃の矛先を分析することで、その個人の罪の系譜が浮かび上がるのではなかろうか。
 その攻撃性には平和攻勢も当然含まれる。何を理想としているかということが、そもそもどういう面で怪しいかということなど、今の若者はとっくに気づいている。十年二十年前とはわけが違うということに気づけないからこそ、購読者の減少と視聴率の低迷に歯止めをかけることができないのだ。小手先の工夫や小さな知恵を働かせて凌ごうとするのではなく、姿勢を見直すという根本のところにメスを入れるという、自己改革をしなくてはならないはずだ。新聞を批判する新聞がないために、裸の王様になってしまっていることを自ら知るのは、取り返しがつかなくなってしまってからだ。それでは遅い。
 実際はどうあれ、報道機関が報道するものに対しての警戒心はもっていて損はないだろう。新聞社というものを一種の権威のように感じている人がいるのは、権威づけのためにコンクールを主催したり、賞を出したりするという類の活動しているからそのように感じられるだけであって、本質的にそのようなものは存在しないと、透明な目で見つめることが大事だ。そうしなければ、新聞社の評価が世間の評価の標準であるという錯覚はまだしも、新聞社が僕たち一般人のオピニオンリーダーだという錯覚をもってしまう可能性が出てくる。
 警戒心をもたないことによって生じる、こうした危険性は誰がいつどこで教えればよいのだろうか。新聞に載ったりテレビに出たりすることが、まだ一つのステイタスである現在、その権威的なものに対して警戒心をもちなさいというような、一見真逆のように感じられることを、子供に対して行う機会が学校や家庭に果たしてあるだろうか。
 では、どうしたらよいのだろう。主催者の中に名を連ねていても、子供のお年玉程度のお金だけを出しただけで、あいさつのことばすら辞退するという、どういう見識なのか理解に苦しむ新聞社もある反面、遠くから足を運んで丁寧な説明をし、ともに協力しがんばりましょうという新聞社もある。新聞社の名前だけでなく、担当者の一人一人のことばと行動からうかがえる「意識のレベル」で評価し、それがその新聞社の姿勢だと見なしていくしかないのだろうか。だが、そのような機会は子供にはない。
 新聞は新聞でそのようなことを承知の上で読めばよい。しかし、自分の努力によって読み進める新聞と異なり、努力せずに目と耳に働きかけてくるテレビは慎重に視聴したいものだ。もちろん、読む時の脳のレベルと同様の緊張感と集中力、そうした構えでテレビを視聴するのは難しい。
 しかし、小さな子供のパンチでも、無防備でいるときにくらえば、それなりのダメージを得るのと一緒で、思いのほか大きな影響を受けているはずだと考えたほうがよいと思う。だが、子供は読解力を身につけている途上にある。テレビの視聴にも読解力と同じような力が必要だろうが、そのような力を意識的に身につけさせる授業など学校にあるだろうか。
 このように考えると、暗い気持ちになってくる。しかし、簡単な方法で子供が自ら考える方法がある。それは比較だ。比較して異なるところはその気になれば誰でも気づく。もしかすると、子供の方が多く気づくかもしれない。常識が形成されていないために、常識による善意の解釈が少なく、変だなと感じたことは素直に変だと言うと思うのだ。
 しかし、そのためにはやはり比較対象がいる。個人的な都合で四紙読んでいた時期もあるが、共通ソースのもの以外はどれもまちまちの記事だ。そもそも掲載されている事件や事故が異なる。だから、比較するといってもそのあたりの比較から始めなくてはいけない。
 当時は、長年同一紙しか読んでいない人は、知らず知らずのうちに、無自覚にものの見方や考え方が同調していくという現象にみまわれる可能性が高いので、十分な注意が必要だ、という感想をもった。
 テレビにいたっては録画でもしない限り、同時に視聴して比較しにくいうえに、時間もかかってしまうので、新聞のように比較するのが困難だ。通常は、視聴率以外には他と比較されない存在だということだ。その分だけ新聞以上の覚悟がいるとおおげさに考えていた方が無難であるように思う。
 ニュースキャスターを変え、装いを新たにして、新しいニュース番組と銘打っても、どのような報道姿勢をもっているかということを明言するとともに、いろいろな意味で視聴者とつながっていないと独善的なものになり、視聴率だけで判断されるという結果を招くだろう。
 このようにニュース番組について考えたことはこれまでなかったが、結局、教科書もその他の書籍も報道もホームページも、すべてを鵜呑みにしてはいけないということだ。だからといって情報源をほかに求めるのは難しい。また、何歳未満は禁止とするわけにもいかない。鵜呑みにしてはいけないが、知らなくてはいけない。鵜呑みにできないから読まないとか聞かないというのは、それはそれで危険だ。このように懐疑的にならざるをえない状況を作り出してほしくはなかったと強く思う。
 やはり、テレビについてはニュース専門の局がほしい。視聴しているうちに誤報や報道の手薄な部分があったがゆえの不都合などがあぶり出されてくるはずだ。そうなれば表現の自由というものと、表現の責任について編集者も記者も番組制作者も今以上に考えるだろう。
 また、報道責任というものがある。これには、報道しなくてはならないという責任と、報道したことによって起こった不都合の責任の両方がある。「それを言い始めたら報道なんてできないよ」などというレベルの記者を一人でも減らすべく報道関係機関は研修会を重ねて意識のレベルを上げたり、自己研修を促進させたりする必要があるだろう。
 口先やペン先だけで勝負しているわけではなく、体をはっているんだという気概をもって仕事にあたっている人も多いはずだから、そうした社内研修や自己研修の充実を図ることなど何でもないことだろう。ニュース専門の放送局では、そうした研修の実際や、果たしてきた二種類の報道責任をどうとっているかなど胸をはって放送すればよいと思うのだ。そうすればニュース番組に最も欠けている、そして最も基本的な役割を果たすことになるだろう。

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