日々雑感288「批判者の自戒」

 批判するときに楽しそうな表情を隠しきれない人々がいる。一度批判し始めると、それに快感を覚えるのだろうか、得意げな表情を垣間見せながら批判を続けるはしたない種類の人々だ。批判のための批判になっている場合にも、どうやらその中に漂う大義名分をかぎ取っているかのようだ。恐らくは、自分だけが批判しているわけではないという安心感や、大義名分があるという点が相手へのプレッシャーになっているはずだという確信のようなものを味わっているのだろう。
 当然のことながら、実際に批判する者の数が多くなると、その批判の勢いは増す。恐らくそれは批判することによって発生する責任を人数で割るという計算を無意識に行うからであろう。自分の立場が安全地帯化するのを確認しながら自己主張をするという臆病者特有の知恵だ。それは無謀な自己主張をする者よりは賢いと言える。
 一応、これで所属感や共感を得たことによる高揚感で貧しい心を満たすことができるので、表情は満足げなものとなる。しかし、何か自分の生き様に価値を見出したかのような感覚を得られるために、批判が単なる癖になったり、精神的傾向としてものの見方や考え方にまで偏りが生まれてきたりすることがある。特に、批判しているうちは自分が批判されにくいという味を知ってしまってからは、ますますその傾向が強化されていく。
 また、批判している間は小規模なトランス状態に陥っているかのようで、周囲の人々からは一見触れがたい存在となる。批判の矛先が自分に向くのを避けるという本能的な自己保身の心理が周囲の人々にはたらくのを見て取って、かの批判する者はなぜか批判する行為による不可侵の幻想に拍車をかけていく。この無言の了解の勘違いの様子やタイミングはよく観察しているとたいへん面白い。
 さて、批判を大勢でするためには表現を統一することが肝心だ。同じ表現で批判しなければ意志が撚り合わせられていく感触が得られにくいからだ。第一、批判される側が混乱する。もちろん、その混乱を起こさせることが目的であるならば問題ない。
 批判するということは、理解するよりも表現して打ち出すことが主たる活動だから、中途半端な行為だ。批判に対する反論はあまり考えていないので、大抵は、「話にならない」とか言って逃げるか、「逆ギレだ」とか言って自らキレたことを白状しながら反論に対するろくな反論もせず、反論に対する決まり文句の評価をして批判を終了してしまうか、その場を立ち去るか、その場を立ち去るのが悔しくて何か捨て台詞を吐いていくか、暴力に訴えるかがせいぜいだ。反論に対する正しい反論をする場面に出くわしたことはほとんどないのは寂しい限りだ。
 しかし、それは反論に対する正しい反論に対応しなければならないことがほとんどないということを意味する。批判することに慣れてしまった人々にとっては、批判に対する正しい反論にどう対処してよいかわからず、みっともないことになる。これを避けるために正しい反論をさせる機会を奪う必要があることを本能的に感じるのであろう、短くて奥が深く、逃げの打ちやすい「決まり文句」を創出して連呼するのは、その典型的な例だ。
 この「決まり文句」を創出する作業は批判の規模を拡大しようと思ったら、どうしても必要だ。「決まり文句」は文字数が少なく、表現が短いので論理の破綻がほとんどなく、あまり相手に隙を与えない。指摘するところが自体が少ないのだから無敵に近い。無言で見つめるという作戦の一歩手前だ。
 また、決まり文句であるだけに簡単にはぶれない主張となる。そして、その言葉足らずによって、印象的な文句になりやすいので、聞いた者の頭には残りやすい。また、短い表現は頭の中で反復されやすいということもあり、相手に対する精神的ダメージを計算に入れた形となる小汚いやり口となる。また、わかりやすい表現であるから、わかったことと正しいこととが頭の中で一致してしまう種類の人々に主張を拡大することができる。そればかりか、批判の気持ちをもっていない人々の口にのせることも可能だ。
 それは論議という手続きを排除する言い切りの切り札的な表現になりやすい。従って、討論の場にのせていけば、大抵の批判は無力となる。そればかりか反論の格好の餌食になることも多い。それらを本能的に理解した上での連呼は、話し合いを回避するばかりでなく、自らのぼろを出さずにすむ。
 「決まり文句」は、短いだけに一度言って終わってしまっては間が持たない。それでは場がしらけてしまう。しらけさせた方が負けだという判断がはたらくことは回避できないから、繰り返し連呼できる場を選ぶことになる。もし、その場のもつ意味が急変し、連呼できなくなれば、今度はその論拠を述べなくてはならなくなる。しかし、これは本質を理解している論客だけの能力だ。論客は数多くはいないから、責任の割り算がしにくくなる。
 また、決まり文句であるがゆえに、これを変更することができないという不利がある。それに対応する別の決まり文句を批判される側が用意していれば、たちどころに批判の力は無力化し、葬り去られてしまう。
 仮に議論の形を取ることができても、結局は「決まり文句」の応戦に終わるので、議論がかみ合わなくなる。従って、舌戦を繰り広げて戦わせて勝った気になっても、実は議論には勝っていないということもある。たとえ言い勝ったとしても、周囲の人々が、彼らによって何かが解決したり、世の中が変わったりしないとふめば、不毛の舌戦と冷ややかに評価される。
 強い口調で主張できたり、同じ種類の批判をする人数が多くなったりするだけでは自己満足だけで終わってしまう。そのことを第三者が強く思っていることを批判者は忘れてはいけない。つまり、言い勝っただけという始末では、何も始まらないどころか、その自己満足による弊害も第三者が心配しなくてはならないという事態を招くこともある。
 ただ、初歩的な話し合いにおいては、批判のための決まり文句だけに限らず、幾種類かの決まり文句の持ち合わせがあると、あまり頭を使わずに会話を構築していくことができるので、当人は会話したような錯覚を得ることができ、一定の満足感に浸ることはできる。これはその段階では大事なことだ。
 こうしたことを度重ねていくと、あまり頭を使わずに話し合いが完了することになり、しかもいつも同じような結論になる。いつも同じような結論になるので、話し合いに対する自信がうまれてくるという効果もある。そうなれば、また話し合いを行おうという気持ちになる。このようにして日常的に話し合う習慣が身につけば、その技量に磨きがかかってくる可能性が高まるだろう。
 もちろん、他人の決まり文句で思考するところから少しずつ脱却していく道のりを歩まねば、大変危うい。
 こんな考え方があるよという紹介のし合い、その考え方を比較していく話し合い、必要な考え方を打ち出していく話し合い。このような順序で話し合いの技術が身につけられていく過程で自分の批判力が培われてきたのか、それとも利害関係や保身が根底にあるがゆえの単なる受け売り技術に過ぎないのか。こうしたところから自己批判する気持ちのない人の批判力は、ただのわがままの度合いの大きさや声の大きさ、そして少しばかりの空気を読む力だけで構成されている可能性がある。これは日々自戒しなくてはならないことだと思う。

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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