日々雑感287「風のように」

 一陣の風が吹きわたる。憤怒のうなり声に僕は首をすくめる。外行く人の襟を立て、小さな枯れ葉を走らせる。一瞬驚かされはしても、こんな自由で気ままな風が僕は好きだ。とにもかくにも風はさわやかではないか。
 人というものはその考え方が凝り固まると駄目になる。固まるという程度であれば一定の生きる姿勢を確立していると解釈されて、一般的には評価もされることなのだが、凝り固まった段階からは残念ながら同じ風しか吹いてこない。
 もちろん、ある意味安定しているのでわかりやすい存在であることは間違いない。周囲も予測可能の存在として安心できるのだが、意外性に乏しく、面白味に欠ける。また、妥協するということが自分を否定することにつながると信じているので、融通がきかない。そのため「妥協なきところ進歩なし」を知恵と心得ている一部の現実主義者たちを困らせるか、彼らが困らぬようなポジションに据えて適度に褒めておくというあしらいになることが多いように感じる。
 使いようだということだ。よく言えば、それは進化した優れた道具に似ている。特定の用途にしか役に立たないのだ。しかし、孤島に放り出されでもしない限り、人はそんなにマルチでなくてもよいようになっている。ある意味で社会というものに適応した存在だということだ。
 また、それはこうも言える。進化の過程でとある袋小路に迷い込み、姿を変えることのできなくなった生物にも似ている。そこから先はないのだ。つまり、特定の環境に自分を合わせた抜き差しならぬ状況を受け入れるしかない存在だ。
 恐らく、かつてうまくいった経験が精神的な宝となってしまったのだろう。トラウマの逆バージョンだ。そこそこの方法論を身につけてしまうと、それでよしとしてしまう傾向のある人に起こりやすい落とし穴だともいえる。
 これが駄目のもとになる。事は諸条件によって変化していくという基本を一定の成果を上げる中でいつの間にか忘れてしまうのだろうか。事の変化が起こる前に察知し、その変化に対応できる姿や姿勢に変わるきっかけをつかんで備えを怠らないという重要な作業をどうやら忘れてしまうようなのだ。
 何か勝負事のように勘違いしてしまうのだろう。自分を変えることが何かに負けてしまうということだと感じて臆病になり、それを解消するかのように強硬な姿勢をあえて周囲にわからせるような演出を試みることも度々あるように感じる。演出といっても積み上げてきた生き方なので、手順や影響を計算に入れることなく、それは自然に行われる。一見立派だが、はしたないことだ。
 お膳立てや後始末がより多くなり、それを大抵は他人が慮ることになるからだ。それはおよそ本人に気づかないようになされることが多いのではないだろうか。気づくことがあっても単純に「ありがたいな」と感謝する気持ちになるだけでは事は始まらない。感謝の気持ちが大事なのは、それが行動の改善を試みる動機になることがあるからであって、感謝すること自体に重きが置かれているわけではない。感謝して終わってしまったり、感謝して何らかの形でお返しをして終わってしまうのでは、謙虚な人間にはなれても自立した人間になれなれず、専ら「ありがとう」と言われる側の人間にはなれない。
 つまり、ただの感謝の言葉は必要な礼儀であり、相手に対する配慮に過ぎず、感謝の気持ちやお返しは本人の人間性の問題にすぎないのだ。実質的に周囲の人々のためになる自己改造につながるものでなければ決して自立した人間にはなっていかないものだ。
 さて、最初に戻るが、考え方が凝り固まった生き方の方が諸問題に取り組むときの配慮事項をクリアするハードルが低くなるので、達成感が得られやすいということがある。また行動に至るまでの決断が手順が少ないために迅速だ。また、金科玉条を胸にしているので悩みも少なく、不都合はたいていの場合、自然と相手に原因があるということになる。語弊を恐れず一言で言えば、楽ということだ。こうしたこともあって、その生きる姿勢が改められるケースは少ない。
 このことをもって信念があると評価されることがあるが、実態とはそぐわないものだ。つまり、見かけの信念というわけだが、大抵は自分を無邪気にも信じている本人自体が信念と感じているので、もはやそれを見かけの信念だと他人が言っても仕方がないことだ。
 信念の話になったが、信念の有る無しで、変幻自在の姿勢を持って生きているか、時代に流されて生きているかが決まる。
 信念は通さねばならないが、その信念を強く通そうとすると、その信念は折れる。折れたことなどないという人は、恐らく心の中で強く思っているだけで、組織的に行動を起こすまでに至った経験がなかったか、そもそもその信念なるものが信念たり得ぬような代物に過ぎなかったということだろう。
 問題はその信念の通し方だ。信念を通そうとする努力が、ときとして見苦しい生き様となって周囲を辟易とさせることがある。しかし、その見苦しい生き様を笑ってはいけない。また、その努力が稚拙で、周囲をはらはらさせることがある。これもその青二才ぶりを笑ってはいけない。
 笑ってはいけないどころか、己も同じ過ちをしていると考えた方がよい。自分の経験からも笑うことで己の過ちを見失ってしまうことはよくあることだからだ。また、同じ過ちを犯しているという疑いを持たねば、最低限の自己管理もできないだろう。
 およそ凝り固まるというのは、特定の個人内常識が固定化することだ。小さく薄ぺらな小世界の構築だ。もちろん、この小世界を積み上げていくうちに小世界が大きく再構成されていくのだから重要なことであるのは間違いない。ただ小世界のままで完結してしまう場合もあることに問題があるのだ。
 例えば、それは単純で理想的であることが多いので、理解されやすく、行動に移す前の最初のうちは多くの人からの支持を得やすい。そうしたこともあって次第に変な自信が生まれることがある。
 しかし、その反面、現実の世界に対応しきれない性格ももっているために、行動に移す場合、その行動の範囲を広げようとしたり、行動の程度を強めようとしたりするとたちどころに不都合が生じてくることがある。
 ところが、周囲の支持は得られやすいので、それが根拠のない自信となってしまうということがある。それゆえ、自分と方向性の合わないものは無視をするか、積極的に切り捨てて大抵はまともな議論をしようとしなくなる。もしその機会があったとしても、議論とは名ばかりの、大義名分を背に決まり文句を並べることに終始することになるだろう。
 そうした場面に直面すると、心が寒く、渇いていくのがよくわかる。そして、ひどく貧しい気持ちにさせられてしまう。
 だからといって、どこかで聞いた風な一般的な人生論を掲げ、何かに憑かれたようにしかめっつらして小難しく生きていくのも自然な生き方からは遠い。
 しなやかに、したたかに、さわやかに、いろいろな風を楽しく吹かせて風のように生きていきたい。

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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