突然思い出したこと141「道程」

 「道程」という詩を突然思い出した。
 始めて目にしたのは、恐らく中学校一年生の夏休みの課題テキストの表紙裏辺りや普通の国語の問題集だ。教室の後ろの黒板にも今週の詩のコーナーで書かれていたように思う。
 
  道 程   高村光太郎

  僕の前に道はない
  僕の後ろに道は出来る
  ああ、自然よ
  父よ
  僕を一人立ちにさせた広大な父よ
  僕から目を離さないで守ることをせよ
  常に父の気魄を僕に充たせよ
  この遠い道程のため
  この遠い道程のため

 思うに道などはなく、あるのは解釈された記憶だけだ。どのように解釈してきたかで、これからの今の価値が測定される。その値が自分にとって不都合なものになってくれば、新たな解釈を試みればよい。ご都合主義だが、これを最低限の人生作法だとしなければ、この国に毎年三万人いると言われる自殺者の仲間入りをすることになる可能性が高くなるだろう。
 生きている限り、人に力を与えたり与えられたり、力を奪ったり奪われたりして変化していく。それが人の生き様の真実で、それ以上でもなければ、それ以下でもないように感じる。
 自殺者三万人に孤独死を加えたら何万人になるだろう。孤独死は半分自殺で半分他殺のようにも思う。誰かが関わって力を与えていれば生きながらえている可能性があるからだ。それを求めきれなかった分が自殺部分で、放置されていた部分が他殺部分だ。
 他殺された人間よりも自分で死んだり半分自殺半分他殺で死んでいく人間の方が圧倒的に多いというのは、考えてみれば恐ろしい社会だ。ひねくれたものの見方をする人は、他殺された人間の方が多い社会の方がまだ健全だと言い切るかもしれない。
 光太郎が言うように、長い人生を生きていくには気魄が必要だ。それを自然から得ようというのだ。家にこもっていてはその気魄のもとになるものの供給が絶たれていく。山に登ろう。川を渡ろう。海で遊ぼう。山や川、海にはそれなりの危険がある。この危険を楽しむ心意気さえあれば、自然から得られる力みなぎってくる。「虎穴に入らずんば虎児を得ず」だ。目が輝き、足どりも軽く、頭の中はさわやかそのものとなる。
  「現実」から「自然」に逃げるのではない。「自然」に戻って困難に正面から向き合うことを思い出すということだ。「現実」を力強く人間として生きるために、自然に戻って基本的な修行をするという気持ちで身を委ね、命を預けるのだ。
 自然という父は大きな障壁だ。しかし、そこに身を委ね、全てを捨て己の持てる力で生き抜こうとすれば、自然という母の胸に抱かれることになるだろう。それは命の終わりを意味するかもしれないが、生還すれば、また自分の足で力強く歩いていける。倒れて動けなくなるまで歩いていくのが、生き物の生き様だから、死ぬまでがんばりきることだ。それが可能なら、それだけで十分に幸福なことだと思う。
 自然はいくら厳しくても、自ずからあるがままのもので、ときに生き物にとっては厳しいというだけだ。そもそも生き物も自然なのだから、厳しいと感じるのは、自分が自然とは離れた存在だという意識があるからだ。だが、光太郎はその自然に見守っていてくれと言う。これはもう手出し口出しはするなということだ。父である自然と決別し、自分で歩くというのだ。それ以外に幸福になる道はないと考えたのかもしれない。
 逆に言えば、もう自然の懐に飛び込んでは行けないということだ。その時代はもう過ぎたという自分への宣言でもあろう。
 では、どのように歩んでいこうというのだろう。自然がそうであるように、人間も自ずからあるがままでよいはずだ。もちろん、あるがままとはわがままとは違う。また、無気力さとも無縁なあるがままだ。自分の信念に基づいて、理想の生き方を自分の足で歩んでいくということだ。それを底の方で支えているのは、これまで自然の中で鍛えられてきた感性や知恵や体力だ。そこから展開された社会性や処世の術だ。そして洗練された感性と表現力だ。その歩みの強さで、強者と弱者に分かれることになる。
 自然界の掟は、強者は勝ち残り、弱者は滅んでいくという厳しくも当たり前なことだ。このように言うと、「人でなし。それでも人間か!」と言われるだろう。また、人間も自然に滅んでいけばよいのに、踏ん張って進歩し、のさばっているから、随分とほかの生き物に迷惑をかけている。このように言うと、「おまえそれでも人間か?生き物は生き延びようと努力するのが自然だろ!」と言われるだろう。
 では、その人はどのようにしてきたか。募金をした?ボランティア活動をした?仕事をした?しかし、どの努力も最後まで見届けることはなかったはずだ。気持ちが大切だという。もちろんそうだが、現実の方がもっと大切だ。また一部の現実に深くかかわっただけでわかった気になってしまっていないか。ほとんどの人は口にしないだけで人並みなことはしているのだから、それで許してはもらえないだろうか。
 さて、ここまで来たら、人類に残された道は二つしかない。この星で争い合い、ほかの生き物も大方道連れにして滅亡するか、ほかの星へ分かれて移り住み、結末を先延ばしするかだ。その二つの道を分かれて両方に進んでいくのが人類の運命だろう。その大きな二つの道もそれぞれ行く末二股に分かれているのは言うまでもない。
 人間個人の道程も長いが、人類自体の道程も長くて厳しい。本当に人間が賢い生き物ならば、己の愚かさを正しく評価して友達にするしかない。そうすれば恐竜が姿を変えながら長期間生き延びたように、うまくいかもしれない。
 ただし、恐竜と違って負うものが人間には大きすぎる。苦悩と不安は、記憶と記録とともにつきまとい、何かとてつもない企画を打ってそれに邁進して夢中になっていなければ精神が病んでいくようなことになるかもしれない。そうでなければ、ある特殊な哲学が確立し、時代に応じた宗教となり、人間を支えていくのだろう。
 今思えば、人間に宗教が必要になった時点で、もう本当は無理があったのかもしれない。

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「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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