日々雑感280「いろいろな限界」

 ことばのやりとりで解決することは多い。しかし、ことばで表現することによって、解決しなくてはならない問題を抱えることも多い。ことばで表現するからこそ、招く誤解も出てくる。言い間違い、不十分な表現、意味の勘違い、聞き間違いなど、相手が確認しようとしない以上、本人が気づかぬことだから始末が悪い。
 こうした誤解に、曲解が加わるからややこしい話になるのが常だ。相手の誤解や曲解を踏まえた上で話の流れをコントロールするのも話術ではあるが、紳士的でない場合はただの悪趣味となる。
 電話のやりとりが誤解を招きやすいことは周知の事実だ。電子メールはさらに誤解を招きやすい。国語力の未熟さや、電子メールに慣れているつもりの電子メール文章作法知らずという現象も主たる原因だが、機器自体の限界もその原因として無視できない。
 そもそも誤解を招きやすい構造の文を書いてしまっても、一度に目に入る文字数の限界が液晶画面の大きさによる限界の方が肉眼の限界よりも小さいため、それが発見されにくい。出始めのころのワープロが一行しか表示できないために文章作成上随分と不自由であったのと同じだ。
 そこで、一文の文字数を減らす傾向が生まれる。もちろん、入力が面倒だからという理由もあるが、今度はことば足らずになってしまうという、コミュニケーションを成立させる上での基本的な問題を引き起こすことになる。短い一文を重ねながらも、誤解を防ごうとすれば、今度は全体が長い文章となり、テンポの良い会話にはなりにくい。そのため、苦し紛れに主な単語と記号などで雰囲気を伝える技は発展していくが、詳細な説明や深い判断を必要とする文章を構築することはできない。
 この事による不都合がトラブルを起こすことは日常茶飯事だ。しかし、残念ながらトラブルと認識されないもののなかにも、本人が気づかないだけの重大な不都合を発生させているものがある。それを知らず知らずのうちに受け入れてしまう感覚が培われてしまうことが恐ろしい。
 つまり、このツールに適するようなコミュニケーションレベルを日夜繰り返すうちに、コミュニケーション能力が偏向したり、そうしたバランスのよくないコミュニケーションレベルで支えられる程度の人間関係しか築きあげられなくなってしまう可能性が高いのだ。
 頻繁ではあるが貧弱な人間のふれあいというものが、電子メールによって主流になっていくと、本来はごく当たり前の人間関係に関する出来事に直面した時に必要以上に感動してしまうという事が起こりやすくなるのは容易に想像できることだ。これによる誤った人物評が人の幸不幸を左右する場合も出てくるかもしれない。
 そもそも、携帯電話やコンピュータを利用した電子メールのやりとりというものは、テレビ電話的に使う場合や百歩譲ってチャットを利用する場合を除き、テンポと雰囲気が命のおしゃべりには不向きな道具だと思うのだ。
 また、電子メール的な使い方をすることができるツイッターは最初から文字数に大きな制限があるのだから、心を伝えようと思ったら、俳句形式を取り入れるとか、中国語にして文字数をかせぐとか、表現を工夫しない限り、コミュニケーション頻度を高めるしかないように思う。頻度が高まれば、ぼろが出たり、正確に伝わったり、課題が明確化したりするので、最後まで読まれなかったり、途中で趣旨が変わってしまったり、やりとりの中で話題のポイントが流れてしまうような長大な電子メールよりはましかもしれない。
 いずれにしても、携帯電話を利用した場合は、誤解を招きやすい構造の文を発見しづらいだけでなく、変換ミスも画面が小さいことによる、一度で目に入る文字数の制限がきつくて発見しづらいことには変わりはない。そのうえ、ワープロソフトのような文書校正ソフトが備わっているわけではないので、表現上の過ちに気づきにくい。
 そこで、仲間同士で通用する、より簡単な表現が発達することになる。ところが、それは日常の社会生活や、仕事上の報告や連絡などには向かないものだ。だから、それを一つの文化として括って別物にし、利用姿勢を切り替える必要が生じる。
 明らかな変換ミスが仲間同士の間でなされたというレベルなら笑い話で澄むけれど、奇妙に意味が通ってしまう変換ミスが、仲間ではない誰かに対しての文章に入り込んでしまうのは、致命的だ。挨拶をして相手との距離を測ったり、表情の変化を観察しつつ行うコミュニケーションをとる名残が、今後の電子メール機能や文章作法で具現化されるようになれば、そうした不都合も緩和されるかもしれない。
 普通のおしゃべりなら長時間の会話になるために早い段階で両者がこうした不都合に気づく。その場の雰囲気と言語が一体化している言語、特に日本語は場というものが主語の省略等を許したりする傾向が強い。その日本語を使用しているにもかかわらず、お互いが共通する場にいないとなると、ことば足らずの表現や変換ミスの発見が手遅れになるという問題は、実は日本語と機械の相性の問題として考えなければならないことだったということになる。
 たとえ、誤解を招かない構造の文であっても、また、変換ミスがない場合でも、表現する時点で表現したいことと実際の表現が少しずれてしまうのは普通のことだ。理解される時にさらにずれて受け取られるというのも普通のことだ。仲の良い二人なら実際に出会うチャンスは多いので、その中でうまく修正されていくこともあろう。
 しかし、そうではない二人は、この二重のハードルを越えられず、問題を残す可能性が高い。便利なことばの、便利な分だけ不便な姿だ。ことばの一人歩き、つまり、ことばの敗北だ。使い所を間違った人間の知恵の情けなさだ。そして、その事態を誘発させた企業の責任だ。ここまで言ったら言い過ぎだろうか。
 人はこの手のことばに振り回されて時間を費やし、ことばの奴隷となる。ことばに埋もれて一生を終えるしかない。疑心暗鬼の恐怖。まやかしの曖昧なかおりの幻惑。でも、ことばの魅力には勝てない。突き詰めていけば、逆にことばを崇拝行為につながっていく。
 では、生のことばはどうか。話し合えば話し合うほどお互いに人間性が高まるという理想的な話し合いもあるが、多くの場合はそうではない。何かを言いあきらめたことで、決着をつけた、納得したと勘違いすることもある。また、ことばがつながらなくなって表現し尽くしたと勘違いしたことで、機の熟するのを待たずに次の段階である行動に移行してしまうこともある。そこが人生のドラマチックなところではあるが、残念ながら幸福にはつながりにくい。始末の悪いことに、ことばの連想から何かに気づけば、言いようのない高揚感を味わい、それで満足してしまうこともある。ことばの限界だ。そして、同時にそれは個人の能力の限界だ。
 双方の限界の中で、様々な現象が起こる。寂しがり屋はよくしゃべる。自信のない者もよくしゃべる。ことばの力で吹っ切れたいだけだ。こうなるとことばは麻薬の一種だ。好きなことばや好きなイントネーションで酔いしれることもありがちなことだ。
 このようなことばであるからこそ、ことばの表の顔には逆にそれだけ大きな価値があると信じたい。だからこそ、地球上のどの人々もことばを捨てず、人を人たらしめるものとして、どの動物もやり遂げなかったことまで、あえて、いや、やむを得ずやり遂げていく。もしかすると捨て鉢の原動力としてのパワーをことばに見出して大事にするのだろう。
 さて、ここではことばの限界、機械の限界、個人の能力の限界を思い浮かべてみた。その限界の平均的なところで世界が動いているように思う。その平均的なものに感覚が慣れてしまい、無知を理由とするもの以外は、どうやら突拍子もないことを僕たちは発想しにくくなっているように思う。
 このように、本来は突拍子もないことでも何でもないのに、突拍子もないという評価しかくだせないというところに、異端は排除すべきだという常識が自分にもまだ働いていることがわかる。異端は最終的には排除される運命にあるのだが、排除する前に異端にも果たす役割があるということを忘れてはいけない。異端が異端である理由を理解せずに排除してしまうと、異端ではないものの本質を見失うおそれがあるからだ。

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「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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