日々雑感293「カンニングに対するコメント」

 携帯電話を使用した京都大学等での入試のカンニングの事件があり、一人の予備校生が逮捕された。
 これについて様々な著名人のコメントがなされているが、その内容の珍妙さには驚かされるばかりだ。僕は滅多に驚かない方だが、日本の著名人たちのレベルを誤解していた僕自身にも驚いた。
 特に驚いたのは、「日本の文化は性善説を基本にして、子供を信じて育てるのが基本」という発言があるということだ。その言葉自体にそれほど大した問題はないが、入試で子供を育てるつもりなのだろうか。大学は入試の結果で学生を切り捨てるのだから育てるも何もないだろう。入試に合格したものが入学式を経て始めて大学に籍を置くのだ。そうした手続きを経てから「日本の文化は性善説を基本にして、子供を信じて育てるのが基本」と言いながら日々の教育実践を行えばよいのだ。
 また、京都大学を非難する人たちがいるらしい。京都大学は監督を何らかの方法で処罰し、来年度から監督数を増やすなどの対策をとればよいだけのことだ。たとえ過剰反応だろうが何だろうが、大学の自由だ。もっとも、監督数を増やせば、また「日本の文化は性善説を基本にして、子供を信じて育てるのが基本」と言い始める人が出てくるかもしれない。だとすれば極力監督数を減らして「子供を信じている」ということを世に示せばよいだろう。
 しかし、人間というものは「性悪説」でも「性善説」でもわりきれないものだ。もとより善も悪もなく、己の欲に従って生きているだけだ。この欲というものを断ち切ることはできないので、結果として不都合が起こる行動についてはそれを説明し、敢えてその行動をとるものについてはこれこれこういう罰を与えるということを宣言しておくのがよいだろう。
 次に驚いたのが、「京大は死んだ。」というコメントを出した人がいるらしい。「たかがカンニングで騒ぎすぎる。」というのだそうだ。試験は試験でも入学試験だということを忘れていないか。多くの人はもうこの人のいうことを信じなくなるだろう。たぶん頭のよい人だから、一般的な学生の気持ちについては、恐らく本当のところが理解しにくいのだろうか。それにしても「たかが」とは随分と軽率な発言ではないか。
 「京大は死んだ」という表現はとても奇妙だ。これが「日本の受験生は死んだ」という言葉とともに表現されるのなら理解できなくもない。しかし、順番としてはまず「日本の受験生は死んだ」が先だろう。しかし、どちらとも間違った認識であることに変わりはないと思うのだがどうだろう。
 逮捕された予備校生が仮にこのカンニングをしなかったら合格できなかった学力だった場合には、このカンニングが発見されたことで、ある一人の人物が不合格になってしまうことを防いだことになる。彼のカンニングのために不合格の憂き目をみることになったかもしれない人物に対して、かの著名人たちはどのようなコメントをするのだろうか。その人物は二浪、三浪して京大に合格しようと歯を食いしばってがんばってきた人である可能性が高いと思う。
 今回の匿名の通報者は、人として学生として受験生として当然の報告をし、正直者が馬鹿を見る世の中にならないように勇気を振り絞って一大決意をしたのだろうか。それとも、彼の不正な合格のために自分が不合格になることをおそれて通報したのだろうか。たぶんそれは両方だろうな。

どこにいるの? について

「がんばったら疲れる。疲れたら休む。休んだらがんばる。」ということにしておこう。
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